斉藤夫妻の過去
「私達には百合という一人娘がおりました。それはそれは美しく、優しい子でした。名前の通り百合の花のように綺麗な子で、花のように大切に育てた子です。私達は家族三人幸せに暮らしていました」
娘がいたとは。まあ、孫がいてもおかしくない歳か。
だが、それだけ大切な愛娘を一人置いてこの館に来たのか? 娘は今何処に?
「昔から異性関係には悩まされてきました。一言二言、会話を交わした後ストーカーになったり、寝込みを襲おうと家に侵入してきたり」
「警察には?」
「何度も連絡しましたよ。パトロールは増やしてくださいましたが、直接的に何かがあったわけではありませんでしたから。それ以上は――。交際する男ができた時は連れてくるように言い聞かせました。変な男であれば、すぐ別れさせました。そうこうしているうちに娘は未婚のまま三八になっていました。私達は過保護すぎましたね。それは私達の反省すべき点です。それでも私達は平和に暮らしていました。あの日までは――」
過保護、か。
場合によっては毒親とも捉えられる。たった一人の愛娘なら依存しても仕方がないこと、なのか?
時治は言葉を続けた。
「一年前のことです。突然、ある男が訪ねてきたのです。訪ねてきただけならまだしも、家の扉を強く叩き、叫ぶのです。「百合は何処だ」と。こちらが「百合はいない」と言っても、扉の前に佇んでは、扉を叩き、叫ぶを繰り返すのです。何度も何度も。無視をしていればすぐに居なくなるだろうと、放って起きましたが、やがて叩く音は強くなり、こちらも限界が来ていました。娘は通報しました。早く来てくれ、と。でも遅かったんです。もっと早くに通報していれば……」
「それで?」
「百合の話では、男は薬物中毒だったそうです。我々は遊ばれていたのですよ。昭和に建てた古い家でしたから。あんな扉、ガタイのいい大男ならすぐに蹴破れたのです。私達は娘に向かう男に全力で立ち向かいました。殴られても、吹っ飛んでも、また足にしがみつきました。何度も脳が揺れ、体に痛みが走りました。それでも所詮は年寄り。大男に力で勝てるわけがありません。やがて娘に辿り着いた男は、隠し持っていた包丁で何度も何度も娘を刺しました。何度も殴り蹴りました。声も出ず、もう、手遅れだと諦めてしまいました。完全に脳が停止し、気づいた時には、百合ではありませんでした。ぐちゃぐちゃになった塊。顔の原型も留めておりませんでした」
(酷いことをするな。恨みでもあったのか)
「その後警察が到着して、状況を説明しましたが、既に逃げた男が捕まることはありませんでした……」
時治と菊は肩を寄せ合い涙を流して語ってくれた。
大事に育てた愛娘を失うとは、さぞ辛かっただろう。一年の間、ひどく苦しんだのだろう。
想像つかないほどの悲しみを私もねぎらう程度の涙を三粒ほど流してやった。
事件から数日が経ち、百合を殺し逃げた男が無事捕まったと連絡が入った。が、捕まった男に夫妻は違和感を感じた。それもそのはず、犯人は会ったことも見たこともない、他人だったのだから。
目の前で愛娘が殺され、気が動転しているとはいえ、やられた側は覚えているものだ。娘を殺した犯人の顔を忘れるはずがない。
この男ではない。知らない男だ。と何度訴えても警察には聞き入れて貰えず、事件は幕を閉じた。
時治は記者や自分のツテを使い、調べていくと、百合を殺した本当の男の身元がわかり、ハッとした。
その男の名前――千葉翔吾。彼は政治家の息子だった。全てが腑に落ちた瞬間だった。
要は、身代わりを立てたのだ――。
権力とは恐ろしい。政治家と警察は繋がっているとは有名な話だが、ここまでできるとは。一般市民がどれだけ嘆き、訴えたところで、権力に勝てるわけがないのだ。
自分の罪を棚に上げるどころか、無かったことにしてしまうとは……。千葉は平然と、安易な日常を送っているに違いない。斉藤夫妻の失ったものは二度と戻ってくることはないというのに。
何処か諦めきれずにいた時治に思わぬ幸運が迷い込む。
偶然出かけた街で、千葉を見かけたのだ。
チャンスだと思った。だが、何の計画もない。この男をどうしてやろうか――とりあえずは跡をつけることにした。
千葉が怪しいビルに入ってから、どれほどの時間が過ぎたのだろう。一瞬、帰ろうかと迷ったその時。
千葉がビルから出てきたのだ。
偶然にも千葉の足の向く先は斉藤夫妻の家の方角だった。
怒り、憎しみ、殺意、全ての負の感情を抑えて、咄嗟に馬鹿な老人のふりをした。
「テレビが壊れてしまって、直してくれませんか?」。最初は面倒くさいと渋っていた千葉も金の話をすると「弾んでくれよ、じいさん」とすんなり受け入れた。
幸か不幸か、千葉は時治の顔を覚えていなかったのだ。
家まで案内し、玄関にのこのこ入っていく千葉の様子に、愕然とした。一瞬にして、体の力が抜け、その場に倒れてしまいそうだった。
怒りを通り越して、もう全てどうでも良くなった。
「百歩譲って、百合の親である私の顔を覚えていないのは許しましょう。けれど千葉は、百合を殺したこの家すら覚えていなかったのです」
偶然、目の前を通り過ぎる蟻を足で踏み殺してしまった。そんな感覚だったのではないか。勿論蟻一匹殺した道など、人間が覚えているはずがなく。
気がつけば、庭にある花壇を起こす鎌を手に持ち、千葉の頭に向けて何度も振り下ろしていた。
時治は百合を殺されてた後、千葉を殺すまでの一連を涙ぐませながら語ってくれた。
ここまでが百合を殺した男への復讐劇というわけだ。
その後、千葉の遺体を山へ運ぶ体力などない年寄りは、庭にある花壇を掘り起こし埋めたというわけだ。
けれど、なんせ年寄りは遺体を埋める穴を深く掘れず、あまりに浅過ぎた。それが花が枯れる原因となり、イベントでの混乱した様子、時治の言葉を連想させた私は気づいてしまった。
恐らく、いや、確実にアベルも気づいてあろう事実だが、彼は咎めも脅しもしてこないだろう。
ただ知りたいだけのサイコパスだから。




