花が咲かない理由
夜、お風呂を終えて部屋に戻り、ふと思い出す。時治の言葉「今すぐ正門をあげていただくことはできませんか」。あれは一か八か、最後の賭けのようなものだったのではないか。無論、アベルが素直に聞き入れるわけもなく、その答えは虚しく散ってしまったが。
それでもナイフ一本片手に持ち、アベルに立ち向かおうとしていた。その勇気も度胸も、全て菊の為だろう。本当に立派な夫だ。
犯行に失敗しても責めることも怒ることもせずに、隣で笑みをこぼし、時治を支える菊も素敵な妻であるといえる。
穏やかで優しい夫妻。
一体何の罪で、この館へ呼ばれたんだ――。
「私達はもう人生を終わりにしようと思います」時治の言葉が脳裏を反芻する。
その言葉は片手に持ったナイフで、アベルを殺して終わらせるという意味か。あるいは、舞香のように自死を選択するつもりか。
気がつくと、私は斉藤夫妻の部屋の前で足を止めていた。
扉に向けて握りこぶし作り、優しく、弱々しく、ゆっくりと三回叩いた。
中から「はい」と力の抜けた声が聞こえた。
その返事からは少しハスキーがかった声だったことから時治だと理解した。
私は少し扉を開けて、遠慮気味に訊いた。
「少しお時間いいですか?」
いつもきっちりした服装の夫妻だが、少し大きめの楽な服装を着ているのを見るに、恐らく就寝前だったのだろう。
けれど、いつもの変わらない穏やかな笑みで頷いてくれた。
快く受け入れてくれた夫妻に軽く頭を下げて部屋に入った。
何か飲み物をと、ベッドから立ちあがり菊はペットボトルのお水を出してくれた。
ここに座ってくれ、とテーブルの椅子を引き、促されたので従った。
「どうしたの? こんな時間に」
菊の柔らかい声は不思議と安心するが、私は話をする前に、出されたペットボトルの水を喉へ流し込んだ。
「単刀直入にお聞きしますが、死ぬおつもりですか?」
ハッとした顔をする夫妻に、やはりか、と俯く。
「私達は充分長く生きましたから」
「でしょうね。ですが、最後くらい家で終わらせたいとは思わないんですか?」
私の問いに答えたのは時治だった。
「家ですか……そうですね。あの家はもういいんです。花を植えても上手く育ってくれませんから」
「まだ一度しか植えていないからではないですか?」
「え?」
「浅く埋めすぎたのではないですか? もっと深く掘らないと」
空気が変わった。先程の穏やかだった時治は、今私を鋭い目つきで見ている。
少し、追い詰めすぎたか? と思ったが、違ったようだ。
一瞬、二人から殺気のようなものを感じたが、この二人は既に人生を諦めた身。今さら、どうこうしようなどと思わないだろう。
「どういう――」
菊が言葉を切ったのは、時治が片手を上げてそれを制したからだ。
「相当頭がきれるようですね。バレてしまいましたか」
「いいえ、賭けのようなものです。もしかしたら飼っていたペットの可能性もあったので」
「いいえ。埋めたのは人で間違いありません」
賭けだった。ただの興味、好奇心で賭けてみただけ。だが、当たってしまったようだ。
私は今日一日ずっと、頭を巡らせていた。
デッサンのイベントの際、菊はガーベラを描いた。時治はそれを見て、懐かしい、といった。
二年前まで植えていたガーベラを急に植えなくなった理由、それは土が変わってしまったから。
土が急に変わることは、ありえないことではない。
それは温度や雨風の水分量の変化、様々な理由がある。が、植えた花が腐るということは根詰まり、水捌けの悪さも関係する。その下に何かが埋まっている可能性があるということ。
「どうして植えなくなってしまったのですか?」「土が急に変わることなんてあるんですね」アベルの質問には、いつも 意図がある。そして、私は見逃さなかった。企みを含んだ笑みを顔に貼り付けたアベルを。
埋めたものが死体であれば、やがて土に還るだろう。だが、それは今すぐの話ではない。長い月日を得て土に還るのだ。
歳を取れば土を掘り起こすことも苦労だ。浅すぎたんだ。もっと深くまで掘れば、花が枯れることはなかったのかもしれない。
埋まっている何かは死体ではなく、石の可能性だってある。だから確証はなかった。
極め付けは菊の反応だ。アベルの質問は予想外だったのだろう。あまりに露骨な反応から、思わず退席してしまうほどの何かが、そこにある、ということは明白だった。
その後の時治の行動も異常だ。
今まで大人しくしていた時治がアベルを殺そうとするとは。
だが、何を埋めたのかまでは私にもわからない。
「誰を殺したんですか」
「止めに来てくれたのだと、思っていましたが。貴方も酷な人だ。それを聞きたかったのですね」
私は時治を凝視し続けた。時治は何かの覚悟を決めたように微笑んだ。
「長くなりますよ」
「付き合います」




