生き残ろう
「その前に、少しお話よろしいでしょうか」
アベルの言葉を遮り、時治は席を立つ。
「時間厳守と言ったはずですが」
アベルは低くはっきりしたきた声で告げた。
「ええ、申し訳ない。けれど、今話したいんです」
自分のルールを壊されるのが嫌いなアベルは苛立ちを隠す様子もなく、呆れてため息を吐いた後、静かに頷いた。
時治は席を立ち歩き始めた。追いかけるように菊も時治の後ろを付いて歩いた。老人の徘徊でも始まったかと二人を視線で追う。やがてその足はアベルの前で止まった。
立ち止まった二人は、真っ直ぐと揺るぎない視線でアベルを見つめる。アベルの隣に座る私にとっても二人の顔が見やすい位置にある。
私たちの前に現れたのはシワシワの手を繋ぐ老夫婦。
時治が口を開いた。
「アベルさん、私達をこの館へ招待してくれてありがとうございました。私達はもう人生を終わりにしようと思います」
「そうですか」
「もうこんな酷いことはやめにしませんか?」
「何故です? やめませんよ」
「あまりに可哀想ではありませんか。まだ若い子もいるというのに」
「何を言っているんだ? 僕が誰か傷つけ、殺したりしたか? これは僕のしたことか?」
皮肉な笑みを顔に貼り付けてアベルは言葉を続けた。
「してないよな? 殺したり、殺されたり、勝手にストーリーを作っているのはお前らだ。僕に責任転嫁するな」
間違ったことは言っていない。アベルは誰かを殺したりはしない。ただ、ここへ呼んだだけ。見ているだけ。それを楽しんでいるだけのサイコパス。
「僕はお前達をこの館に招待しただけ、七日経てば正門を開けてやる。それまで楽しめ。ただの旅行だろう?」
それまで生き残れば、ここを出られる。
そう。生き残ればの話だ。無論、それまでに誰かに殺されれば生身の体で出ることは不可能。生でなく魂だけの解放となる。
「今すぐ、正門を開けていただくことはできませんか?」
「嫌だね」
子供らしくそっぽを向くアベルに、顔を顰め頭を抱える時治。
「何故ですか?」
「ルールだからだよ。僕が決めたルールは絶対だ」
顔を顰めた時治にアベルは更に挑発する。
「そう怒るなって。あ、今僕を殺そうと考えただろう? 分かってしまうんだよ。お前達の仕草や表情、声色で。お前達が今どんな言葉をかけてほしいのか、どんな言葉を言われたら苛つくのか、読み取るのは造作ないことだ」
時治はモゾモゾとぎこちなく手を動かした。服の袖から一瞬きらりと何かが光った気がした。
「時治さん。あなたが今、後ろで隠したナイフで僕の首を掻き切ることも可能でしょうが。貴方は優しいから、僕のような幼い子供を殺すことに心を痛め、行動できないでいる」
そうだろ? といわんばかりに得意げな顔でにやりと笑うアベル。隣には守護神、牧村がついている。いつでも杖を出せるよう、体を少しだけ前のめり気味に構えている。
時治は握っていた菊の手を離すと、ゆっくりと床に手と膝をつきアベルに土下座した。
「お願いします。どうか、もう解放してください」
老人の土下座にアベルは、情けの一つかけることなく、気味の悪い笑みを貼り付けたままあっさりと食堂を後にした。
(見ていられない)
私は時治に駆け寄り、背に手を当てた。
「おじいさん。そんなことしないでください。後少しです。耐えましょう」
時治の目から正気が消え、心ここに在らず、という感じだ。
時治の腕を支えて立ち上がると、「ばあさん、ごめんよ」。何とも切ない声だった。
「いいのよ。大丈夫だから」
案外菊は悠然としていた。普段なら人一倍驚いたり、悲しんでいたりで、今回時治の行動を見て心蔵が止まってしまうのではと不安だったが、そうでもないらしい。
その瞳はひどく穏やかで暖かいものだった。
絵を描くイベント以降の菊は、何となく、何かを諦めたような、何か吹っ切れたような。そんな雰囲気を感じる。
ふと、隣を通り過ぎる菊と時治からは独特な香りがした。
(何? この匂い……ああ、そういうことか)
これが、人生を終わらせようとしている、諦めた人間の匂いか。
ならば、そう決断したのなら。
(私は彼らと話す必要がある)
アベルは夕食に手を付けず食堂を出てしまった。こんなことは初めてだった。それ程まで腹を立てたのか。
「ここから出してくれ」――その類の話は二度目だ。ここへ来た初日、そして今日。
私達はここから無事に生きて出られるのだろうか。最後まで生き残ることを祈ろう。




