別れ
感情論だけで、どうにかなる世界に自分は属していないということを、この子はたった九歳にして既に理解しているのだ。
「今までありがとう。お父さん」
杏奈は握っていた父の手を、そっと離して私の傍へ来ると、「もうお別れしたから大丈夫」と目に涙をいっぱい溜めて、それを溢れないように手に力を入れていた。
何故かここに居てはいけない感情に駆られ、さっさと部屋を後にした。
その理由は葵と恵だ。
創の遺体を前にして、葵に縋る恵。哀れで愛しい恋人を両腕で包むように支える葵。
そのワンシーンだけで、まるで恋愛の舞台劇のようだった。
杏奈が見ているにも関わらず、むしろ杏奈はその光景を見慣れているかのように、見事なスルーをしていたが。
気分のいいものではない。
なんの確証もない。ただ、そう見えただけだ。憶測だけで判断してはいけない。
仮にそうだとしても、私には関係ない。
ただ、杏奈に見せるべきものではない。これだけは間違いない。そう思った。
館に来て四日目――。
現在死亡者は四人。今日一日で二人の人間が死を迎えた。
食堂へ戻ろう、というと杏奈は首を横に振った。
それもそのはず、実父の死体を見た直後に修羅場のような食堂に戻りたいとは思わないだろう。私の配慮が足りていなかった。
私と杏奈はどこか、落ち着ける場所を探して館内を歩き回った。
恵の泣き声が響き渡る二階は極力避けた方がいいだろうと、私の部屋へは連れて行かず、暇さえあれば本を読んでいるというので、杏奈を談話室へ連れていく。
私たちは強く手を繋いだまま。手を離すと消えてしまいそうな杏奈の背中を摩り、落ち着かせてから椅子に座らせた。
ところで、何を話せばいいものか。
何度も思うが、こういう時のマニュアルがあればいいのに。
「お父さんは、天国にはいけないと思う」
杏奈はそう言った。




