忘れてはいけない、殺人が許された館だということ
朝、誰かの悲鳴で目が覚めた。
何処か聞き覚えのある声――。
本来の声質に高い音が上乗せされたような女性の悲鳴。
何? 誰?
ふと、聞き覚えがある声だと思った。何度も聞いたことある声ではないが、特徴のある高い声。
その声の主を私は知っている。
――――舞香だ。
二度の悲鳴をあげたのは恐らく舞香だ。
部屋の扉の向こうからバタバタと聞こえる足音からは焦りを感じた。
スマホの時計を見ると午前六時。起きるには早い時間だが、私は好奇心から目を擦り無理矢理体を起こした。
部屋の扉を薄く開けると、目の前を葵が小走りで通って行くのが見えた。
起きたばかりのまだぼやけた視界で何があったのかと確認をすると、私と葵、誠の部屋と対極にある反対側の部屋。その内の一つの部屋に人だかりがができている。
あそこは確か――優作と舞香の部屋だ。
(何? 何があったの?)
舞香が悲鳴を上げるほどの何か――。嫌な予感がする。
私は恐る恐る舞香と優作の部屋へ向かう。
「あ、美紀さん……」
「何があったの?」
私は葵に聞いた。
葵は何も言わずに、舞香と優作の部屋に視線を向けた。
すかさず私も二人の部屋の中を視線を向ける。
そこには、目を疑う光景があった。
いや、最初からわかっていたはず。目を疑うなんて都合がいい言葉だ。
ただ一つ忘れてはいけなかった。
ここは殺人が許された館。
人だかりのできた部屋の中にはシングルのベッドが二つ。下に白い絨毯が敷かれ、その上に二人用のテーブルと二つの木製の椅子が置いてある。
正方形の窓が一つと、私の部屋と同じく本棚がある。
木製の家具と白色の家具で纏められた部屋は落ち着いた明るい部屋で舞香と優作も充分に休める空間だと思った。
これが恐らく昨日までの部屋の光景。
今、私の目に映る二人の部屋の中は赤が混じっていた。
白い絨毯の至る所に赤い少量の血がポツポツと滲んでいる。
テーブルに付いた血は手の形をしており、優作が触れたものにしては向きがおかしい。
手の指先が優作に向いているなんて、かなり腕をねじらない限りは、ありえない。
そして、椅子に座る優作は胸にナイフが刺さったまま血を流して目を瞑り、寝ている。
いや、これは死んでいる。
目の前の光景を見れば死んでいることは一目瞭然なのに、頭が動揺し、瞬時に死人だと解釈できなかった。
――――人が死んだ。
視界には死体がある。
異様な光景。中々見る機会のない貴重な光景。
この館で二度目の殺人が、殺された人間が、今、私の目の前にいる。
次々と集まった招待客達は言葉を噤んだ。
めぐみは手で口を塞いだ。杏奈と手を繋いで現れた創は一瞬この光景を目にすると、杏奈を自分の部屋に行くよう促した。
時治とキクの老夫婦は部屋を見ると、ショッキングな光景からすぐ様目を逸らし、お互いを励ますかのように手を繋いで「残念ね」と声を漏らした。
瑠夏と謙は部屋を一瞥すると、すぐ下に目を落とした。
いつの間にか隣には誠がいて、彼は私にも聞こえるほどの大きな独り言をこぼした。
「本当だったんだ……殺人が許された館……ここは、呪われた『アベルの館』だ」
アベルの館…………。
「何事ですか?」
目の前にある死体に怖気付いたせいか、後ろから声をかけられて体がビクッと反応した。
騒ぎに気づいて現れたのは牧村だった。
「あの……優作さんが……」
「死んでいますか」
「…………はい」
誠が声を振るわせながら牧村に伝えると、顔色ひとつ変えずに「アベル様を呼んできます」と一言残してこの場を後にした。
目の前の光景から目が離せず、私達は身動きがとれずにいた。
誰も部屋に入ろうとせず、優作に触れようともせず、ただ木のように立ちすくんでいた。
異様な光景はもうひとつある。
この部屋にはシングルベッドが二つ並んでいる。一つは恐らく優作の血が付いたベッド。
そして、もう一つのベッドには、両手で顔を覆い、声を殺すかのように静かに泣く舞香が座っていた。
この状況で一番怪しいのは舞香だ。
そもそも自殺か? 他殺か?
あちこちに付いた血、胸を刺された優作、テーブルについた不自然な血の手形。
いや、刑事でも探偵でもあるまいし、専門的知識があるわけでもない。いくら証拠を集めて、犯人を探したところで、それは得策だといえるだろうか。
「退いてください」
青いパジャマに青いナイトキャップを被ったアベルは、部屋に集まる私達の間を通り抜けて、躊躇なく部屋に入った。
(ナイトキャップ……本当に被る人いるんだ……)
アベルは更に足を踏み入れ、優作の前で止まった。
まるで人形を眺めるかのように暫く優作を凝視すると、アベルは優作の腕を掴んで何かをしている。
――何をしているの?
私よりも背の高い葵が前にいるせいでしっかりと確認することができないが、そんなに触って大丈夫なのか、指紋や証拠を消してしまうのではないかと不安に駆られた。
するとアベルは腕を後ろで組み、体を震わせ始めた。
それもそのはず。
アベルの住む家で殺人が起きたのだから。生々しく血を流して、息をしていない人間が目の前にいるのだから。まだ幼い少年が怖くて震えるのは当然のことだ。
かわいそうに――。
「…………フフフッ、フフフフフフフッ。アハハハハハハハハハハハッ! アハハハハハハッ!」
――――笑ってる……の?
「アハハハハハハハハハハハ!」
自分の目を疑った。彼の行動に呆然とした。
アベルは震えていたのではなく、笑いを堪えていたのだ。
なんて愚かな考えだ。私はアベルに情けをかけたのか? 幼い少年だから、と同情でもしたのか?
一番忘れてはいけないことだった。一度目の殺人を起こしたのはアベルだったということを。
啓介をバットで殴り殺したのは、この小さな少年だったということを。
「ああ、失礼。いや〜まさかこんな早い段階で殺人が起きるなんて。本当にあなた方に会えてよかったぁ」
アベルは笑っている。
目に涙すら浮かべて、それをこぼれないように手で拭いながら、これ以上笑わないように堪えている様子で。
「皆さんが気になっているのは、これが自殺か、他殺か、ですよね? これは間違いなく他殺です。部屋が荒れている様子はないし、特に争った痕跡もありませんが、優作さんはナイフで二度刺されています。一度目は背中から。二度目は正面から胸を。そして、テーブルにある血の手形は優作さんのものではありません。優作さんの手より一回り大きい手形なんです。不自然な向きもそのせいでしょう!」
やはり、他殺か。
――でも誰が? ――何のために?
正直、優作は如何にも恨みを買いそうな性格で、彼のことを怪訝していた人なんて、招待客のほとんどがそうだろう。
短気、癇癪を起こす、暴力を振るう、考えただけでも低俗な人間だ。けれど、たったそれだけの理由で殺すまでに至るだろうか。それも、会って数日の人間を。
「よって、一番怪しまれる存在の舞香さんは犯人ではないでしょう! 」
確かに側から見ても、舞香は優作を愛していたはずだ。
優作が一人でいる時も隣に行き、追い払われてもまた近づく。舞香は健気に優作に歩み寄っていた。どちらかというと、優作の方が舞香を煙たがっているように見えた。
「犯人探しをするのは自由ですが、皆さんにもタイムリミットがあります! あなた方の小さい脳を動かしたところで、何も解決しません。時間の無駄です! ここは天国です! 少ないタイムリミットの中、好きなことを好きなだけしてください! 以上解散です!」