7. 来訪者再び──女性と兄の親友
今日も、この小さき世界に心を寄せてくださり、ありがとうございます。
第七話では、新たな登場人物が風のように颯爽と現れます!
読んでくださるあなたにも、爽やかな風が届きますように(-人-)。
春の西陽が、夕刻前の診療所に斜めに差し込んでいた。
受付カウンターの横でカルテを整理していた藍は、玄関のベルの音に顔を上げる。
「こんにちは……」
低く澄んだ声。あの女性だった。前に“夢の話”をした、あの人。
少し痩せたように見える。肌の白さが目立ち、輪郭の影が深くなっていた。
(……大丈夫かな)
診察券を受け取りながら微笑みかけると、女性は軽く会釈し、待合室へ向かおうとした。
そのとき。
ガタン。
椅子の脚が跳ねるような音とともに、女性の体がゆっくりと崩れ落ちる。
藍はすぐに駆け寄った。呼吸が浅く、肩が激しく上下している。過呼吸だ。
「藍ちゃん、ベッドの部屋に!」
中原さんの声に頷き、女性の背を支える。背中が汗で濡れていた。
なんとか歩かせ、簡易ベッドに座らせる。女性は額を押さえ、かすれた声を漏らした。
「……水を、いただけますか……」
「すぐ持ってきます」
扉を閉めて廊下に出ると、中原さんが既に水の入ったコップを持って待っていた。
「はい、これ。お願いね」
「ありがとうございます!」
水を渡すと、女性は一口含んでから深く息を吐いた。
次の瞬間だった。
胸の奥に、何かが入り込んでくる。
生臭い匂い。胃の底が、ぐっと締めつけられる。
誰かの声が、心の内側に滑り込んでくる。
『……憎い。憎い。アイツが憎い。アイツなんて消えてしまえばいいのに』
耳の奥が熱を持った。ピアスからネモの声が響く。
──「下がるのじゃ、藍。これはお主のものではない」
藍は思わず一歩、後ずさった。
視線を逸らした途端、胸の重さがふっと引いていく。
(助かった……)
受付へ戻ると、中原さんが声をかけてきた。
「ありがとう、藍ちゃん。あのまま、しばらく休んでもらいましょう。診察まで少しあるしね」
「そうですね」
胸にそっと手を当てる。
さっきの感覚が、まだ体の奥に残っていた。
(……あれは、なんだったんだろう)
自分の中に、誰かの強い憎しみが流れ込んできたような。
やがて診察の時間になり、慧が女性を診察室へ呼んだ。
しばらくして戻ってきた慧に、封筒を渡された。
「……東雲のところに紹介状を書いた。会計のときに、患者さんに渡してくれ」
「転院……?」
「ああ。ちゃんと診てもらった方がいい。あいつのところなら安心だからな」
その言葉に、藍の肩の力が少しだけ抜けた。
胸の奥にこびりついていたものが、すこし和らいでいく。
***
夕方。閉院準備をしていたところへ、軽やかな声が響いた。
「よう、藍ちゃんじゃない。お久しぶり〜」
振り向くと、にこやかな笑顔があった。
慧の親友で精神科医、東雲 湊だった。
藍も何度か会ったことがある。爽やかで柔らかい雰囲気。
少しチャラく見えるが、そう単純な人ではない。
「東雲さん……! お久しぶりです。兄はちょうど診療が終わったところで――」
案内しようとしたところで、東雲がふと近づいてきた。
「藍ちゃん、ちょっと」
振り返った瞬間、すっと手が伸びてくる。
その指が、藍の髪をゆっくりとかき分け、左耳に触れた。
拒む間もなかった。
動きに迷いがなく、妙に滑らかで、まるで意図を隠しているようにすら感じた。
柔らかく、生ぬるい指先。
その感触が、皮膚の奥にまで入り込む。
首筋から背中にかけて、ぞわっと鳥肌が立った。
「変わったピアスだね。まるで……動物の瞳みたいな」
息が詰まりそうな距離。顔が、鼻先に触れそうなほど近い。
前髪の奥から、ふわっといい香りがした。
藍は反射的にのけぞり、自分の手で耳を押さえる。
「い、今、流行ってるんですよ、こういうの」
「へえ」
ちょうどそのとき、診察室から慧が出てきた。
(……ナイスタイミング!)
「声がすると思ったら、湊か。どうした」
「おー、慧。ちょっと近くに来たもんでね。顔出しとこうと思って。……てか、何そのメガネ。ダサくない?」
「受付の中原さんの推薦だ」
「不細工メガネってやつですね。先生がかけると、治療効果が上がるんですよ〜」
(……つまり、女性患者からの視線対策ね)
東雲は笑いながら、シュークリームの紙袋を差し出した。
「はい、お土産。皆さんでど〜ぞ」
藍は自分と慧の分を取り分けると、残りは中原さんへ渡した。
彼女は嬉しそうに受け取り、帰っていった。
扉が閉まったあと、慧がふと思い出したように言う。
「そうだ、ちょうどお前のところに紹介状を書いたばかりだ」
「お、そうか。 どんな患者さん?」
「不安症。精神科で診てもらった方がいい。頼むな」
わかった、と言いながら、東雲がちらりと藍を見る。
「ところで藍ちゃんって、ここでバイトしてるの?」
「ああ、今年からそこの大学だからな。手伝ってもらってる」
「ふうん……白月大学?」
「はい……」
「学部は?」
「心理学部です」
「なら、うちの病院のほうが勉強になるよ。来てみない?」
突然の勧誘に戸惑う藍を、慧が遮る。
「ダメだ。藍は学生で、資格もない。ここでも受付だ」
「精神科なら──」
「遠いし忙しい。ダメだ」
東雲は苦笑して、両手を挙げた。
「相変わらず厳しいお兄ちゃんだなあ。……じゃあ、せめてご飯でもどう?」
(この人は──笑顔で人の距離に踏み込んでくる。……気をつけた方がいいな)
「引っ越しの片付けが残ってて。おばあちゃんの家に住むことになったんです」
「へえ。慧は一人か、寂しいね。俺、ここに住んでやろうか?」
「いらん。さっさと飯行くぞ。藍は先に帰っていい」
「はい。じゃあ、お先に失礼します。東雲さん、お土産ありがとうございました」
背を向けた瞬間、東雲の笑顔が目に入る。
それは、どこか仮面のように見えた。
──第8話へつづく。(次話:8. 始まる修行──そして開く)
藍は、他者の内面に触れてしまいました。
自分のものではない感情。それでも確かに、胸を締めつけてくるもの。
“調節師”としての感覚は、もう動き始めています。
そして――兄の親友、東雲さん。
彼はただの“親しげな人”ではなさそうですね。
次回は『8. 始まる修行──そして開く』。
また静かなざわめきの中でお会いできますように(-人-)。
※次回から毎週火・金曜の22:00更新です。お楽しみに。