6. 夜の語らい──七界を調える者
本日も、この静かなざわめきに触れてくださり、ありがとうございます。
第六話では、藍が、まだ名もなき使命へ、そっと歩き始めます。
小さな目覚めの音を、そっと感じていただけたら嬉しいです(-人-)。
最後の患者を見送ったときには、もう7時を過ぎていた。
受付にいた中原さんが、パソコンの画面からこちらに顔を向けて声をかけてくる。
「お疲れさま。締めやっとくから、もう帰っていいわよ」
私は軽く会釈して、荷物を取りに行こうとスタッフルームへ向かう。
ちょうどその廊下で、診察を終えた慧とすれ違った。
「おつかれ。……大丈夫だったか?」
慧の声はさりげなく響き、その気遣いが確かに伝わった。
藍は自然と背筋を伸ばし、短く頷いた。
「うん、なんとかね。中原さんが助けてくれたし」
「そうか。……今日は上で飯でもどうだ?」
慧の何気ない提案は、彼なりの気遣いを示していた。
その一方で、どこかぎこちなさも感じられ、藍は一瞬のためらいの後、はっきりと首を横に振った。
「ううん、今日は帰るよ」
「そうか」
そう言って黙った慧のその視線の奥に、心配とあたたかみが見え隠れするのを、藍は確かに捉えていた。
「気をつけて帰れよ」
「うん」
自転車にまたがると、藍色に沈む空が、静かに夜を迎えようとしていた。
(……帰ろう。早く、ネモに確かめたい)
玄関の鍵を開けると、ほっとするような匂いが迎えてくれた。
木の香り、少しだけ古い畳の匂い。
すでにこの家に自身の存在がしみ込むのを感じた。
「……ただいま」
畳の部屋に荷物を置く。
祖母の部屋の扉が少しだけ開き、そっと覗くと、机の上に白いフクロウが佇んでいた。
「あれ……いつの間にピアスから戻ったの?」
声に反応するように、ネモがふわりと飛び上がって、ぽすんと私の肩に乗る。
白い羽根の感触。思わず笑みがこぼれた。
「玄関を開けたときじゃ。今日はよう働いたのう」
「うん。……疲れたけど、なんとかやれた」
「ようやっと、この家の血が動き始めたな」
「ねえ、ネモ。……“調節師”って、結局なに?」
肩の上のネモが、羽を広げる。
「少しはやる気になったようじゃの。よいか、藍。調節師とは、“七つの界”の歪みを調える者のことじゃ」
「七つの……界?」
ネモは、私の肩からひらりと降りると、床に片足をとんとんと叩いて指示する。
「ここに、絵を描いてみるのじゃ」
言われるままにノートを開くと、ネモが爪で指し示した。
「まずは、星を描け。六つの頂点を持つ星──六芒星じゃ」
ノートに、ゆっくりと星の形を描いていく。上向きと下向きの三角を重ねると、中央に小さな空白が残った。
「上向きの三角が、神界・仙界・精界。下向きが、鬼界・妖界・魔界。……そして、その中心が“人の界”じゃ」
私は、描いた図の真ん中を見つめた。まるで、何かの術式みたいに見える。
「この中心が、人の世界……?」
「そう。七界は常に揺らいでおる。それぞれが近づいたり離れたり、時に交わり、時に裂ける。……“調節師”とは、その境界を調え、世界の均衡を守る存在なのじゃ」
(……均衡、を守る)
「でも、私にそんな力があるとは……」
「そなたがそう感じるのも無理はない。……今は、まだな」
ネモは、少しだけ声を柔らかくする。
「おぬしは“視えて”おる。気配に触れ、境界の歪みに反応する。それは、“調節師”の素質を持つ証じゃ」
思い返す。診療所でのあの気配、夢のざわめき。
すべてが、現実とは違う“何か”に繋がっている。
「じゃあ……これから、私がやるべきことって」
「力を知り、術を学び、6つの界の“調の型”を会得することじゃ」
「わからないことだらけ」
ネモが目を細めた。
「まずは、自身の気配を操ること。その次は術の習得じゃ」
「気配と術?」
「各界の師から術を学ぶのじゃ」
その言葉が、胸の奥に火を灯した。ここから、何かが始まる。
──第7話へつづく。(次話:来訪者──再び女性と、兄の親友)
ここまで読んでくださりありがとうございます。
次回は『7. 来訪者再び──女性と兄の親友』
また静かな境界のほとりで、お会いできますように(-人-)。
※毎週火・金曜の22:00更新。お楽しみに。