5. こころに棲むもの──陰気な来訪者
今日も、この小さき世界に耳を澄ませてくださり、ありがとうございます。
第5話では、この日2度目の異質との遭遇か…?
小さな絆が、あなたの心にも届きますように(-人-)。
学食を出たところで、紗夜がつんっと唇を尖らせた。
「いいなぁ、慧さんに会えるなんて~!」
「いや、手伝いよ。しかもお兄だし」
「でもさ、イケメン兄ちゃんが白衣着てるとか、絶対眼福でしょ?」
(いや、それ身内にはなんのご褒美にもならないんだけど)
診療所は、祖母の家の近くにある。
ぱっと見は病院というより、カフェのような洗練された外観だった。
慧が引き継いでから、患者さんとの信頼関係もさらに強まっている。
やっぱり、昔から優秀な兄だと、藍は思う。
玄関のドアを開けると、ふわりとアロマのような香りが漂った。
待合室は、ぬくもりのある照明と落ち着いたインテリアで整えられている。
受付の中原さんが、手を振ってくれた。
「こんにちは、藍ちゃん。おかえりなさい」
「こんにちは。今日もよろしくお願いします」
荷物を置いてスタッフルームを出ると、中原さんが声をかけてくる。
「ねえ藍ちゃん、今日ちょっと、初診の受付やってみる? そろそろ実戦、実戦!」
「……はい。戦ってみます」
まだ不安はあった。けれど、中原さんがそばにいてくれると思えば、少し心強かった。
そのとき──玄関の扉が開く。
スーツをきちんと着こなした、長い髪の女性が静かに現れた。
「こんにちは。予約していた者ですが……」
「はい、こちらへどうぞ。保険証を拝見してもよろしいですか?」
声は平静だった。
けれど、保険証を受け取った指先に、ひやりとした冷たさが伝わってきて──
視界が、ぐにゃりと揺れた。
(また、この感覚)
そっとデスクに手を添えながら、悟られないように女性を見やる。
年の頃は四十代くらいだろうか。
背筋が伸びていて、動きにも品がある。どこか、隙のない印象だった。
でも、その笑顔の奥に、うまく隠された“何か”があった。
問診票には、「眠れない」「途中で目覚める」「疲労感」「不安感」「夢を見て疲れる」
そんな記載が並んでいた。
中原さんがそっと耳打ちしてくる。
「空いてるから、あのスペース、使ってみようか?」
少し不安があったが、藍は頷き、女性をパーテーションの奥へ案内した。
観葉植物のそばに、椅子が二脚だけ置かれた簡素な空間。
「少しだけ、お話をうかがっても、よろしいですか?」
女性は微笑み、静かに頷いた。
「……夢っていうか、断片的な映像、みたいなものが続いていて」
「内容は毎回違うんです。でも、どれも雰囲気が似ていて……」
「暗くて、胸がざわざわして、汗が止まらなくて……」
話を聞くうちに、“重さ”がやってくる。
頭がぐらりと揺れるような圧迫感。呼吸の奥が、微かに詰まるような感じ。
「訊くということは、それ自体が術になりうる」
左耳から、ネモの声が届く。
(訊くだけで、術?)
その言葉を、思わずなぞるように口にした。
「暗さ、ざわざわ、汗。毎回違うけど、どれも似た雰囲気」
女性が、はっと目を見開いた。
「そう、そうです。それ……です!」
その瞳の奥で、何かがぎらついた、ように見えた。
まるで、なにか別のものと一瞬、目が合ったような。
「あ、ありがとうございます。すぐにお呼びしますので、先生にお話しくださいね」
女性はこくりと頷き、席を立った。
その背中を見送ったとき、藍の肩から、ふっと力が抜けた。
カルテと問診票を持ってカウンターに戻ると、診察室のドアが開き、慧が顔を出す。
マスクと伊達メガネの下、目元は真剣そのものだった。
「藍、ちょっといいか」
藍は無言で頷き、診察室へ入る。
慧はカルテに目を通すと、静かに訊いた。
「何か、気づいたことは?」
「話しているうちに、何かを思い出しかけていました。でも、それがただの記憶じゃない気がして」
「ふむ。わかった」
短い言葉。それ以上は、何も聞かれなかった。
それだけで、少し肩の力が抜けた。
見えたかもしれないものは、言えなかった。
でも、もし言ったとしても、兄は否定しなかったと思う。
どんな話でも、まずはちゃんと聞いてくれる。
そういう人だと、藍は知っていた。
受付に戻ったちょうどそのとき、呼ばれた女性が立ち上がった。
その瞬間、空気が、歪んだ。
生臭さ。湿った空気。背中を押されるような、異様な圧力。
(まただ)
女性の背後が、黒い影とともに揺らぎ、視界全体が暗くなった。
そのとき。
「藍、触るな!」
ネモの声。
咄嗟に左耳に手を添えた。
ピアスがじん、と熱を持つ。
一瞬、視界のぼやけが引いて、まわりの明るさが戻ってきた。
(危なかった)
女性はそのまま診察室に入っていった。
直後、誰かに肩を軽く叩かれる。
振り返ると、中原さんが笑顔で立っていた。
「お疲れさま。よくやったわね」
藍は、微笑み返す。
でも、さっき感じた違和感は、胸の奥に残ったままだった。
“訊く”ことが、術になる。
自分は、まだ、何も知らない。
それでも。
知りたいと思った。
──第6話へつづく。(次話:夜の語らい──七界を調える者)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
藍のお兄さんはイケメンらしいです。
イケメン・独身・開業医・自宅持ち・妹想い……別の意味で怖すぎますね。
次回は『6. 夜の語らい──七界を調える者』
また、揺れる境界の先で、お会いできますように(-人-)。
※毎週火・金曜の22:00更新です。お楽しみに。