4. 無口な青年と符術
今日も、この小さき世界に心を寄せてくださり、ありがとうございます。
第四話では、藍が近づく小さな歪みの気配を、
そっと感じていただけたら嬉しいです(-人-)。
「以上で、本日のオリエンテーションは終了です。新しい生活、楽しんでくださいね」
拍手とともに、会場がざわめき始めた。
藍が手帳をしまって立ち上がった、その瞬間。
──ぐぅぅぅ。
お腹の虫が、見事に鳴った。
前の席の男子が振り返った瞬間、藍は固まる。
顔が一気に熱くなって、耳の先まで火がついたようだった。
(うわあああ……)
「緊張すると腹減るよなー」
「オレもさっき鳴った」
笑いがこぼれて、空気が少しやわらいだ。
隣の紗夜が、ニヤニヤしながら小声でつついてくる。
「ジュースしか飲んでなかったからさ……」
「そりゃ鳴るわ。行こ! 学食!」
初めての校舎。案内図をくるくる回しながら、ようやく学食の建物を見つけたときには、すでに長蛇の列ができていた。
立ちのぼる湯気。料理の香り。ざわめき。
その空気にふれた途端、世界がぐにゃりと曲がる。
(え、やばい。フラフラする)
「大丈夫? 席、先に探そ?」
紗夜の手に引かれて空席を探していると、さっき教室で見かけた男子たちが手を挙げた。
「ここ空いてるよー!」
「ありがとう……!」
席につくと、気を遣ってくれたひとりが「オレ、並んでくるね」と言ってくれた。
紗夜もすぐ後を追い、「うどんねっ!」と指を立てながら駆けていく。
(……みんな優しいな)
残されたテーブルの対角線に、もう一人の男子がいた。
顔をうつむけたまま、コンビニのおにぎりを片手に、ノートに何かを書き込んでいる。
前髪が長くて、表情は見えない。
ずっと喋らず、こちらを見ようともしない。
(静かな人だな……)
そのとき。
ふわりと、視界の隅で何か白いものが舞った。
(……蝶?)
目をやると、彼がふと顔を上げていた。
前髪の奥の、鋭い目。その視線の先で、小さな白い紙片が──空中に浮かんでいた。
くるりと回転し、音もなく──弾ける。
ふっ、と身体から何かが抜けていく感覚。
(あれ……?)
左耳のピアスが、じわりと熱を持った。
意識の奥に、ネモの声が届く。
──「……ふむ、符術で祓ったか。やるのう、あの青年」
(符術……?)
思わず、彼を見た。
彼は一瞬だけ藍の左耳をちらりと見てから、無表情で視線をそらした。
問いかけようとした──その直前。
「藍〜! お待たせ〜!」
声に振り向く。
うどんのトレイを持った紗夜たちが戻ってきていた。
「あ、ありがとう……! 払った分、あとで返すね」
「うん、さき食べよ!」
笑顔と、温かいうどん。
出汁が喉をすべり、胃にしみわたる。
ようやく身体が落ち着いてきた。
けれど──さっきの出来事が、頭から離れない。
白い紙。呪符のようなもの。空間の歪み。
(あの人……何者なんだろう)
左耳にそっと手を添えると、ネモの声が意識の奥に響いた。
──「見えておるのじゃ。あの青年も」
(見えている? 本当に……? 私だけじゃ、ない?)
声をかけたかった。問いかけたかった。
彼には、何が見えていたのか。あれは何だったのか。
そして──
(……私に、何が起きているのか)
──第5話へつづく。(次話:5. こころに棲むもの──陰気な来訪者)
藍は世界の境界に、初めて触れましたね。
無口な青年のおにぎりの具は、梅だそうです。
次回は『5. こころに棲むもの──陰気な来訪者』。
また静かなざわめきの中でお会いできますように(-人-)。
※次回から毎週火・金曜の22:00更新です。お楽しみに。