19. 蓋と器、重なる
毎度ご訪問ありがとうございます。
今回のお話では、当時の様子が少しずつ明らかになっていきます。
気に入っていいただけると、嬉しいです(-人-)。
襖の部屋には、ロウソクの灯りだけが揺れていた。
その柔らかな光に照らされて、二人の影が淡く揺らめく。
床には大きな和紙が広げられ、慧衣子は迷いなく筆を滑らせていく。
やがて星型の紋様が描かれると、藍を抱いた慧が静かに中心へと歩み出た。
藍を和紙の中央にそっと寝かせると、慧は差し出された手に目をやる。
そのとき、欄間の上からネモがふわりと舞い降りた。
白い羽がそっと慧の親指をかすめ、赤い雫が星の中心に落ちる。
赤がじわりと滲む和紙に、指の印が六方へ順に押されていった。
再び藍を抱き上げた慧が、慧衣子に視線を送る。
二人は言葉を交わさず、ただ頷き合うと、慧衣子は襖を静かに開けて庭へと去った。
「封環──蓋と器、いまここに重なれ」
ネモが詠唱すると、六芒星の中心から光が立ち上がる。
慧と藍の額がそっと触れ合い、藍の額に輪の形が浮かび上がった。
その輪はゆっくりと沈み、藍の肌の中へと消えていく。
眩い光が一閃し、中心が輝いたあと、やがてその光も静かに消えた。
部屋には再び、ロウソクの灯だけが残される。
***
庭では、慧衣子が大木に両手をついて立っていた。
「封環──蓋と器、いまここに重なれ」
慧衣子の詠唱に呼応するように、大木から淡い光が溢れ出す。
同時に、慧衣子の身体も光を帯び、その身に浮かんでいた染みがすうっと消えていった。
やがて、光に包まれた慧衣子の身体は、大木の幹に吸い込まれるように、静かに取り込まれていった。
***
室内では、慧が藍を抱いたまま、ゆっくりと立ち上がる。
六芒星の光はすでに失われ、静寂が部屋を満たしていた。
慧は襖を開け、無言のまま、ふらつきながら庭へと歩み出る。
生命の樹の根元にたどり着くと、そこに慧衣子の姿はなかった。
大木はまるで何事もなかったかのように、ただ静かにそびえている。
慧は藍を抱いたまま、そっと根元に腰を下ろした。
「……おばあちゃん……」
その小さな呟きは、夜風に溶けて消えていった。
ふたりはそのまま、寄り添うようにして眠りへと落ちていく。
木の枝から、ネモがふわりと舞い降りた。
「封文──記憶のかけら、静かに沈め」
その声を最後に、ネモの身体は小さな置物へと変わり、
ポトリ、慧と藍の間に落ちた。
***
藍と慧の記憶が戻ってから、数日が経った。
さまざまな感覚が頭の中を駆け巡り、藍の思考はまとまらなかった。
思い出したとはいえ、当時は幼く、状況を把握するには難しすぎた。
記憶に残っていたのは、圧倒的な恐怖と、内側から溢れ出すような強い力の感触だけだった。
欠けていたものが埋まった気がした。けれど、失った記憶と、これまでの現実の記憶をつなぎ直す作業は、簡単にはいかなかった。
ネモに聞こうとしたが、「慧がいるときに話したほうがよかろう」と止められた。
その日の午後、玄関のチャイムが鳴いた。
扉を開けると、慧と湊が立っていた。
「東雲さん……?」
「うん、当時の事件に湊の式が関わっていたようなんだ」
「僕もずっと調べていた。話しておきたいことがある」
後ろから、ネモがひょいと顔を出す。
「東雲もおったほうがよかろう。ワシも封印後、すぐ置物になっておったのでな」
居間に集まると、くくりが静かにお茶を運んできた。
四姉妹とクラは、空気を読んだのか、席を外してくれた。
「……あのとき、俺たちが気づいたときには、藍は正気を失っていた。憶えてるか?」
慧の問いに、藍はうなずきかけて、小さく息をついた。
「……うん。断片的にだけど。たしか、あの大きな木のところに行ったら……誰かがいたの。優しい目をした人で、何かをくれた」
「人?」
「うん。黒い、光る石。私の……顔が映ってた。その人が、それをまた取り上げたの」
「黒い石……」
「それから……誰かと話してた。そこにいない誰かと。その時、石が割れて──木から、何かが出てきた」
ネモが腕を組む。
「ふむ。恐らく、封印に裂け目が生じたのは、その石が原因じゃな。それを持ち込んだ人物がいたということじゃ」
「目的は藍だった……ということか」
湊が、少しだけ前に出て口を開いた。
「藍ちゃん、その人……長い髪で、淡い色の着物を着てなかった?」
藍の目が見開かれる。
「そう! そうだった……!」
湊の声が、低くなる。
「僕の式だった……木染だ」
慧が反射的に反応する。
「なに!? どうして湊の式が、藍を──」
藍が首を横に振る。
「ちがう!その人は、私を助けてくれた。逃げなさいって言って……“手”に向かって行った」
場の空気が凍った。
湊が静かに尋ねる。
「その後……どうなった?」
藍は答えようとして、急に表情を歪めた。
呼吸が浅くなる。肩が震えている。
「藍、大丈夫か? 顔が真っ青だ……」
「過呼吸だ。フラッシュバックが起きてる」
湊がすぐに指示を出す。「慧、背中をさすって」「わかった」
慧が藍の背中に手を当て、やさしく上下に撫でる。
湊は落ち着いた声で語りかける。
「藍ちゃん、顔を上げて。部屋の中を見てごらん。天井の角、壁の継ぎ目……角を探して。ずっと、視線を動かしてていい」
藍の瞳がきょろきょろと動き始め、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
「これは昔の記憶だ。今は何も起きてない。君は、家にいる。安全な場所だよ。怖いことは、何もない」
慧の手のぬくもりと、湊の声のトーンが、藍の心を少しずつ鎮めていく。
やがて呼吸は落ち着き、藍はかすかに頷き、口を開いた。
「……すみません。もう大丈夫です。 でも、あの人は捕まった私を助けてくれようとして……」
そう言った瞬間、藍の目から涙が零れた。
湊が静かに言う。
「──木染は、倒れたんだね」
慧がゆっくりと繋げるように言葉を重ねる。
「では……あのとき、倒れていたのが湊の式で──その木染を抱えていた人物が……」
言いかけたところで、湊が顔を上げた。
震えた声で、呟くように答えた。
「……うちの父だ」
ここまで読んでくださりありがとうございます。
また静かな境界のほとりで、お会いできますように(-人-)。
※毎週火・金曜の22:00更新。お楽しみに。