1. 継承の家と白い気配
ちょっと不思議な祖母の家を継ぐ──それは、まだ知らない扉を開くこと。
記憶の中にしかなかった場所が、再び息を吹き返す瞬間。
ここから、物語が静かに動き始めます。
その丘を上がると、大きな木の前に、こじんまりとした日本家屋が見えてきた。
木々に囲まれたその場所には、春の草いきれと、花の甘い香りが漂っていた。
引っ越しの日。
藍は兄の慧と一緒に、祖母の家へ荷物を運び込んでいた。
「藍、おまえ、ひとりで大丈夫か?」
段ボールを抱えながら、慧が眉を寄せる。
「うん。家財道具は残ってるし、身の回りの物があれば困らないよ。中も思ったより綺麗で……なんていうか、誰かが昨日まで住んでたみたいな感じ、しない?」
「母さんが業者でも入れたんじゃないかな。放っとけば、家なんてすぐ傷むしな」
「……聞いてないけど」
あの母が、そこまで気を回すタイプだったか。その疑問は、胸の奥にしまいこんだ。
慧は理系ではお決まりの現実主義者だが、藍の言葉を否定せず、きちんと聞いてくれる。
だからこそ、言葉はいつも慎重に選ぶようになった。
家の中を歩いていたとき、不意に、目の端で光が揺れた。
(今の、光?)
視線を向けると、祖母の部屋の扉が開いていた。
中には階段状の書棚があり、本や小物が整然と並んでいる。
その一角が、一瞬、またふわりと光ったように見えた。
思わず、そちらへ歩きかけたそのとき。
「藍ー! この段ボール、どこ置く?」
「え? あー、そこに積んでおいてー!」
慧の声に振り返った瞬間、光はもう、どこにもなかった。
(気のせい? ふふ、妖精だったらいいな)
荷物を運び終えたあと、慧と一緒に買い出しへ出かけた。
車を運転しながら、慧がぽつりと呟く。
「あの家いいかもな、落ち着く」
「うん、わかる。懐かしいっていうか、戻ってきた感じがするよ」
祖母が生きていた頃の空気が、今もどこかに息づいている気がした。
買い物の途中、慧はチェックリストを片手に、淡々と指示を飛ばす。
「水道、電気、ガス。ネットはスマホで当面いける。防犯が一番の問題だな。戸締まりは徹底しろよ」
「はいはい。治安いいし、そんな神経質にならなくても……」
「世の中、何があるかわからん。……本当は俺が一緒に住んだ方が安全なんだが」
「いやいや。お兄、診療所あるじゃん。上に住んだ方が絶対楽だって」
言葉が、少しだけ強くなった。ほんの少し、“女子大生のひとり暮らし”という響きに、憧れていた。
自立したかったのだと思う。寂しくなったら、実家に帰ればいい。
それに、診療所は手伝うつもりだ。どうせしょっちゅう顔合わせるし、寂しくなんて、なるもんか。
慧の横顔に、ほんのわずか影がさした。
それを見た藍のこころも、静かに沈んだ。
「そうだ、午後から診療所手伝いに行くね。初日は午前中で終わるし」
「おう。受付さんには言っておく。……あと藍、ちょっと患者の話、聞いてやれないか?」
「いやいや、心理学部一年にカウンセリングは無理!」
「もちろん、メンタルの問題なら東雲のところで診てもらうよ。初診票の確認の時に聞けたらでいい」
同級生の東雲さんは精神科医だ。私も何度か会ったことがある、兄が最も信頼する人の一人だ。
「まぁ、それくらいなら」
「よろしく頼む」
「りょ〜かい」
藍が右手で軽く敬礼の真似をしたところで、注文した料理が運ばれてきた。
兄が一口食べ、箸を置きながら口を開く。
「助かる。最近、“夢の話”をする患者が増えてるんだ」
──夢。
その言葉が、藍の中に何かを引っかけた。あの夢が、ふいに浮かぶ。あの光。あの気配。
言葉にできない感覚が、胸の奥をくすぶらせる。
なにかが、どこかで引き合っているような。
目に見えない何かが、ゆっくりとこちらへ向かっている気がした。
夕暮れ。
荷解きを終え、家の中を歩いていると、
足が自然と、祖母の部屋の前で止まった。
階段状の書棚。並ぶ瓶。古びたおもちゃ。
どれも、誰かが最近まで触れていたかのように整っていた。
部屋の隅。小さなタンスの上に、ひとつだけ異質なものがあった。
小さな白いフクロウの置物。
陶器のような質感。光沢のない羽。その瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。
(この子、前にも見たことがある気がする)
そう思った瞬間、ふっと風が抜けた。
書棚の一冊が、目にとまる。
背表紙には、
──“Call my name.”。
(誰の?)
その時どこかで、小さな音が鳴った。
肩が、ふとすくむ。
この家は、やっぱり──少し、変だ。
懐かしさと、不穏さ。
その両方が、静かに重なっている。
少し、ドキドキ、する。
その夜、藍は、微かな高揚感を胸に、まどろみに沈んでいった。
──第2話へつづく。(次話:2. ネモ、目覚める)
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
白いもぞもぞは何だったのでしょうか。
第二話でわかるかもしれません。
次回は『2. ネモ、目覚める』です。
第四話まで毎日22時に更新します。どうぞお楽しみに。