10. 東雲 湊という人──少年と式神の記憶
今日もこの物語に耳を傾けてくれて、ありがとうございます。
第10話は、湊の過去に迫ります。
小さな絆が、あなたの心にも届きますように(-人-)。
湊は肘をついて、窓の外をぼんやり見ていた。
風がカーテンを揺らし、中庭の光がちらついている。近いはずなのに、遠く感じた。
目を閉じた。
胸の奥に、鋭く突き刺さる痛み。
そこに、春の記憶が割り込んでくる。
(ああ、春だった。あれも)
思い出そうとしたわけじゃない。
あの人は、ずっと隣にいた。
いつからかなんて、もう覚えていない。
気づいたときには、もういた。
淡い色の着物、束ねた髪。静かな気配で、そばにいた。
そして、いつもこちらを見ていた。
式神。そう呼ばれていたけど、湊にとっては、それだけじゃなかった。
彼は、家族だった。少なくとも、自分にとっては。
名前は、木染。
家でも外でも、ずっと湊のそばにいた。
神社の裏で野良犬に吠えられた日、木染は一歩前に出て、黙って犬を見返した。
それだけで、犬は黙った。
別の日。道に落ちていた黒い羽根に手を伸ばしかけたとき、木染が手を添えてきた。「それは、返すものです」そう言って、風に放った。
またある日、路地に入ろうとしたら、静かに言われた。
「今日は右の路地は通らぬ方が」理由を聞くと、「あなたの気配が、少し目立っています」そう言って、進む道を変えた。意味はわからなかった。木染の言葉には、いつも嘘がない。それだけで十分だった。
印を結ぶ練習のときも、そうだった。
「うまくできないよ」崩れた手を見て、木染は黙って膝をついた。
「焦らずともよいですよ」
「でも、父さんに怒られる」
「術とは、上手くできることではありません。内にあるものを、形にするだけです」
小さな指を一つずつ正しい位置に直してくれた。その手は、ひどく優しかった。
「こう?」
「はい。そのまま、息を吸って」
意識を手に集中させると、まわりの空気が揺れた。ほんの少しだけ。
「お見事です」
木染は変わらない声でそう言った。わずかに目元がゆるんでいた。
庭の石畳で、組み手をしたこともあった。
「好きにかかってきてください」
「ほんとに?」
「はい。どこからでも」
湊は勢いよく踏み込んだ。けど、木染は一歩退いて避けた。横からも背後からも、全部見透かされているようだった。頭を空っぽにして、飛び込む。それでようやく、袖の先に指が触れた。ほんのかすかに
わずかでも、木染は評価してくれた。
「最後の動き、悪くありませんでした」
「勝てる気がしないよ」
「今は、“読まれる”ことに慣れてください」
その声には、静かな強さがあった。言葉の意味は、まだわからなかったけど。
春の日、縁側でお茶を飲んでいたとき、ふと思った。
「木染って、ご飯食べないの?」
「必要がありませんので」
「じゃあさ。僕が“おいしい”って思ったもの、今度食べてみてよ」
木染は一瞬だけ驚いた顔をして、それからうなずいた。
「わかりました。あなたが勧めるなら」
その夜、湊は卵焼きをつくった。おばあちゃんに教わりながら、甘いやつを。
小皿にのせて、木染に渡すと、静かに手を合わせて「いただきます」と言った。
一口食べて、ほんの少しだけ目を細める。
「どう?」
「……やわらかくて、あたたかい。あなたらしい味ですね」
その言葉に、思わず笑顔になった。
うまくできたかはわからない。でも、あの表情が見られた。それだけで、十分だった。
(あれが、いちばん好きな記憶)
やわらかくて、あたたかい。木染が笑ってくれた。
守ってくれた。教えてくれた。そばにいてくれた。
それなのに。
「どうして、あんな──」
顔を覆ったその手のひらは、氷のように固くて、冷たかった。
(僕が、木染を殺した)
封ようとも封じられない記憶が、胸の奥でじくじくと疼いていた。
──第11話へつづく(次話:11. 調える者──仙界との契り)
卵焼きのくだり、お気に入りです。
また境界の先で、お会いできますように(-人-)。
※毎週火・金曜22:00更新。