プロローグ 押し付けられた置き土産
この作品をご覧いただいている皆さまへ。
『七界の調節師』は、加筆修正を経て、2025年5月1日22:00より本編の第一章の1話から新たに公開開始します。
4話まで、毎日22:00に連続更新します。
新たな世界のはじまりを、ぜひ見届けていただけたら嬉しいです。
人影が二つ、対峙していた。
声には焦りが混じっていたが、互いの目は静かだった。
「時間がないね。今、決めるしかないよ」
「いいよ」
「すまないね」
「いいよ。でも、もう会えなくなる?」
「……今できる最善が、これだよ」
「……やろう」
再び見つめ合った二人の目には、迷いがなかった。
四方を襖に囲まれた部屋に、床を覆うほどの大きな紙が一枚、敷かれていた。
墨の匂いが鼻をつく。
その人の手には、迷いはない。
墨の線は端から端へと滑り、交差しながら、やがて星のかたちを描き出した。
模様の中心に向かって、手が差し出される。
欄間の上から、白い影がふわりと降りた。
気配はあるのに、物音ひとつしなかった。
親指から流れた血が、紙の上に落ちて滲んだ。
赤が広がるその紙の六方に、順に指の印が押されていく。
中央には、眠る子どもがひとり、抱きかかえられていた。
憔悴しているのか、それとも深く眠っているのか、目を覚ます気配はなかった。
二人は顔を見合わせ、微笑んで、うなずき合った。
先に一人が立ち上がり、静かに部屋を出ていく。
星の中心が、淡い光を放ちはじめたのは、そのすぐ後だった。
光が静まり、残された者もまた立ち上がった。
その背が襖の向こうに消えると、光はふわりと揺れて、静かに消えていった。
それきり、その部屋に戻ってきた者はいなかった。
あの日までは。
***
「大学も近いし、藍はあの家の管理お願いね〜!診療所とこの家は慧に任せたよ!」
あっけらかんとしたその言い方は、まるで「そこの食器、洗っといてね」とでも言うみたいだった。
そんな調子で、両親は研究のために、のんきに海外へ旅立っていった。
春。
入学する大学が決まったばかりの藍は、祖母が住んでいた家を、すでに、譲り受けさせられていた。
兄の方は診療所を兼ねた実家だった。
家のことも、移住のことも、すべてが終わってから報告だけ。
あまりの突然さに驚いたが、口をついて出たのはため息だった。
──まあ、いつものことか。
今回ばかりは、兄はかなり粘っていた。
自分ひとりならまだしも、患者さんを巻き込むことになるからだ。
だけど、どんなに言葉を尽くしても、あの自由人たちには通じない。
のらりくらりとかわされて、最後には、力なく──折れた。
──結果は、最初からわかっていた。
その夜だった。声が聞こえてきたのは。
「藍――起きて。はやく、はやく。」
誰の声かはわからない。
目が覚めたあと、みぞおちが、ざわついていた。
実家から少し離れた丘の上に、その家はある。
祖母が亡くなってから十年以上も経つのに、庭の草木は整えられ、室内には埃の匂いすら漂っていない。
まるで、いるはずのない “誰か” が、ここを守っているかのようだった。
不思議と怖さはなかった。
むしろ、ずっと昔から知っていた場所に帰ってきたような、懐かしさに包まれた。
祖母が亡くなったのは、藍がまだ幼い頃。
思い出は、ところどころ抜け落ち、断片のまま残っている。
目の端に揺れる、なにかの影。
障子の隙間にふとよぎる気配。
ひらひらと舞う、光。
成長するにつれて、それらは現実の中にゆっくりと沈んでいった。
学校生活、友達、試験。
日々の忙しさが、見えていたものを少しずつ、上書きしていった
春からは、普通の大学生活が始まる。
藍は、そう思っていた。
この家で出会った、 ”知恵の結晶” が語ったこと。
“七つの界”
“調節師”
“カタヨリ”
”境界”
この家が、藍を待っていた理由。
静かに息づく“何か”が、今、目を覚まそうとしている。
それは、崩れつつある世界の均衡を、調えるための物語――
藍に託された、お役目の始まりだった。
──第1話へつづく。(次話:1. 継承の家と白い気配)
ここまで、この小さな世界に耳を傾けてくださり、ありがとうございました。
伏間 藍の歩みは、静かに、でも確かに、未来へ続いていきます。
次回は『1. 継承の家と白い気配』です。
新たな始まりで、またお会いできますように──。