2:ワン公と、森の主。
「ふうむ、ワン公め、やりおる」
ベリアルの森、そびえる大樹の中ほどの枝の先。
郷音はそんな、良く言えば見晴らしのいい、悪く言えば不安定で危なっかしい場所に座って一時の休養をとっていた。
全身、血に塗れた姿で。
「三体までなら相手もできるが、やはり十も二十もいるのでは得物ひとつではままならぬわ」
言いながら郷音は自分の体をくまなくチェックする。
「ふうむ、傷はひとつも、ないか」
二十を超す郷音いわくワン公。
鑑定が告げた名前はウルフルというのだが、その群れに出逢い、無謀にも突っ込んでいった挙げ句、数に任せた返り討ちにあってここまで逃げてきた郷音。そんな郷音に傷ひとつないというのだから、その血のすべては返り血かといえばそんなことはない。
確かに噛まれた、引っ掻かれた、転び打ち据えて額が裂けた。
内蔵のひとつふたつは、こぼれ落ちたような気もする。
の、だが、しかし。
「あっさりと傷の癒える体……か」
そう、ウルフルの群れから逃れ、この樹上に登ってほんの数分、ほぼ死んでもおかしくないほど傷だらけだった郷音の傷はすっかりけろりと治ってしまったのである。さらには、ずたずたになったはずの着物までも新品同様すっかり元通り。
見れば、血の染みまでも、ゆっくりと消え始めている。
「なんぞ神がそのようなことを言っておられたが、まこと便利な体であるなぁ」
そう、今の郷音の体はすこぶる便利なのだ。
まず傷が即座に癒える。
さらに、服は破れても汚れても同じく即座に修復され、刀身は毀れず血糊も消える。その上、その回復力は空腹や睡眠にも効くようで、寝ずとも疲れず、食わずとも飢えない体となっているようなのだ。
と、言う事に気づいたのはゴブリンを屠ってより三日後、今から換算すれば二日前のことだ。
「まさに剣の道を極めるにはもってこいではあるが……食うも眠るも不可避の道楽となったのはちと惜しいな」
そうなのだ、今の郷音は寝る必要も食べる必要もない。
しかし、これまで通り腹が減る。眠気もまた、ちゃんとある。
21世紀の人間であれば、それは脳の働きによるなんじゃかんじゃと説明がつくのだろうが、いかんせん戦国生まれの郷音にとっては、それは、不可避の道楽という業を背負ったようで少し億劫なのであった。
「今もまた、疲れておるような、ないような」
そう、厳密にいえば、休養の必要など郷音にはない。よって、疲労など存在しない
疲れているとは言い難い。
しかし、激しい戦闘と逃走の後、しかも、体中に傷を負った事実の直後であれば、自然と体が休みたくなる。それを疲れていると言えば、言えなくもない。
とりあえず、なんとも不安定な心持ちなのだ。
「ははっ、勝手が良いのか悪いのかわからん体よな」
郷音はそう言って笑うと、枝の上でムクリと体を起こした。
そして眼下を見据える。
「ううむ、待ったところで去ってはくれぬか……なれば」
そこには、郷音同様、体中血濡れて毛がべたりとはりついたウルフルの群れが口から白い息とよだれを溢れさせながら唸りを上げて待ち構えていた。
その様子、さながら地獄の釜の中。
しかし、郷音はそんな地獄の釜の中を覗き込んでニヤリと微笑むと、瞬きほどの躊躇もなく飛び込んだ。
「ワン公ども、今度こそ、失礼仕る!」
叫びながら、まず直下のウルフルの頭に着地するや、まるで因幡の白兎のように、ウルフルの頭や背を踏んでぴょんぴょんと飛び回りはじめたではないか。しかも、それは、ただ飛び回っているのではなかった。なんと、ウルフルの身体に降り立つその度にその体を突き刺してはウルフルを一匹づつ確実に仕留めているではないか。
「はっは、やはりこれならばよさそうであるな」
高らかに笑いながら、ウルフルの体の上を飛び回る郷音。
そのたびに、噴水のごとく上がる血しぶきと断末魔。
その光景は、郷音にとってみればさぞかし愉快なものなのであろうが、ウルフルにとってみれば、なぜそうなっているのかも、敵が何処にいるのかもよくわからないまま、次々と仲間が血を吹いて死んでいくという地獄のような光景であったに違いない。
このまま飛び続ければ、ウルフルは全滅する。
ただ、そこは郷音。
一方的に死角をついて殺し続けるなどという戦法は、はじめこそ心地よかったものの、だんだんとその単調とも言える《《作業》》に飽きが生まれてきた。
これでは全く、楽しくないのだ。
「ふむ、残りは十足らず、降りて戦うかの」
そう言うと郷音は、背に乗るウルフルの頭に突き刺した刀をぐいっと引く抜くと、血しぶきにまみれて、そのままひらりと地に降りた。
途端集まる、殺気立ったウルフルの視線。
「おお、おお、湧いておる湧いておる」
郷音はそう呟くと、躊躇なくその殺気めがけて飛び込んだ。
「失礼仕る!」
そして始まる、一人と十匹近くのウルフルによる大乱闘。
「癒えるとはいえ、怪我に慣れてはならぬぞ、郷音」
郷音は、声に出して自分にそう言い聞かせながら、次々と迫りくるウルフルの牙や爪を紙一重で避けていく。そして避けると同時に抜き打ちでウルフルの体を斬りつける。
一方ウルフルも、連携をもって郷音を攻める。
一匹が喉笛に飛びつけば、その間に腹と背に一匹ずつ、足元に二匹と同時に牙を剥き、それと同時に郷音に体に手当たり次第爪を立てていく。
「やりおる、やりおるな、ワン公共!」
飛び散る血しぶき。
体から、呼気から、そして生暖かい血液から立ち込める蒸気。
その蒸気が濃くなればなるほど、互いの体が血に染まれば染まるほど、そして、痛みが全身の感覚を麻痺させればさせるほど、狂気の中で爛々と瞳を輝かせ、動きを洗練させてゆく郷音。
つられて、ウルフルたちも、狂気に導かれるように踊り狂って殺到する。
「楽しいよな、楽しいであろう、ワン公」
それは、まさに剣舞。
彼の故郷である寒田の庄に伝わる寒田神楽に見る神話の一場面のごとくに、迫り来るウルフルと郷音が、鮮やかな真紅の装束を纏って、また、同じく真紅の紙吹雪舞い散る中、狂おしくも楽しげに踊る、踊る。
舞い踊る。
終焉に向けて、数を減らしながら。
そして、最後の一匹がパタリと地に伏し、その神楽舞はしずかに幕を閉じた。
「感謝致す、安らかに逝け」
と、その言葉を待っていたかのように、ウルフルの死体が一斉に青い燐光を放ち、その場を一瞬青く染め上げ、そして、消えた。
「なんとも雅な最後よな、まっことあっぱれである」
郷音は言いながら手を合わせ、そしてフーっと一息ついた。
……ころには、傷も癒えている。
「これ、もうちょっと余韻を楽しませぬか」
郷音は言いながら少しため息を付き、それでも、満足気に当たりに散らばるウルフルの魔石を拾い始めた。
「なにに使えるかわからぬが、戦いの証であるからして」
誰に言っているのか、そんな言い訳をしつつ郷音は魔石を集める。なぜならこれが郷音の唯一の趣味、いわゆる収集癖だ。
それは、郷音が元の世界にいた頃からの癖。
事実、元の世界で郷音の住んでいた山中の小屋の如き住処には、なにのものだかよくわからない骨からきれいな石ころ、形の良い木の枝や珍しい葉っぱまでゴミのごとく積まれていた。そしてそれらを組み合わせ彫ったり固めたりした正体不明のオブジェが不気味に並んでいた。
それだけに。
「いやはや、本当にこのズタ袋は良い」
いつしか袂のアイテムボックス。郷音がズタ袋と呼ぶようになっていた、その中には、訳の分からない石ころや木の枝が魔石や薬草とともに大量に収納されているのだ。
というわけで、郷音は一心不乱に魔石を拾う。
が、その時だ。
「なあ、用があるなら出て参らぬか」
郷音は腰をかがめたまま、そう口走った。
途端、その背から陽炎のごとくに沸き立つ透明の殺気。
「そこに居るのであろう?良いから出て参れ」
郷音は立ち上がり、ヤブを見据える。
そして、その声と視線に呼応するように藪がガサガサと音を立てたかと思うと、ざっとひと抱えはある黒い塊がひょっこりと姿を表した。
それを見て、郷音は、満面の笑みで声を漏らす。
「ほっほぉ、クマ公であるかよ!」
そう、その塊は、熊の頭。
続いて、じわじわと、ゆっくりと、貫禄を漂わせながらあらわになっていくその巨大かつ凶悪な全身。身の丈九尺を超える、三メートル以上はあろうかという巨大な熊。そしてその熊は、ギロリと郷音を一瞥し、郷音の発する殺気をわざと無視しつつ、あたりの匂いをクンクンと嗅ぎ始めた。
その剣豪を、路傍の石であるかのよう扱って。
「ベアル・ベリアル……長い、クマ公で良い」
巨大な熊、ベアル・ベリアルに無視された郷音。
しかし、郷音にそんな事を気にする様子はなく、またしても鑑定の告げた名を拒否してそう言うと、無視もまた幸いとばかりに、その巨大なベアル・ベリアルの姿をまじまじと見つめ、ホォっと感嘆の息を心底より漏らした。
「なんともまあ、美しき体かよ」
そう、それは美しかった。
見ればわかる、重厚な皮下脂肪の下、さらに幾重にも重なる革鎧のような肉をまとわせているであろう隆々たる剛体。艶やかな絹のように見えて、その実鋼鉄の針に匹敵する硬さがあるであろう鈍く輝く体毛。
しなやかな骨。動じぬ面構え。
鉈の如き牙。鎌の如き爪。
殺戮に特化した、純粋で高密度な暴力の美しい結晶。
「はっはっは、これは勝てぬ」
見てすぐにわかった。
きっと今の郷音には、あの体を突き通し、急所に一撃を食らわせるような斬撃も刺突も出来ないことが。そして、あの体躯から繰り出す攻撃に二発と耐えられぬことが。
「これは死ぬな」
それだけに。
「クマ公殿、失礼仕る!」
郷音は、躊躇なくベアル・ベリアルめがけて突進する。
そして、次の瞬間。
口から血の泡を吐きながら吹き飛んだのである。