2:もののふの最期
「もうここらで十分であろうな」
天正十七年卯月、豊前国、城井谷、寒田の庄、山中。男は、遠く霞む霊峰英彦山を眺めながら杉の大木の下で浅く荒い息を抑えていた。
いつの間にか鎧も兜も剥げ落ち、薄布一枚の哀れな姿。
が、その姿こそ、彼にふさわしい姿であるともいえた。
そうなるまで戦い続けた、男の。
「いや、まこと、最後までよう戦った」
天下人秀吉の配下、名将と名高い黒田官兵衛の嫡子、長政と戦を構えるなどという、地方豪族にはあるまじき華々しき戦のその最中。彼はその人生を振り返っていた。
それは戦いに次ぐ戦いの日々。
練磨に次ぐ練磨の日々。
主君、宇都宮鎮房に仕え、野を駆け山を巡り剣林弾雨の中で命の遣取をし続けた日々が、彼の脳裏に浮かんでは消える。
しかし、それも、段々と靄がかかるようになってきた。
「ふぅ、ふぅ、ふぅ」
息が荒く、生臭く、金気を帯びてきた。
見れば脇腹と太腿に、もはやどうにもならぬほどの血溜まりが広がりつつあった。その血の匂いが息から感じられる。
もう終わりだ。
何度も見てきた、人の終わり時の姿だ。
「……足りぬよなぁ」
男は、血と泥に塗れた自らの掌を見つめる。
老木の根のように節くれだった指、もはや完全に開くことが出来ぬほど、剣を握るためだけに存在している掌。
ずっと鍛えてきた、相棒。
出世を思わず、栄達を夢見ず。女を抱くことも子をなすことも捨て、人の当たり前のぬくもりに憧れることなく、ただひたすらに剣を握り、その腕の練達のみを夢見てきた人生。
そうして生きてきた、五十余年の人生。
「人の命は、儚い。剣を修むるに、あまりに、足りぬわ」
黒田の反撃にあい、この戦をもってきっと主家は絶える。
しかし、そこになんの不満もない。
一度は勝った、しかし騙し討にあい主君は謀殺された。自らの命より重くあった主君の命は、戦場ではなく畳の上で無抵抗のまま散った。
さぞかし無念であったろう。
ただ、男にとってそれは、この戦の世における至極当然の当たり前でしかなかった。
戦とはそういうものだ。
男は、達観し、納得していた。
だからこそ、《《そんなこと》》よりも。
「まだ、まだまだ鍛え足りぬよ……」
男は、力の入らぬ掌を、最後の力を込めてぐっと握りしめた。
そして、祈った。
神仏を戦飾りの一つくらいにしか思っていなかったその男は、命の消え入るその瞬間、初めて神仏に、心より祈った。
「神よ、我らが霊木大楠の神よ」
意識が遠のく。
と、そのとき。子供の頃、友と遊んだ楠の巨木が眼前に広がった。青々とした常磐の木の深緑の葉が。そこから差し込む、一筋の木漏れ日の光が。
「我に、新たなる生を」
腕が落ちる、もはや声ではない息が、口の端から漏れる。
――剣に生き、剣を極めるにふさわしい生を。
――悪鬼修羅のひしめく、煉獄の世界で。
――我に。
『その願い、叶えましょう』
声がした。
が、それはすぐに吹き抜ける春の風に飛ばされ、そこには、剣に憑かれ戦に破れた老兵の死体が転がっているだけ。
ただ、その顔は、笑っていた。
男の名は、伝法寺郷音。
耳の端に聞こえた神の声を頼りに、いま、永劫の眠りにつく。