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若き日の恋

三十二年前、私は二十三才。

大阪市内にある大手商事会社でOLをしている。

入社二年目。

オフィス街の朝はいつも同じ。

地下鉄が駅に着く度、大勢の人が吐き出される。

皆、何もしゃべらず各々の悩みや不安も胸の奥深くしまって各々の職場へ急ぐ。

私もその人波の一粒となって、流れにのってゆく。

駅から地上へそして職場へと。


『身も知らぬ人らに紛れ人間の心忘れる通勤電車』


『ビンのふた開ければれ零れる豆のごとドア開くたび溢れる人ら』


『ビル街のショウウィンドウに逸早く長袖の出て 秋近づきぬ』


職場は、十階建ビルの七階、営業三課。

主に服地を扱う部署。

白生地に専属のテキスタイル・デザイナーが図案を描き染色工場でプリントしてもらい、得意先に納品する。

私はその時に生じる事務全般を受け持っていた。

課員は課長を含めて十一人。

女子社員は私ともう一人。

若手男性社員が二人、中堅二人、ベテラン四人の構成。

女子社員と若手二人は私と同期入社だったので、楽しい雰囲気で仕事をしていた。

若手の一人が文也さんだった。時々、伝票と帳簿の数字が合わなくて昼休みに入っても片付かず困ることがあった。

そんな時、決まって文也さんが見かねたのか、読み合わせをしてくれた。

「早くお昼を食べておいで」と一才しか違わないのに子供扱いしてくれる。

近くの得意先に、億単位の手形をもらいに行くことになったとき、額が額なので一人では心細いと思っていると、文也さんが一緒に行ってくれたこともあった。

段々、穏やかでやさしい彼に好意を持っていく。

国立大学を出た文也さんは、同期入社の社員の中でも一番の有望株。

とびきりの美青年とはいえないが長身で人当たりの良い、育ちの良さを感じさせる誠実な人だった。

 

 私の同期や所属している課の人々は宴会好きで、忘年会、新年会、歓送迎会、お花見、納涼、紅葉狩りなど折につけて宴会をした。

その度に、文也さんの隣の席が空いていると必ず私が座った。

彼にビールをついだり、料理を小皿にとったり世話をするのが楽しかった。

少しでも彼の近くに、側に居たかったのだ。

回りの人には何回か続くと私が彼に好意を持っていることは悟られてしまう。でも、気にしなかった。

そんなこと気にしていたら何も出来ない。第一私の想いが伝わらない。

その一心だった。

私の想いが伝わったのかどうか分からないが、別に拒否されることもなく、うれしそうにしてくれていたので、私も気を良くしていた。

 その年の秋、市場調査をかねて私と文也さん、あと同期の二人とで東京へ日帰り出張に行くことになった。

原宿の表参道にある有名ニット製品を扱う店へ行くのが目的。

その頃、人気のあった女性ファッション誌に取り上げられるほど若い女性客で賑わう店だった。

仕事をさっさと終わらせ、あとはゆっくりおしゃれなレストランで食事をしたり、カフェテラスでお茶したりと原宿ライフを楽しんだ。

自然にニ対ニになって、私は大好きな文也さんと並んで歩いたり、一緒に居られるのがとても嬉しかった。

彼は私の気持ちに気付いていたのか優しくしてくれる。

 しかし、そんな日々は長く続かず、私と彼の間には何も進展もなく、突然 文也さんは故郷に帰ってしまったのだ。

お父さんの具合が悪くなり急遽帰って、近い内にお父さんの会社を継ぐと言う。

どうやら結婚相手も決まっているらしい。

もう、私にはどうすることも出来ない。

両思いならまだ何とかなったかもしれないが、私の片想いではどうにもならない。

まだ若かった私は、そのまま彼を見送ることしか出来なかった。

私のことが少しでも好きという気持ちがあれば何か言うはずだが、結局何も言わず行ってしまった文也さんのことを忘れようと思った。

私の全くの片思いの人として残すのは、余りに悲しすぎると思ったから。

唯、青春時代の思い出のひとコマとしては大切にしようかと時間が経つにつれ、思うようにはなったけれど…

 そんな懐かしい名前を短歌投稿欄に見つけて若き日の恋を思い出したのだ。

そもそも、私が短歌を詠み始めたのは文也さんがきっかけだった。

大学時代から詠んでいたと彼から聞いたことがあったのだ。

私は全く詠んだことはなく、短歌が三十一文字だということしか知らなかった。

彼が故郷である金沢市に帰ってから七年後、思い立って何かで文也さんとつながっていたくなり短歌を始めたのだ。

忘れようと思ったのに、やはり頭のどこかで忘れられなかったのだろう。


十月の朝にまた「木暮文也」金沢市とある短歌を見つける。


『唯一の美しき月愛せずに時に埋もれし若き日の罪』という短歌。

私はこの短歌を読みハッとする。

“唯一の美しき月”というのはもしかしたら私のことではないかと。

私の名前は美月だから。

これを読み、どうしても真相を知りたくなった。

この木暮文也という人に会いたくなったのだ。

会ってこの短歌の意味を知りたいと思う。

新聞社に問い合わせたが、個人情報は教えられないとのこと。

当然の答えだと思う。

もし、どうしてもと言うなら仲介に入ると言う。

新聞社が先方に連絡をとり、了解を得られれば私に連絡すると言うのだ。

しかし、葉書に書かれた電話番号は現在使われていないし、住所にも該当者はいないという返事。

どうしたら良いだろうか。

私が元気で自由に動ける身なら金沢に行けるかもしれないが、それは無理。

文也さんが社長職を継いだ会社も調べたが、会社そのものがもうないのだ。

木暮家のことも探したがそれも見つからない。

木暮文也は実在しないのか。

金沢市でないなら、どこに居るのか。

交通事故死したという、うわさの出所もわからない。

うわさが流れたのは二十年位前だったと記憶しているが、はっきりしない。

全てが霧という長い時間の中に埋もれてしまったようだ。

もうこのナゾは解けないのか・・・

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