箱庭作り
もう意識のないようなフィーニスに声が届いたのは、その花が何万回と咲いたときだった。
蔦の色と変わらない花を、弱弱しい声で誰かが褒めたのだ。
最後にうつくしい花を見られてよかった。
そう呟く声に、フィーニスの意識はふっと浮上した。花は聖女の、彼女の愛する聖女オルサのための花だった。うつくしくて当然なのだ。
その場にいたのは見知らぬ男だった。フィーニスは男に焦点を合わせて起き上がり、聖女のための花よと言葉を発した。男は驚き身じろいでから、ああ、と息を吐いた。だからうつくしいのか、と。
「……おまえ死にかけているの」
蔦の棘で足はズタズタになっていた。
痛みも相当だろう。
毒のせいで息も整わないでいる。
あたりを見まわすと、半地下の部屋は天井がなくなっていた。蔦は鳥籠のようにフィーニスの目の前を守っている。
「大切な場所なのか」
「そうよ、大切なひとがいたの」
「……優しげだ」
不意に男がフィーニスの後ろを見て言った。
そのことに気づいてフィーニスは立ち上がった。
ぶちぶちと蔦が動きにあわせて千切れる。
死にかけた男の視線の場所、フィーニスの後ろには泣くオルサの姿があった。
「嬉しい。やっと気づいてくれた…」
「聖女さま、オルサさま、ああ……ああ本当にあなたなの」
フィーニスは、次つぎに溢れ出る涙をどうにか拭った。滲む視界にオルサの困ったような顔がある。もっときちんと見たいのに、目の前にいると確認したいのに涙は止まらない。
「ずっと、ずっとずっとずうっとよ、フィーニスの名前を呼んでいたのに全然気づいてくれないから、もう嫌いになってしまうところだった」
つんとくちびるを尖らせて拗ねるように言ってから、彼を助けてあげて、とオルサが告げた。
足元には瀕死の男が転がっている。
助けると言っても……フィーニスにはどうしたらいいのかがわからない。彼女は聖女の付き人ではあったが、ただの平民なのだから。
オルサの存在に気づかせてくれた男を助けたいけれど、そう思いながら男に手を伸ばすと足に絡むウルティカが緩んだ。
驚いてオルサを見れば、にこりと笑って大丈夫よとオルサも男のそばにしゃがみ込む。
「このひとが憎いんじゃないでしょう? じゃあ大丈夫よ。フィーニスが願えばいいだけなの」
言われるがままに男が助かるように願えば、ウルティカは男から離れて、そっと触れた先から体温が戻っていく。
乱れた息が落ち着くのに時間はかからなかった。
フィーニスの、神をも呪う気持ちが生んだウルティカは、彼女の心ひとつで土地を覆うことも毒でひとを殺めることも、花を咲かせることもできた。
蔦と同じ色をした花にオルサは喜んで触れる。
「神さまを恨んだわ」
ぼつりとオルサが呟く。
うつくしいオルサから紡がれた言葉が、はじめは理解できなかった。
男はまだ意識を失ったままだったので、その横にふたりでしゃがみ込む。花が触れられることを喜ぶように揺れて、その揺れが止まるころにもう一度呟かれる。恨んだの。
「あなたが斬られたところでそれまで以上に祈ったわ。わたしってあんなに欲深かったのね。平和を願うことより、兵士の方がたが戻られることよりも、強くフィーニスが死なないことを神さまに願ったの」
膝の上に顎を乗せていたオルサは、幼げに顔を隠した。こつこつと膝に額を当てて、聖女にふさわしくないことだわと拗ねた声を出す。
その様子があまりにかわいらしくてフィーニスが笑うと、オルサはつられるように小さく笑ってから顔をぐしゃりと壊した。
ぼろりと涙が溢れたのを見てフィーニスが慌てると、ごめんね、と涙ながらに謝罪の言葉が向けられる。
なにをだろう。なにがだろう。
今フィーニスには喜びしかないのに。
戸惑いが声になる前にオルサが言う。
「つらい思いをさせてごめんなさい」
つらい思いとはなんだろう。
その思いは今すでに飛散した。オルサがいる。目の前にいる。
そのことでつらい思いなんてもうなにもない。
卑しくもオルサの存在だけが、フィーニスの喜びだったからだ。
「痛かったでしょう。助かってほしいと願ってしまったから長く苦しんだの。ひとりぼっちで狂うこともなかったのに、──神さまを恨んだ以上にわたし自身を恨んだわ。神さまのせいじゃない。わたしのせいなの。わたしはあなたに逃げて欲しかったの。生きて欲しかった。幸せになって欲しかったのに、どうして神さまはこんなひどいことをなさるのって恨んでしまったわ。死ぬ間際までわたしが間違えてしまって、あなたをずっと苦しませたのよ。ひとりぼっちで苦しませて…」
「恨むだなんて。願ってくださったから、あなたのおかげで今こうやって会えたってことでしょう? わたくしの醜いさまを見て、聖女さまがわたくしを見限ってしまったというのなら、とてもつらいけれど」
「わたしに気づいてくれるのをずっと待ってたのに?」
「そうでしたね。そうです……わたくしのほうこそやっと神を許せる。あなたが笑っていてくれるのだったら、わたくしはなんだって許せるのですよ」
しかしそのフィーニスの言葉に答えたのはオルサではなかった。
あきれたような愉しむような声音が、傲慢だなと響く。フィーニスは横たわる男を見たがまだ意識は戻らないままでいる。ではなんだと傾いだところでばさりと強い風が巻き起こった。
風に負けて瞑っていた目をあけると、そこには真白な翼を広げたものと、真黒な翼を閉じようとするものが立っていた。
ひとならざるものだ。
ふたりは驚きのあまり身じろぎすらできずに、翼のあるものを見つめた。
「なんだ、許してくれたのではなかったか」
「あいさつもないとは冷たいことだ、愛しいと思うのは我らだけのようだな」
ひとならざるうつくしいもの、ふたりは神が降りてきたのだと正しく理解した。
「……はじめてお姿を拝謁いたしました」
「おまえがひとではなくなったので、見えるのもあるだろうけれどね。捨て置かれて消えゆく我らを形にしたのはおまえの祈りだ。我らはおまえと、そちらのおまえが気に入ってしまったのでね、許してくれると言うのでこうして姿を見せたのだ」
のんきともいえるせりふに頭に血をのぼらせたのはフィーニスだった。
いやおかしいだろ! と相手が神だということにも考慮せずに叫ぶ。不敬だろうが冒涜だろうがこのさい知ったことではない。
「どこをどう気に入る要素があったというのですか! 恨んだって言ってますでしょう!」
「わたしたちはひとではないのですか」
「オルサさま! 今はそこではないのですよ! そもそもこのおふた方は、気に入ったと言いながらも力及ばずあなたを苦しめたのですよ! 許し難い!」
「許すと言ってたではないか」
「存在が曖昧でしたからね! いるとわかれば話は違いますでしょう! よくもよくもオルサさまを」
「フィーニス、わたしはいいのよ。それよりも、ねえ、神さまを拝謁できるだなんて、なんという素晴らしいことかしら」
お優しい!
フィーニスはオルサの言葉で、それ以上言葉を重ねることを止めた。聖女さまのお優しさはこの世のなによりも尊いのでは、などと神よりもオルサに誓いを立てたいとさえ思う。
「正直で愛らしいではないか。おまえは、そのままオルサに誓いを立てることを許そう」
「神さまというのはひとの心を盗み見て楽しむのですか」
今さら取り繕うことなどあるまいと、フィーニスは思ったことをズバズバと言葉にすることとした。それを苦笑する真白な翼の神と、面白さげに笑う真黒の翼の神が、意外と楽しいようだと告げる。
「アーテルだ、これはアルブス」
「アーテルさま、アルブスさま」
真黒の翼をもつものが名乗って、真白な翼をもつものをアルブスと紹介したところで、オルサの身が光り輝いてアルブスのように全身を白く変えた。
驚きにフィーニスが口を開けると、同じように光が降り身を纏う。眩さに閉じたまぶたを上げれば、フィーニスは真黒な見目に変わってしまっていた。
「我らの乙女、もうおまえたちはなにものにも汚されない、侵されない、そうして自由だ」
「……自由」
オルサが、真白になったオルサが呟くとまるで神さまのようでもあった。
のぼせるようにフィーニスが見つめていると、オルサはなにをかに気づいたように、では、と、声を上げた。
「では、彼を助けることもわたしの自由なのですか、アルブスさま」
「そうなるな」
アーテルの返事を聞くと、オルサは意識のない男の背に手をやった。
フィーニスによる呪いは消えていて命に別状はないが、男はすでに国を追われている身だ。帰る場所などない。
命あるものをこのまま見捨てることができないオルサのことを、フィーニスもよくわかっていた。その優しさにいつだって救われていたのだから。
誰も否とを述べなかったことで、オルサはこの地を男に譲ってほしいとフィーニスに頼んだ。
「わたくしのものではありませんので、オルサさまのご自由に。わたくしのものだったとしても、オルサさまに差し上げることに異議などございません」
「そういう考え方よくはないと思うわ。でもありがとう。フィーニスは彼の恩人ね」
喜ぶオルサにフィーニスは少し嫌な顔をした。気づいたのはアーテルとアルブスだけではあったが。
オルサのための花をうつくしいと褒めてくれたことは嬉しいが、別に彼の恩人と言われることはしていない。なんなら彼が死にかけた一端を担っていたのはフィーニスの蔦だ。それもオルサにすれば侵入者を阻んでくれたのね、という感謝の言葉になるのだろうけれど。その程度の感情しか持ち合わせないので恩人と呼ばれることには抵抗がある。
「……とは言え、わたくしはオルサさまほど優しくはないので、定めを作ります。それに男が了承するならば、ここをどうしようと彼がなにをしようと問いません」
言ってフィーニスは男を揺らした。
喃語のようなものを漏らして、男はのんきにからだを起こしてから、揃う四人に驚いて居住まいを正した。
かつて優しい国だったこの地は、ひとが飢えることなどないほどに実を育てる土壌と水があり、それを望んだ他国による侵略が聖女を殺し国を滅ぼした。ならばその繰り返しを起こさぬように、正しきものとなるようにとフィーニスは強く望んだ。
「おまえからの侵略は許さないし、その禍いとなるような行いも許さない」
「了承いたしました。言われるまでもないことです。わたしも優しいものを作りたい。兄のような武力と権力の蔓延る国はうんざりだ。聖女さま、」
「わたくしは聖女ではない」
「わたしにはあなたも聖女なのです。ああ、ではおふた方、あなた方にはわたしが作る国の最初の神となってほしい。あなたの作る箱庭をわたしの国とします」