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聖女の庭   作者: 遠田
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昔のはなし

 皇国レグヌムが建国される以前にあった、今では名すら呪われたと言われる国には、神に愛されし聖女がいた。穏やかな国民性に肥沃な大地、他国との関係も良く恵まれた王国は末永く続くはずだった。

 聖女の住まう教会はその日も笑顔に満ち溢れ、身寄りのなくなった子どもたちや修道女が朝の祈りを捧げ終わり、食事をはじめていた。

 賑やかしい子どもたちの世話をする聖女を、愛さない人間などいなかった。近くの大聖堂からの司教が、彼女を聖女だと告げてからも彼女は生活を違えることはなく、少しばかりお転婆だったが、それまで以上に神に仕えるようになった。

 聖女という称号にふさわしい女性だった。

 その働きものでもある彼女が、よく晴れた日の庭でシーツを干しているそのときに、染みのような汚れがまだ誰にも知られないうちに王国に落ちた。

 やがて王国を共に支える王妃となる女が迎えられた日である。

 優しさに満ちあふれた王国は、その王妃が来たことによって変えられていった。

 新しい国王は王妃の言いなりとなった。

 それまで、貴族といえども市井の民とはそれほど身分差は強くなく平等であった。しかし、いつしか歴然とした身分の違いを示すようになった。

 それに伴い目に見えて貧富の差が開いていき、知らぬうちにどうしようもない格差によって迫害される民が生まれて、国は滅びへの道を歩みはじめた。

 他国へ移住していくものが増えはじめたあるときに、聖女は王宮へと拉致同然に連れて行かれた。

 かろうじてひとりの付き添い人が許されたが、聖女としての扱いはされずに、朝夕の祈りのときだけ外に出される軟禁生活だった。

 王妃の苦言と提言によるものだということは、兵士の会話から知れた。


「どうしてあなたのような聖なる方が、こんな岩肌の半地下に押し込められなければならないのですか。神はこのような試練を与えるほど、あなたの信心をお疑いになっているのですか。でしたら神が間違っているのです。わたくしが今からでも神を断じてみせますのに!」


「まあ、神のお姿が見えるの? 聖女と呼ばれてもわたしには見えないのに」


 聖女はこのような劣悪な環境に身を置かれても優しさを、気位を失わなかった。付き人の言葉に笑い、食事を差し入れに来る城付きの下女や兵士にも、丁寧に接した。

 わずかに差し込む光にすら感謝して、神への敬愛を失わなかった。

 付き人の心が悪心に囚われなかったのは、聖女のおかげだった。

 日が経つごとに、食事を運ぶ仕事が取り合いになっているのだとこっそり知らされるほど、彼女はまごうことなき聖女であった。

 神に祈り、王国の行く末がより良いものであるように祈った。もう王国が終わるのは明らかであったのに。


「聖女さま、お願いでございます。明日には戦わねばならぬわたしに勇気をお与えください」


 食事を運んできた兵士の手は震えていた。

 半地下の部屋にも遠く戦のけはいが届くほどに、外は戦禍にあった。王妃が領土を無理に広げようとしていることは、すでに半地下の部屋にまで届くほど知られていた。

 王妃の故郷でもある国が、すでにこの国を見放したらしいことも。

 聖女の顔は苦痛に歪んでいた。

 そんなことを祈るために言葉があるのではない。

 それでも、そういう言葉を飲み込んで精一杯の笑みを浮かべた。

 ゴツゴツとした手をそっと握って祈り、あなたが無事に戻られますようにと静かに告げる。兵士はその優しい言葉に涙し、わたしはあなたを守るために戦います、とその場を辞した。


「どうして……わたしにはなにもできないの。そんな勇気必要なものですか!」


 聖女は声を荒げて泣いた。

 わあわあと頑是なく泣く聖女を、付き人は抱きしめることしかできなかった。

 代われるものなら代わりたかった。

 その兵士は戻らなかった。

 けれども勇敢であったという。

 それからというもの、聖女に祈ってほしいと兵士は訪れた。心を削られながら、なにもできないと嘆きながら、聖女は祈りを捧げる。

 兵士たちは感謝を伝えるために、残っている花を手折って持ってきた。それもやがてなくなり、地上は焦土と化しているのだと悟るには容易かった。遠い戦禍のけはいはすでに王国内にまで迫っていた。


 それは突然だった。ある朝、それまでとは違う鎧に身を包んだ兵士が訪れて聖女を引きずり出したのは。


「聖女さま! なにごとです! 乱暴はやめなさい」


「黙れ!」


 手を伸ばした付き人は、その言葉と同時に肩口から斜めに斬られた。

 散る血の向こうに聖女の驚愕の表情が見える。

 それから劈く悲鳴に、付き人は言葉もなくその場に臥した。

 聖女が名を呼ぶが、兵士の力には敵わずに連れて行かれる。

 待て、待って、そのひとをどうするつもりだ。

 焼けるような痛みに声もない。即死のけがとならなかったのは、手前に聖女がいて踏み込みが浅くなったおかげだった。


 痛い。なにが起きた。なぜ斬られた。聖女はどこだ。


 恐怖と怒りの入り混じった感情で、どうにか床を這う。石畳につめを立てて進むけれども、気の遠くなるような痛みで遅遅と進まない。

 神さま。

 付き人は初めて彼女の意志で神に祈った。


 死んでもいい。この身などいらない。彼女を助けてください。あなたの愛した聖女を助けて!


 意識を失っていた付き人の耳に、もの音が届いたのはそれからどれほど後だったのか知れない。

 乱雑な足音が、幾重にも重なり近づいてくる。


「聖女といえどもただの女か」


「女ですらない、臓腑の詰まった袋だな」


 付き人の耳に届いた言葉は、声音はこの世のものとは思えないほどに醜悪だった。

 扉の開く音に続いて投げ捨てられる重たい音。

 霞む目の先に転がったのはめちゃくちゃにされた首のない胴体だった。

 続いて転がってくる頭は石壁にぶつかり止まった。もうフィーニスとは呼んでくれなくなった聖女オルサの頭だった。


 その瞬間にフィーニスは狂った。


 悪しきものに心を売り渡さんとばかりにすべてを憎み、憎しみは脅威を産んだ。

 すべてを殺すウルティカが、フィーニスの憎しみを養分として国を覆い、言葉にならないほどの痛みと苦しみを与えて、聖女の亡骸だけを守った。

 聖女を弔う花を咲かせて、誰にも邪魔させないまま蔓延り続けた。

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