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マリアと仏の愛。

今振り返ってみると、物心が付いた頃から女性として生きるのを諦めていたような気がする。


きっかけは何処にでもある平凡な出来事。私に付いた不本意なあだ名が発端である。

小学校では、「土偶」、中学では「地蔵」といった、私の容姿をなじる行為は高校まで続いた。それは、なじる者にとっては冗談のつもりかもしれないが、私にとって苦痛なものでしかなかった。

それでも、自分を押し殺し通せたのは、からかわれ、卑屈になって、反発したのちに、いじめの対象に陥っていく人をみて、逆らえば、わが身も、そうなるのではないかと恐れたからだ。

小学生の頃、あだ名で呼ばれることは、単に嫌と思うだけであったが、中学生になると、可愛らしさと美しさは、正義をも覆す力を内包しており、男子からはその美貌によって無条件に優遇されるのだと気づいた。

あまりに悔しさに、なぜ可愛く産んでくれなかったのかと、母の気持ちも考えずに、容姿について訴えた事もあったが、クリスチャンであった母は、「自分を愛しなさい。そして、イエス様がされたように、赦してあげなさい。」と、信仰を盾に私をなだめた。

しかし、自分を愛しても、私を非難する人を赦しても、鏡に映る自分は自分のまま。

鏡に向かい、「この世で一番美しいのは誰? 」と尋ねても、鏡は私の名を呼びはしなかったが、白雪姫に嫉妬する継母のような醜い者にはなりたくはないと思った。


母の友人から、よく、「あなたは大きくなったら綺麗になるわ。」と慰められたが、皆から可愛いと言われている子と、そのお母さんを見れば、希望を抱かせる方が罪だと気付かない大人達に不信感を抱かずにはいられなかった。

ドン・キホーテのサンチョ・パンサは言った。この世にはただ二つの家柄しかない。持てる者、持たざる者だと。

みにくいアヒルの子は、アヒルのコミュニティで過ごしていたから、疎外されていただけ。白鳥に成長しても、白鳥が美しい姿であると認識しているのは人間の眼なのだから、アヒルたちからみれば、醜いままなのだ。

生まれながらに不平等なのは、神のなせる業なのか。

シーシュポスのように留まる事のない岩を山頂に向かって永遠に押し上げていろというのか。それとも、イエスのように十字架を背負いゴルゴダの丘を登れというのか。

他者をいじめたり、だましたりする人はたくさんいるのに、なぜ、私にこのような試練を与えるのか。

しかし、嘆いてみても、呪ってみても、無力感だけが感情の塊となって私に重くのしかかっただけだった。

だからといって、諦め、怠惰になるのは不本意と感じた。これは、三人のレンガ職人のように、捉え方の問題であり、落ち込み続けてては駄目なのだと、思っていたからだ。

叩けば開かれると信じ、アンテナを広げ、出来る事を見つけ、苦手な勉強にも取り組み、希望と可能性を増やすように努めた。


思春期を迎えた頃には皆と同じように憧れの男子がいた。しかし、結論も同時に理解した。

だから、友人が「勇気をもって告白してみなければわからないよ。」と、助言してくれても、気を使ってくれているのだと頭では分かってはいたが、拗れていた私には、気休めにも、慰めにもならず、逆に、軽い苛立たしさを感じていた。

辛い思いをするくらいなら、ファンタジーの中で生きてゆこう。愛や恋という幻にも似た無形なものは「花とゆめ」、「別冊マーガレット」に任せておけばいい。推しの男子はジャニーズだけでいい。高校を卒業する頃には、そう思っていた。


大学生になっても、社会は変わらず私の容姿をなじった。

今でも、ふと思い出すと怒りがこみあげてくることがあるほどに、私を傷つけたエピソードがある。それは、同じサークルの齋藤飛鳥似の友達と、お買い物に出かけた時に起こった出来事だ。

彼女と少し離れて行動をとったら、すぐに見知らぬ男が彼女に声を掛けていた。

すぐに戻るのも悪いかもしれないと思い、様子を見ていると、彼女が凄く困っているのが分かり、すぐさま戻って間に割って入ると、男は目を細め、舌打ちをして、「ブサイクがっ」と、小さく吐き捨て、去っていった事があった。

理不尽さと悔しさに、罵詈雑言を浴びせてやろうかと思ったが、彼女に迷惑をかけてまでバカを相手にしてはいけないと自分に言い聞かせ平静を装った。

しかし、「ブサイクがっ」と言う音だけは、耳の中に留まり、自分の気持ちを押し殺す事には慣れていたはずであるのに、その後も執拗に私を苦しめた。


そして、楽しいはずの飲み会では、私には必要のない赤裸々な恋バナにも耳を傾けなければならず、その話題が出るたびに苦痛を感じていたが、彼女たちの話は、承認欲求と、価値観の共有のみが求められる空虚なものだと解釈し、彼女たちを斜に見る事で自尊心を保っていた。


合コンも、何度か人数合わせで誘いを受けたが、男子が容姿のよい女子を、女子がイケメンやリッチな男子を選ぶのは、生存競争に勝つための生殖本能なのだから、カースト制度で例えるなら、シュードラという上昇志向が許されないポジションの私には何をする事も許されなかったから、皆の邪魔にならないよう、空気を読んで、笑顔を絶やさず、末席にたたずんでいるように心がけた。そして、自分には何事も経験を積むことが大切なのだと割り切って出席していた。


その頃になると、軽薄な交際をしたところで何の益になるのかと、屈折したマウンティングをとる事で自身を肯定するようになっていた。


そして、大学を卒業した頃には、聖書を開くことも、教会に行くこともしなくなっていて、エゴイストと呼ばれようとも、自分を強く信じていれば、一人であろうとも力強く生きていけるのだと確信していた。


しかし、あの出来事は、長い年月をかけて築き上げてきた私の価値観をいとも簡単に揺るがした。


あれは、働き始めてから2年目の5月の連休明けの月曜日だった。

午後2時を少し回った頃、体調不良を訴えた彼が助けを求めにきた。私は、彼の話に耳を傾けながら、バイタルサインを観察していると、本当は体調など悪くないのだと言った。

こういった場合、無理強いをしない事が、彼らにとっては、ベストなのである。

私は、何も言わずに開いているベッドで休むよう促すと、彼は、丁寧に、「ありがとうございます」と、礼を言って、床に就いた。


思春期真っただ中の彼らには、彼らなりの悩みがあり、それを精神論で説き伏せるような時代遅れなケアでどうにかするのも間違っている。

先ずは感情表現の自由を認める事が大切なのだ。


5分もすると、軽く寝息を立てて眠ってしまった。まだまだ幼いのだ。

彼が寝ている間に、彼の様子や対処方法などを記載しておく。


五月の柔らかな日差しが、部屋一面に広がっている。窓の外の緑が瑞々しく青い。私は、当たり前の、平凡かつ平穏な時を、ようやく手に入れたと感じていた。

もし、幼い頃、諦めて怠惰になっていたら、私が不遇なのは親や社会にあると責任転嫁し、引きこもっていたかもしれない。


30分ほどで彼は目覚め、ベッドから足をおろし腰かけると、改まって私に向かって話し出した。


「水野さん。少しだけお話しても良いでしょうか? 」


「水野さんではないでしょ。」


「すいません。では、水野先生。」


「なんですか? 」


「先生には恋人がおられるんですか。」


その質問に、この子は何を言っているんだろう。と、思った。そして、私をからかおうとしているのだと捉えた。


「なにを言っているの? 大人をからかうもんじゃありません。」


そう諭したが、彼は真っ直ぐに私を見続け、


「僕は真面目に窺っているのです。」


と、答えた。

ふざけるにもほどがある。この子は私をバカにしてるのかとも思ったが、感情的になってはいけないと自戒し、


「バカ言っているんじゃありません。ふざけが過ぎると担任の先生に報告しますよ。」


と、牽制し自制を求めた。しかし、彼は一向に引こうとしなかった。


「僕は至って真面目です。もし、先生に恋人がいらっしゃるのなら、先生の事を潔く諦める事が出来るので、恥を忍んで窺っているのです」


「どういうことなの? 」


要領が掴めず只々困惑していると、彼は意を決して語彙を強めた。


「水野さんの事が好きなのです。初めて会った時からずっとなのです。永遠に秘めておこうとも思いましたが、気持ちを抑える事ができなくなってしまったのです。」


真っ直ぐな目で私を見つめる。異性から好きと言われている。冗談以外の何物でもない。

今までなら。


彼は、膝の上に拳を作り、私の返事を待っている。


「・・・噓でしょ。」


「嘘ではありません。」


「・・・私のどこがいいの。」


「全てです。」


迷いのない返事を前に、私は無力だった。長い年月を費やした堅牢無比な城壁を、彼は打ち破るつもりなのか。


「バカを言わないで。怒るわよ。」


「なぜ、怒られなければいけないのですか? 僕は先生の事が好きなだけなのです。」


「いい加減にしなさい! 」


「いい加減ではありません。」


彼は勢いよくベッドから立ち上がると、緊張した面持ちで一歩踏み出し、私をじっと見つめた。


「分かりませんか! 僕がどれほど先生の事を好きなのか! 」


余りの圧力に目線を逸らすと、ズボンの前が隆起していた。私は恥ずかしくなり、さらに目線を落とし、


「・・・わっ、分かりません。そもそも、私の方が年上でしょ。同級生や下級生に可愛い女子はたくさんいるでしょ。」


自分でも驚いた。咄嗟に発した訳の分からない言葉に。

こんな狼狽の仕方は初めてだろう。しかも年下の男子にからによってである。

チャイムが鳴る。かつてない緊張感から逃れられると安堵した。

すると、彼は、後ろのポケットから真っ白な封筒を取り出した。


「僕の想いがしたためてあります。必ず読んでください・・・。ありがとうございました。失礼します。」


年下だというのにちゃんと自制している。

その振る舞いに驚いていると、礼儀正しく一礼して、足早に部屋から出ていった。


封書の手紙。これは、ラヴレターと言われる物だろう。冗談にも程がある。

今すぐにでも開封して内容を確認したい。しかし、もし、からかわれているものだとしたら、我を忘れて逆上してしまう恐れがある。それならば、冷静になったところで開封した方がダメージは浅くなるはずだ。

今すぐにでも確認したいという欲求を抑え、手に持った封筒を、そのまま自分のカバンの奥底に押し込んだ。


その日の私は終日ふわふわしていた。あの場面を何度も思い出しては何が起こっていたのかを考えた。しかしその頃の私には全く理解できることが出来ず、周りに悟られないよう平静を保ち、無難にやり過ごす事だけで精一杯だった。


親の呪縛から逃れたかった私は、勤務先が決まると同時に一人暮らしの準備を始め、勤め先から程よい距離にある二階建ての1DKのアパートを借りた。

築三十年という古さではあるが、私にとっては、誰にも束縛されない幸福に満ちた居場所であった。

開錠し少し重い扉を開けて灯りのスイッチを入れる。小さな玄関に靴を脱ぎ棄て、6畳のリビングで服を脱ぎ、ルームウェアーに着替え、メイクを落とし、昨日のおかずの残りと、酎ハイを冷蔵庫から出して、一人晩酌を楽しむ。これが、近頃の最も幸福な時間でもあった。

しかし、私の前にある封書は、そのバランスを崩す危険を含んでいる。

このまま開封せずに、ゴミ箱に捨ててしまえば危険を回避できる。

仮に、問い詰められたとしても、私の権限を行使すれば、追随されずに済むだろう。

でも、それでいいのだろうか。彼の想いは真っ直ぐで、私が逃げているのだ。

平穏な生活を護るために頑なになって後悔しないだろうか。封書を開封し、誠実な想いを受けとめることが出来たら、女性としての幸せを得ることが出来るかもしれないというのに。


どちらにしても、読後の感情さえコントロール出来れば問題ないはずだ。


350mlの缶酎ハイを飲み干すと、封を切り、真っ白な便箋を取り出す。紙面には少し崩れた右上がりの文字がびっしりと記されていて、私への想いで詰まっていた。

読んでいるだけで鼓動が高鳴った。ラブレターとはこういうもので、こんなにも多幸感を覚えるのかと感心した。

濁りのない私への想い。いつか読んだ、恋愛漫画のヒロインの気持ちが蘇る。

私にも、こんな想いをするときがやって来るなんて思いもしなかった。

しかし、どうすればいいのか。立場、年齢、等々。考えれば考えるほど障害は多い。


でも、社会のしがらみに拘っているのは私の方なのだ。

これほどに私を女性としても好きでいてくれる男性はこの先現れないかもしれない。

しがらみに囚われている以上、これ以上考えても何も変わりはしない。

何を恐れているのだろう。これまでの生活が失われる事が怖いのか。傷つくことが怖いのか。

長い時間を掛けて獲得した鎧と盾は、こんなにも脆くて弱いものだったのか。

いや、違う。鎧と盾は幻想でしかなかったのだ。

もし、幻想ならば、彼は私の凝り固まった価値観を変えてくれるかもしれない。

その可能性に賭けてみるのも人生ではないか。


そうだ、もう一度、きちんと話し合えばいい。真意を確かめればいい。

踏み出せば引き返せなくなるかもしれない。大きく道を踏み外すかも知れない。

それでも、覚悟さえあれば、失敗したって、また立ち上がれるはずだ。


便箋を折りたたみ封筒に入れなおす。胸に当て祈る。どうか、この想いが真実でありますようにと。


それからしばらくの間、私は沈黙を保った。覚悟は決めていたが、立場的に、私からのアクションは避けた方が無難だと思ったからだ。

その間、彼も、何も言ってはこなかったが、会う度に何か言いたそうなそぶりを見せていた。

その度に高鳴る鼓動は隠しきれれず、足早に彼から離れた。そんな稚拙な行為を幾度となく繰り返した。


秋が深まった頃、彼は体調不良を訴え、助けを求めにやってきた。

私は、いつものように体調を観察し、「異常は見つからないけれど、空いているベッドで休んでいきなさい。」と助言すると、私をじっと見つめ、ゆっくりと切り出した。


「お返事・・・。聞かせてくれませんか。」


待ち望んでいた言葉に、ときめいている自分がいた。それでも、感情を表に出さないように冷静を装った。


「待たせてしまってごめんなさい。立場上、安易な気持で踏み込めないし、からかわれているんじゃないかっていう恐怖もあるから、どうしても慎重になってしまうの。それだけは分かってほしい。」


言い訳がましい事は重々に承知している。けれども、これが私の本心なのだ。それを彼は理解してくれるだろうか。


「わかってます。でも、返事が欲しいのです。あなたの事を考えると、あらゆることが手につかなくなるのです。」


彼も苦しんでいるのだ。それが手に取るようにわかる。こんな時、思春期の男子ならば、感情的になるはずなのに・・・・・・。

このままではお互いの為にならないし、彼の未来に多大な影響を与えるかもしれない。


一歩前に進もう。頑張れ私。


「じゃぁ、今度の休みに、ちゃんと話し合いましょう。お互いに納得しなければ、二人とも駄目になってしまうから。」


私は携帯を取り出し、意図的にメールアドレスを教えた。彼も、私の考えを理解したのか、携帯のメールアドレスを打ち込むと、すぐさま空メールが送られてきた。


「これでいいすか? 」


「うん。ありがとう。じゃあ、連絡するから待ってて。」


「わかりました。必ず連絡ください。待ってます。」


大きく息を吐き、スイッチを入れ替える。


「はい! 異常なし。まっすぐ家に帰るのよ。」


「すいません。少し気持ちが楽になりました。では、さようなら。」


そう言うと、笑顔を見せ、一礼して、部屋から出ていった。

静かに閉められたドア。

擦りガラスから姿が消える。

どうか彼の想いが真実でありますようにと祈った。


休みの朝、彼に「今日、都合はどうですか」と、短文でメールをした。すると、一分ほどして「大丈夫です」と返信があった。

外で会うと誰かに見られてしまう危険性がある。覚悟を決め、私の住むアパートの場所と102号室である事を添付して、「12時に来られますか。」と送信した。

公になってしまえば、どんなペナルティーを科せられるかもわからないという不安。そして、リスクを冒す事で乗り越えられる壁があるのではないかと高揚する私がいる。

命綱を用いずに断崖絶壁に挑むクライマーように。


返信は瞬く間に送られてきた。「わかりました。必ず参ります。」と、だけ記してあった。

素っ気ない感じもするが、この方が彼らしいなと思った。


その日は、朝からどんよりと曇り空で、天気予報では、山間部では初雪が降ると言われているほどに空気は冷たく乾燥していたが、思い切って窓を開け、空気を入れ替え、部屋を掃除した。


「私は何をしているのだろう。」


と、言う疑問が時々よぎったが、ただ掃除をしているだけだと言い訳をした。

部屋が冷え切ると、窓を閉めてエアコンの暖房で部屋を暖め直す。

そして、ホットココアでリラックス。

それでも、この部屋に男性が訪ねてくると思うだけで、気持ちが昂る

こんなときめきは生まれて初めてだ。


身支度を整え、紅茶とコーヒーとココアを用意して準備を調える。

待っている時間というのは、余りにも長くもどかし過ぎる。

そわそわしながら、もう一度部屋の掃除をする。

恋や愛は「花とゆめ」や「別冊マーガレット」に任せておけば良いと思っていたが、妄想の域を出て現実のものになろうとしている。

人生というものは、本当に分からないものである。


12時。インターフォンが鳴る。私の鼓動も高鳴る。

ドアアイから、姿を確認すると、黒いニット帽をかぶった彼が下を向いて立っていた。

少し震える手でドアを開ける。


「いらっしゃい。来てくれてありがとう。」


素直な私が、そう言わせた。


「お招きいただきありがとうございます。」


彼はそう言って一礼した。少し顔がこわばっている。


「寒かったでしょ。早く中に入って。」


声が上ずっているのが自分でもわかる。自分らしくない。恥ずかしいのだ。

私の城に初めて異性が訪れる。ときめきと戸惑いがグラデーションになっていて、我を忘れてしまいそうになる。

黒いダウンジャケット、ストンウォッシュのデニム。日常的に履きならされていて、少し色あせているナイキの黒いシューズ。見慣れない私服を身にまとった彼は、「無理を言ってすいません。」と言って、コクンと頭を下げ、


「・・・お邪魔します。」


照れくさそうに言うと、ニット帽を脱いだ。

丸刈りから伸びた髪は帽子の被り癖で、初夏の草原のように折り重なっていた。近づくと柑橘系フレグランスの香りがした。少し背伸びしているようだけれど、落ち着かない様子は手に取るようにわかった。


「上着。与るわ。」


「すいません。」


彼は、おもむろに上着を脱ぎ、私に手渡した。

見た目より大きなダウンジャケットに驚きながらハンガーに通し、上着掛けのフックへ引っ掛ける。

彼は、狭いリビングでキョロキョロしながら、身の置き所に迷っていた。その姿を可愛いなと思った。


「来てくれてありがとう。とりあえずソファーに座ってて。と、それから、コーヒーと紅茶とココアがあるけれど、どれがいいかな? 」


「あっ、お構いなく。」


「遠慮しないの。」


「じゃあ、紅茶で。」


「砂糖とミルクはいる? 」


「おっ、お願いします。」


この部屋に男性がいる。そして、他愛のない会話をして、その人の為に紅茶を入れている。

あり得ないシチュエーションに、眩暈のような感覚に陥る。

これは幻想なのか、それとも、夢の中なのか。

リビングを見ると、手持ち無沙汰の彼が小さくなって座っていた。


「夢じゃないんだ。」


思わず顔が緩む。なぜ、私は喜んでいるのだろう。

滅多に使わないお客様の用のカップにお湯を注ぐ。紅茶の香りと共にゆるやかに湯気が立つ。木目調の小さなお盆にのせて、ローテーブルへ運ぶ。


「どうぞ。」


「ありがとう。ございます。」


ステックシュガーとチャームは遠慮なくティーカップに注がれ、黙々とティースプーンで攪拌する。私も、入れ直した紅茶にチャームだけを入れ、ティースプーンでゆっくりと溶かしてゆく。

彼の手は小刻みに震えている。ミルクティーに変化したティーカップをぎごちなさそうに持ちあげる。緊張しているのが伝わってくる。

平静を装っているが、私だって同じだ。


しばしの沈黙。


朝からかけっぱなしのFMラジオから、あいみょんの「漂白」が流れている。

なにか話さなくては、あいみょんの歌に飲み込まれてしまう。


「手紙の事なんだけれど。」


「はい。」


「ずいぶん待たせてしまってごめんなさい。でも、あれから毎日読み返したわ。」


「毎日ですか? 」


「毎日です。」


「疑っていたんですか。本心じゃないと。」


ドキリとした。この子は鋭いのだ。ヘタな言い訳なら容易く見抜いてしまうだろう。そうだとしたら、真摯に向き合う事でしか彼を理解することは出来ないのかもしれない。


「あれは、本気なの? 」


「もちろんです。遊びでこんなことできますか。それに、貴方に嘘をつかなければならない理由なんてありません。」


「そっ、確かにそうね。」


彼の方が、覚悟が出来ている。それに比べて私はなんて及び腰なのだろう。


「何度も言いますが、僕は真面目です。そして本気です。水野さんを初めて見かけた時からこの人と結ばれるのだと信じていました。しかし、越えがたい壁がある事も承知しています。それでも、貴方に告白せねばと思い、今に至っているのです。」


そこまで言い切られてしまっては、何を言っても言い訳にしか聞こえないだろう。

素直になって弱い自分をさらけ出さなければ、きっと前には進めない。


「わかったわ・・・。でも・・・。正直に言うとね・・・。あなたと付き合う事で、法に触れ、職を失う事よりも、人を信じて騙されて、傷つくことの方が怖いの。私は、小学生の頃からこの容姿の事で、ずっとからかわれてきて、特に、男性に対して信頼を置けなくなっています。トラウマと言っていいかもしれない。だから、あなたの気持ちが嘘なら、私の心は深く傷ついてしまう。それが一番怖い。」


右手に持っていたティーカップに左手を添え、四方に揺れ動いている薄い赤茶色の波を抑えた。私は本当に怖いのだ。

すると、彼は自分のカップをテーブルに置き、私の両手の上から震えるコップを支えた。


「信じてください。今は頼りないかもしれませんが、必ずあなたを幸せにします。いや、共に幸せになりましょう。」


「こんな容姿でもいいの? 」


「美意識は個人的な感覚です。流行は、所詮作り物で移ろいゆくものです。しかし、僕のこの気持ちは本物なのです。」


「・・・私はクリスチャン。あなたの家はお寺さん。きっと、どこかでぶつかってしまうわ。」


「それが、なんだというのです。好きという気持ちこそが信仰の根源ではないですか。信仰というものは、生きるための支えであって、信仰のしもべになる事ではないのです。そして、今の僕には、仏教など必要ないのです。あなたがすべてなのですから。」


彼の力強い言葉は、微かに残る私の信仰心を足元から揺さぶった。私は彼から逃れるために信仰を盾にしてしまっている。それこそが、偽りだ。


「・・・・・・好きになっていいのね。」


「大好きです。」


私達は支え合っていたティーカップをゆっくりテーブルに置くと、互いの手を重ねた。

まだ幼さが残る彼の顔をじっと見つめる。体温が感じられるまで近づくと自然に瞳は閉じられた。

重なり合う唇。柔らかく暖かい。さっきまで飲んでいた甘い紅茶の味がする。

脳幹がしびれている。顔も火照っている。理性とか倫理とか道徳という作り物が崩壊してゆく。

私がコンプレックスと感じていたものを、いとも簡単に打ち砕いた。

ゆっくりと唇が離れると、抱きしめてほしいという想いが込み上げた。


「水野さん。」


「うん。」


私は彼の横に座りなおし、互いの背中に手を回した。

外は厚い雲が広がり、冷たい北風が強く吹き続き、時頼窓ガラスを揺らしては、ゴーっと唸っている。

エアコンの暖房では温まりきらない互いの体温を確かめ合いながら、少しづつ、少しづつ、濃密な距離に引き合ってゆく。

ぎこちない動きさえも身体が反応してしまう。彼のすべてが愛おしい。

ためらいが消え去った頃には、お互いのすべてをさらけ出し合うまでになっていた。


「私、初めてなの。だから、優しくして。お願い。」


「僕も同じです。上手く出来ないかもしれません。」


「気にしないで。」


恥ずかしい位に潤む女の私は、彼を、ゆっくりと受け入れていった。

痛みは次第に、甘美な酒に酔いしれるように、深い快感に変わってゆく。浜に押し寄せる波のように繰り返えされる感覚に我を失う。

築き上げてきた城壁は、彼の前では砂の楼閣だった。

私達は時を忘れ、気持は堰を切った水のように溢れ、川の流れのように留まりを知らず、何度も求め合った。その度に姦淫という言葉が頭をよぎったが、それよりも、彼を信じ私を愛そうと思った。

今の私たちに、もう宗教は必要なかった。


気が付けば、外はすっかり暗くなっていた。風は相変わらず吹き続けてる。しかし、晩秋の空を覆っていた雲はいつしか去り、夜空に浮かぶ満月は、カーテンの隙間からつなぎ合った私達の手を照らしている。

それは、未来の道筋を照らすようにしっかりと明るく。

ユニットバスにお湯を張り、狭い空間で二人の気持ちを再度確かめ合う。


「愛しているわ。」


「僕も愛しています。」


彼の言葉に感じたことのない安心感を覚えた。そして、私が頑なに拒んできたものが、本当は願っていた「愛」であることを知った。


思い悩みながら生きてきたけれど、人生を投げ出さなければ、思わぬギフトを受け取る事も出来る。

狭かった視野が少しだけ広がった時、みにくいアヒルの子にはこんな一文があった事を思い出した。


「じぶんをみにくいあひるのこだとおもってたころは、たくさんのしあわせがあることにきづけなかった」


あれから一年が経とうとしている。

あいかわらず、ネガティブな私は、時々、頑なだった自分を思い出しては落ち込むことがある。そんな時、寄り添ってくれる人がいるというだけで、心持も随分違う。母の反対を押し切り無神論者になったが、心はいつも穏やかだ。

私達はまだ幼いのだ。それでも、手探りで愛というものを育みながら、ゆっくりと、確実に、未来に向かって前進している。

今は誰にも話せないけれど、その時が来たら、周りの人達もきっと私達を祝福してくれるに違いない。


だって、この気持ちに偽りはないのだから。


「松嶋くん。校内での携帯の使用は・・・分かってるわね。」


「心得ています。先生。」


「ありがとうね。」


後、三か月。卒業式が待ち遠しい。

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