「四月」 9
新しいクラスの、俺が知らない人を騙すことなら覚悟していた。
しかし目の前にいる大きな瞳をキラキラと輝かせて話す桜楽にここでまた嘘をつくことになるなんて考えてもみなかった。張り裂けそうな胸を押さえようとしたところで、どこからともなく声が聞こえた。
今更お前が辛く思うことなんてどこにあるのかと、今の今まで彼女を無視し、挙句の果てに彼女のことそのものを忘却したお前に何の資格があって、嘆き悲しむことが出来るのかとその誰かは言った。今のお前の感情はただの自己満足でしかなく、彼女に対して何か一つ思うことでさえ傲慢であると、そう吐き棄てた。
その責めるような声に俺は何も言い返せない。全くの正論であると、そう思えた。桜楽にあれだけのことをしておいて、例えば許されたいなど傲岸不遜もいいところだ。きっと桜楽の親友を名乗ることさえ烏滸<オコ>がましいことだ。そうだ、俺はもう桜楽の親友とは───。
「そうそう、そんなんだよ!めっちゃ忙しくてさ、桜楽に連絡はしないといけないなと思いつつもさ、すっかり忘れててしまった」
そうして口を衝いて出たのはそんな言葉だった。
古い俺が許されないなら新しい俺になればいいのだ。そこに嘘で糊塗された事実があろうとも関係ない。関係性などそこからまたやり直せばいいだけだろう。
嘘を重ねていく。しかし問題はない。既に決めていた覚悟だ。今更そこに予想外の桜楽という存在が増えようがさして問題ではない。
だから騙すことに比例して膨らんでいく罪悪感も、それは間違っていると声高に叫ぶ誰かの声も、きっと幻だ。
「・・・も~、ほんとに心配したんだからね!もしかして病気になったんじゃ・・・とか思ったんだから!」
「っ」
背筋がヒヤッとして気圧された。それは桜楽が一瞬、それは限りなくゼロに近い時間で、色のない瞳をして俺の目をじっと見たからだ。
それは長い付き合いのある俺でも見落としそうなくらい本当に本当にごくわずかな時間であったが、確かに俺はその目を見た。そして桜楽は何事もなかったように頬を膨らませた。いや、或いは桜楽自身も今の自身の目に気が付いていなかったのかもしれない。
俺は態勢を整えて言葉を返す。
「ごめんごめん。桜楽はいい意味で昔から変わってないね、そのぽけーっとした感じも含めてさ」
「ぽけーっ、じゃないよ!ぽわぽわしてるって言うんだよ、私は!お母さんがそう言ってたもん。しーくんこそ身長は伸びたみたいだけど何も変わってないね!その意地悪さもね!」
「ハハハ。ところで、おばさんはご息災?」
「またそうやって流すー!お母さん?お母さんは変わらず元気過ぎるくらいだよ」
「そっか、それは良かった。・・・本当に何も変わってないんだな、ここは」
「え?」
「いや、なんでもないよ」
ぽつりと漏れた言葉は桜楽の耳には届かなかったみたいだ。良かった。
本当に何も変わっていなかった。町並みも、頬を撫でる風も、桜楽の暖かな笑い方も、何一つ変わっていなかった。ただそこで俺だけが変わってしまっていて、それなのに自分だけが取り残されてしまったような感覚を味わう。
喉を通らないくらいの果てしなく苦くて、つらい味だったが、俺はもうこの苦さを人に共有させる事どころか、覚らせることもしてはいけない。特に桜楽にはそれは絶対だった。桜楽は優しすぎる。欠点をその「優しさ」という一言で上書きできるほどに。
だから俺は桜楽に会えて自分でもよく分からない感情が高ぶっていても、決してそれを桜楽に知られてはいけない。
桜楽は一緒に泣いたり怒ったりと必要以上に人の感情を共有してしまうだろうから。そんな思いはさせたくない。例え俺が嘘に塗れることになろうとも、いじめられていた事実だけは隠し通す。
そうだ、俺はただ物語の主人公が願うような『平凡』な日常を送りたいのだ。テストの間違ったところで笑いあったり、クラス対抗の勝負で負けて悔しさに身を震わせたり、それをただ「みんな」でしたい。そこにいる自分が主人公でなくても関係ない。
そのためには平静を装わなければならない。クラスの皆に変に思われないように。俺ならできるはずだ。いじめられても最後までめげずに学校には行ってたんだ。だからきっと自信を持っていれば大丈夫だ。
気づけば桜楽がじーっと俺の事を見ていた。慣れている筈のお互いの立ち位置なのに久しぶりだからか緊張する。
「ど、どうかしたの桜楽?あんまり見られてると恥ずかしいかなー、なんて」
「いや、しーくんが今───」
桜楽はそこまで言うと不意に目をぱちぱちとしばたたかせて言葉を止めた。自分でも言うつもりのなかったことを無意識に口にしていたかのようだった。
「今桜楽凄い目をしてたよ。どうかした?」
「い、いや、しーくんが元気そうでよかったなって思っただけだよ!お互い元気、ザッツそれが一番!」
「でもなにか違ったような気がするけど。しかも今の「それはそれが一番!」みたいになってるし」
「ほら、うん、桜楽英語できないから。無念」
「高校二年生にもなってそのミスは英語が苦手で許されるレベルではないと思うんだけど・・・。」
「お言葉ですが、雲雀氏の英語の力は本当に・・・」
目を閉じて残念そうに首を振る桜楽。桜楽の英語力はご臨終してしまったようだ。苦手なのは知っていたけどまさかここまでとは。
「はっはっは!よう、今朝方ぶりじゃねぇか!織!」
「うおっ・・・」
桜楽と一緒に手を合わせていると、突然どこか聞き覚えのあるような声とともに背中をバンバンと叩かれる。
この学校に俺の知り合いは桜楽以外にいないはずなので、加減も知らずにバンバンと叩きまくっているこの人物は恐らく何か勘違いしている。そのことを教えようと視線を上げると、ツンツンした髪の男がその巨漢さを誇示するように立っていた。
誰だろうかと疑問符が頭に浮かんだが、ふとその姿に重なるものを覚える。記憶をぐるぐると駆け巡らせていると、少しして思い出した。
お読み下さりありがとうございます!次回更新日は7月16日の19時~20時を予定しています。