「四月」 8
予定よりも早くに始業式が終わり、体育館からD組の自分の席へと戻ると、二限目が始まるまである程度の自由時間となった。早めに終わったのは偏に校長先生の話が短かった、という点に集約されるだろう。そしてその二限目にクラスの皆や俺の質問付き自己紹介を行うと森先生が言っていた・・・気がする。先ほどの自己紹介から今に至るまでずっと回想と放心を繰り返していたので記憶が曖昧だった。
この時俺は愚かだった。自分の知っている人がこの学校にいることを考えなかったのは仕方ないとしても、想定外の状況に本来ならば他に考えなくてはいけないことがあるはずだったのだ。だがそのことに気付かず、目先のことばかり考えていたのだから。
彼女の名前は雲雀桜楽。俺とは幼稚園からの幼馴染の関係であり、最も仲の良かった友達・・・親友と言っても過言ではなかった。俺が別の高校に行くまでクラスがずっと一緒で、それは自嘲的に言えば腐れ縁だった。
そして俺は朝の玄関での母さんの意味深なセリフの真意にも思い当たっていた。母さんは桜楽のことを知っている。だからこそ名簿を見たときに「雲雀桜楽」の名前があったことに気が付いて俺にあんなセリフを残したのだ。
あれから俺は一度も桜楽と会っていなかったので、こうして目にしたのは一年ぶりだった。
一年ぶり。そう考えると大したことがないのに、俺にはそれがひどく懐かしく感じられた。
高校が別々になると分かって、実際に進学をした後、桜楽とは近況報告的な会話を電話を通じてそれなりの頻度でしあっていた。自分のクラスで面白かった出来事といった高校の話題から、雲雀家で飼われているペットの犬の話などの他愛のない話題まで沢山の事を喋っていた。桜楽は携帯電話を持っていなかったから、今の時代に珍しい固定電話でいつも大変だなぁと他人事に思っていたのは今でも覚えている。
しかしその電話を介した付き合いは少しずつ途絶えていき、やがて完全に無くなった。俺がいじめられるようになって、桜楽と話すことを避けるようになっていったからだ。
俺は決して知られたくなかった。何年も共にしてきた親友に自分がいじめられているなんて口が裂けても言えなかった。そこにあったのはプライドなのか、心配をかけたくないという意識なのか、果たしてそれ以外なのかは分からない。けれど一度でも全てを桜楽に曝け出してしまいたいと思ったことは無かった。
始めこそ桜楽に俺のいじめを覚られないように平静を装って電話に出ていたが、いじめがエスカレートしてきてからは適当な理由をつけて話すのを避けていった。それに平常心で会話できる自信もなかった。この時はまだ心が痛んでいた。だが、自分の心が荒み始めてからは次第に理由をつけることにもどうでもよくなっていき、最早何も告げることなく桜楽からの着信を無視するようになっていった。
無視していた、という事実に心臓を握りしめられるかのような痛みが走った。それに無視していただけではなかった。
俺は桜楽の存在を忘れていた。
俺が無視してからもしばらくは携帯に何度も雲雀家、即ち桜楽からの着信を示す番号が無機質に主張されていたものの、日が経つにつれて段々と俺の携帯は何も言わなくなった。最後には完全に沈黙した携帯に俺は何か一つでさえ思うことはなかった。その頃には既に俺の心は隙間なく死んでいて、色んな事がどうでもよくなっていた。それはいつの日か、桜楽の存在を記憶から抹消させた。
着信が無くなったことについて桜楽が何を思ったのか俺からは知る由もない。桜楽のことだ、俺が忙しいんだろうなーなんて呑気に考えて気を使って俺からの着信を待っていたかもしれない。
俺は今になってとんでもないことを桜楽にしていたのだと知った。それがもうきっと取り返しのつかないことであることも。
目が合った時の桜楽の泣き笑いのような表情を思い出しても何も分からない。桜楽に会えたことに対するこの自分の気持ちもよく分からない。何も分からなかった。でももし俺が喜ぶとするなら、それは桜楽に対する冒涜でしかないということは理解していた。
そうして結局何度も考えていたことに回帰する。どうすればいいのだろうと。謝るべきなのか、いっそのこと無視を決め込むべきなのか、それとも何か他に道があるのだろうか。
答えの出ない焦燥だけが俺を満たす。
故に俺は驚くのでなく、呆気に取られた。
「わー!ほんもののしーくんだ!いつの間にこっちに戻ってきてたの!?教えて欲しかったよ~。それでお母さんにしーくんがほんとに帰って来たって言わないと!きっと喜ぶだろうな~!もちろん桜楽も嬉しいけどね!そういえばよく行ってたあの場所のこと覚えてる?ね、また一緒に行こうよ!今もあの眺めは綺麗なんだよ~!それでそれで桜楽のね・・・」
比喩ではなく、本当に俺は口をポカーンと開けて、ただその光景を目に映していた。
そんな俺を余所にぱたぱたと走り寄ってきて、目をきらきらとさせながら揺れるレースリボン。
俺はただ聞いていることしかできない。実際聞いているというよりは、耳から耳へ流れて頭に入ってこないという表現の方が相応しい。
しばらく色々な話題を喋り続けてから、彼女はずっと話し続けているということに気づいたようで、「ごめん、喋りすぎちゃったね!つい嬉しくなっちゃって」とはにかんで頭をかいた。それでもなお反応しない俺に「おーい、しーくん?おーい」と俺の目の前で手をぱたぱたと振った。
そこでようやく俺にも魂が帰って来た。
「・・・桜楽?」
「おぉ、やっと気づいた~。はいそうです、桜楽です。久しぶりだねぇ、しーくん」
「あ、うん。久しぶりですね」
「なにその口調~?」
思わず変な調子になってしまった俺に、口元に手を当てて穏やかそうに笑う女の子・・・もとい桜楽。昔から変わらない笑い方だ。
肩の上くらいまであるふわふわとした明るい色の髪に、それよりも少し短く顔の左半分の輪郭を隠すように結われたサイドの三つ編み、その終わり辺りにつけられたピンクと白のレースリボン。敵意の欠片も感じさせない大きく目尻の下がった目とそれに合わせるかのように下がった眉。そしてちょこんとある桜色の唇に、そこから紡がれるおっとりした口調の言葉。どれも変わっていない。呼び方も、昔何度も変えてと頼んだのにも関わらず変わらない唯一の「しーくん」呼びだ。
そのまま桜楽は立っているのが疲れたのか、俺の机に腕を組んで、その上に顎を乗せるようにしゃがんだ。俺達にとっては定位置「だった」形だ。俺は無意識にそこに昔日の風景を重ね合わせ、幻影した。
「その、あの、えっと・・・」
「さっきからどうしたの~?まさか桜楽のこと忘れたとか!?」
「いや、違う違う!覚えてる覚えてる!忘れるなんて・・・あるわけないだろ」
「ふふ、ちょっとからかってみただけだよ」
気づいたときには簡単に、咄嗟に嘘をついていた。頭の中に氷を入れられるような冷たさを錯覚する。
嘘をつく覚悟はしていた。人を騙すというその意味も理解していた。でもこんな嘘は想定していなかった。こんなにも痛いものだとは思ってもみなかった。
暗い顔をする俺とは対照的に、桜楽は笑顔だった。そこに意図しない疑問が脳裏を過る<ヨギル>。
怒ったり、見放したりをしないのだろうか。俺が無視していたことを伝えずとも桜楽は知っているはずなのに。しかしこの質問はしてはいけない。確かに頭の中ではそう思っていた。
「あのさ、桜楽は・・・何も思ってないの?」
なのに気が付くと俺はぐっと飲みこむはずだったその疑問を自分でも知らぬうちに口に出していた。言った後にはっとして、後悔の波に呑まれる。聞いておいて返答は聞きたくないと耳を塞ぎたくなった。
「何もって、何のこと?あ、もしかして、しーくんに電話が繋がらなくなったこと?」
「・・・そう」
後悔しても後戻りはできず、唇を嚙みしめて次の言葉を待つ。冷汗が伝う。目をぎゅっと瞑って、ここから逃げ出したくなるような衝動が俺を襲った。
「だって、しーくん、忙しかったんでしょ?そうだよねぇそうだよねぇ、しーくん頭のいい高校行ってたんだもん。勉強とかバイトで大変なんだなって思ってさ~」
朗らかな口調で、ひとりでにうんうんと頷く桜楽。俺が予想していた通りの解釈をしていたらしい。しかし安心出来たのは一瞬で、直後には罪悪感に苛まれて俺は俯いた。
読んで下さりありがとうございます!次回の更新日は7月15日の19時~20時を予定しています。