「四月」 7
「空栖くん」
ポン、と肩に手を置かれた。驚いて前を向くとと森先生が初めて見たときのようにただただにっこりと笑っていた。そのまま何も言わずにガラガラと扉を開けて入っていく。触れられた肩からは氷が解けていくような、そんな錯覚がした。
森先生がよろよろと少しずつ入室すると同時に、教室が閉められた扉越しにもわかるくらいがやがやと一気に騒がしくなった。
「きゃーっ!森じいじゃん!マジ、やば、嬉しいんだけど!」
「っしゃーっ!これはキタわ、森じいうーっす!」
そんな声が自然と聞こえてくる。それはどうやらみんな歓声のようだった。マイナスの感情が乗る声は聞こえない。口笛なんかも聞こえてきた。森先生は凄い人気者だったみたいだ。
考えてみればここの一年生だった生徒たちは今日が二年生のクラス替えをして初めての顔合わせの日だ。この学校では一年から二年にかけてはクラス替えがあるものの、二年生から三年生にかけてのクラス替えはない。つまりこれから二年間共に時を過ごすクラスの友達は勿論、基本続投される担任教師なんかも気になるところだったのだろう。
それにしても森先生は森じいと呼ばれているのか。だからさっきあんな発言を・・・。なるほど、意味が分かった。
ふっ、と自然と笑みが零れた。初対面の時のマスコットという失礼な感想はどうやら間違っていなかったらしい。度々失礼かもしれないが森じいはいいニックネームだな、なんて思ってしまった。
気が付けば緊張感は幾分かはあるものの、それは先ほど感じていた張りつめている悪いものではなく、心地よいものに変わっていた。呼吸も自分では気が付かないうちに荒れたものになっていたらしい、今は落ち着いたものになっていた。
森先生はきっとそんな強張った俺の様子を見て、あえて何も言わず肩に手を置いてくれたのだろう。おかげでこうしてリラックスすることができた。心の中で深く森先生に感謝する。
教室の興奮も少しずつ収まってきたようで次第に静かになっていった。よく見ると前後にある教室の扉の上には天井との間に開閉可能な横長の窓があるみたいでそこから声が聞こえていた。まぁ、先ほどの歓声はこの窓が閉まっていても聞こえるぐらい大きなものであったとは思うけど。
そうして森先生が自分が担任であることを告げ、軽く自己紹介をする。名前や受け持つ教科などについてさらっと紹介し終えるといよいよ、
「そうじゃ、今日は初日からじゃがなんとみなに嬉しいお知らせがある。このクラスに新しく転校生が入るのじゃ」
と声を弾ませた。
またクラスに歓声が上がる。
「・・・?」
しかしそれは先ほどの森先生の入室時の歓声と比べると何だか違和感がした。先ほどの森先生より歓声もこころなしか小さいような。少し傲慢な考えになってしまうかもしれないが、俺の転入と森先生が担任という事実は喜びのベクトルとしては同じ向きのはずだ。なのに森先生の場合はそのまま森先生が現れて担任になってくれたことへの喜びで、俺の場合は俺が現れて転入生としてD組に来てくれたという喜びではなく、なんというか俺自身が現れた、そのことに対する喜びというか驚き?みたいな感じがするのだ。預言者の予知があたったかのような。うまく言葉にできないのがもどかしい。
いや、喜びの歓声が聞こえない訳でもない。それに森先生はきっとかなりの人気者ということなのだろう。きっと俺の緊張感が生み出した錯覚に違いない。
森先生がD組のみんなを頑張って鎮めると「では入りなさい」という声が聞こえた。
扉に手をかけ一つ深呼吸をする。・・・よし。
俺は心を決めると扉を開け、入室する。
途端に好奇の目に晒されていることを肌にひしひしと感じた。それでも一歩、一歩と教壇の前まで歩いていく。誰も喋っていないのか、俺がそう無意識にしているのかは分からないが何も聞こえない。聞こえるのは確かに打つ自分の心臓の音だけだ。
教壇の前までつくとクラスの皆に向き合うように立つ。四十人くらいといったとこだろうか、誰もがこちらを見ていた。その目線に圧倒される。足が竦みそうになる。でもこの状況は分かっていたことだ。負けられない。背中と肩に熱が灯る。
「では空栖君、自己紹介をしておくれ」
「はい」
森先生がそう指示する。
俺は一度振り返って黒板に「空栖織」と自分が出来得る限りの綺麗さで大きく書くとまた向き直り、腰を折って目をぎゅっと瞑って挨拶する。
「今年の四月からここに通うことになりました、空栖織です。皆さん今日からよろしくお願いします!」
なんとか噛まずに言い終え、姿勢を元に戻していく。
相変わらず他の人の声は聞こえなかった。さっきから心臓の音は鳴りっぱなしで、それどころか音は大きくなっていた。
そうしてゆっくりと上がっていく視界の中でこれから共に過ごすであろうD組の皆が前から順に見えていく。
早くも眠たそうにしている短髪の男子生徒やこちらを興味深そうな目で見る制服を着崩した派手めな女子生徒と視界に捉われていく中で、俺の視界がある一点で釘を刺されたように止まった。同時にこれ以上の限界は無いだろうと思っていた心臓がドクンと跳ね上がった。そこには女の子がいた。どこからか飛んできた桜の花びらが俺の目の前をふわりと舞った。
肩上くらいまで伸ばされたふわっとした髪に、泣いたらすぐに腫らしてしまいそうな大きな目。けれど、その背丈はもう俺の後をついてくるというには随分と大きい───。
あちらはずっと俺を見ていたらしい。目が合った。その子は呆けるのでもなく、驚くのでもなく、沢山の感情が織り交ざってしまって、うまく一つの表情が作れないといったような顔をしていた。それでもその表情を言葉に当てはめるのならば、泣き笑いという表現が一番近いだろうか。
冷静に考えれば俺は予定していた「友人B」のためにも、ここで何も気づかなかったフリを装って挨拶を終えるのが恐らく最善手だった。でもそれは出来なかった。
俺は自分の上半身が変な角度なままなのも気づかず、昔何度も呼んだその名前をなぞる様に、確かめるように無意識に口を開いた。その声は自分が思った以上に震えて、ほとんど声にならない声だった。けれど、つっかえることはなかった。
「桜楽・・・?」
ひさしぶりだね、しーくんと彼女は声には出さずに言った。