「四月」 5
「まさかお前さんは女の子が苦手なのか?女の子はいいぞ、それを分からないとはつくづく勿体ない野郎だぜ。いいか?まずな・・・」
自分の行動に呆けている俺を他所に、男は俺の行動をどうやら女性が苦手なものと解釈したらしく何か語り始めていた。
男の解釈はあながち否定できるものでもなかった。俺はいま間違いなく無自覚に、しかし背後には確実にある種の意思をもってその行動をとっていた。あえてこの男の解釈に指摘するとならば、俺は女の子「だけ」が苦手なわけじゃない。ただ───。
「つまりそのうなじにこそ生命の神秘が・・・。っておい、聞いてるか」
「え?あー、ばっちり聞いてたよ。うん、確かにそうだ、うなぎが食べたくなる日ってあるよな」
「お前俺の話の何を聞いてた!?」
完全に聞いていなかった。なので聞こえた単語でそれっぽいことを返したつもりなのだがどうやら違ったみたいだ。割と長々と男は語っていた気がするのでなんとも申し訳なく思う。
力説が聞かれていなかったことにしょんぼりしていた男だが、時間に猶予がないことを察してか「行くぞ」と言っていよいよ職員室の扉に手をかける。
俺も自分の先ほどの行動に対して考えるのをやめ、男に続いて職員室へと足を踏み入れる。
途端に仄かに香るコーヒーの香りに、どこの学校でもするものなんだなと至極どうでもいいことを覚えながら辺りを見回していると、男は「お前はたぶんそこら辺の先生に聞けば案内されるよ。じゃあ俺あっちだから、またな」と言って音を立てずに奥の方へ歩いて行った。どうやら遅刻した人はその旨を知らせる先生などがいるみたいだ。ティッシュでの拭き方やその後の処理、今の職員に気を遣った静かな歩き方といい、体の割に案外細かい奴なのかもしれない。
「あ」
去っていく背中を見ながら気づく。そういえば名前を聞いていなかった。しかしなんとなくあの男とはこれで終わりではない気がして今度会った時に聞ければいいかと思い直す。あいつも「またな」って言ってくれてたし。
そんな「またな」に対して嬉しく思っている自分に気がついて驚いた。
俺は円幌で受けたいじめによって自身の性格が変わったことに気づいていた。昔は誰とでも仲良くなろうとしたし、困っている人がいれば力になってあげた。でも今は違った。逆だった。いじめを受けて、円幌の学校の友達だった人たちに嫌悪や拒絶をされ始めてから、自分の中の自分を形作る何かが壊れて音を立てて崩れていった。それからは自分から進んで人に関わろうとは思えなくなった。
一時期は円幌の生徒以外の人なら大丈夫だ、なんて考えていたこともあった。しかしそれさえも俺には厳しかった。
買い物をしたとき、道を尋ねられた時、落とした物を拾って上げた時、それらの場面以外でも俺は人と話すことに自信を持てなくなってしまっていた。この人は今、心の中で俺を馬鹿にしているのかもしれない、俺と話し終えたら後ろ指を指して笑うのかもしれない。そんな少しの恐怖心が会話する時にいつも隣にいて、俺の体を震えさせた。そして恐怖心は表情を殺して、昔の様に誰彼と構わず自然に笑って話すことが出来なくなった。俺は崩れるどころか雨風に当たって錆びていた。
しかし不幸中の幸いというべきか、そんな症状が起きるのは決まってさっきのサイドテールの女の子のように年が近い人に対してだけだった。円幌で俺をいじめたのがその年齢層だからだろう。小さい子や、年配の方なんかには今まで通りの接し方が出来た。勿論、家族や親戚も問題なかった。それは純粋に安心できることであった。
だから、男が先ほど俺を女嫌いのように評していたのは実質的には間違っていなかった。しかし本質的にはむしろもっと限定的なものであったために正解だとも言えなかった。
そのために、あの男に言われた「またな」に衝撃を覚えたのだ。その言葉に嬉しみを覚えるなんて俺がまた会いたいと思っているようなものじゃないかと、そう思えて。俺の一時の気の迷いなのだろうか。しかしもしあの男じゃない生徒が校舎に入る前の、最後の俺をびくりとさせた発言をしていたら俺は流されるままに本気で謝っていた気がするのだ。その結果空気をおかしくして。彼の何がそうさせたのかは分からない。
そんな自分でも分かるくらいな変化をしたのだから、もし昔の俺をよく知っている人が今の変わった俺を久しぶりに見たらきっと疑問に思うだろう。
「まぁ、そんな人は家族ぐらいしかいないだろうし考えるだけ無駄・・・」
そう自嘲気味に笑おうとしたところで一瞬、桜が舞い落ちるように思い出される存在があった。
ふわっとした髪、すぐ泣いて腫らす目元、俺の後を一生懸命についてくる小さな体───。
そこまで頭に描いたところで、思い出したようにズキッとした胸の痛みを覚えて考えることをやめた。今は目先のこと以外に集中するのを避ける。
とりあえず辺りを見渡し、男に言われた通りに距離が近かった中年の太ましい先生に学年と名前、転入生だということを伝える。どうやら俺のことは知らされていたみたいで、すんなりと「こっちだね、ついてきて」と言って席を立った。迷いなくどこかに向けて進んでいく先生に俺はきょろきょろと職員室を見渡しながらついていく。
どうやら教室二個分くらいの大きさで長方形らしい職員室の端から端まで歩くと太ましい先生が立ち止まり、「転入の子です。あとはよろしくおねがいします」と一言告げたあと、俺に「じゃあ頑張れよ」と励ましを入れて元の机へ戻っていった。
連れてきてもらった先生にお礼を言おうとしたのだが、
「おはよう、空栖くん。待てたよ」
と少しなまった?調子のしゃがれた声でそう声をかけられた。
消化不良感を抱きながらも振り返ると椅子にちょこんと腰を掛けていたのは還暦を思わせる、こういってはなんだがまさに「おじいちゃん」という感じの人だった。
身長は椅子から足がぎりぎり地面につくかというぐらいの小ささで、頭のてっぺんにケーキに乗る生クリームのような白い髪がちょこんと置いてあった。目は本当に空いているのだろうか?と疑いたくなるほど細く、額には漢字の三のような皺が刻まれており、それでもその少しばかりかさついた唇の口角が上がっているのを見て、にっこりと柔和に微笑んでいるのがすぐに分かった。・・・高齢の方に使う表現としてはおかしいかもしれないが「マスコット」という表現がしっくりくる、そんな方だった。
「おはようございます。今日から転入します、空栖織です!よろしくお願いします。それで先生は・・・」
「うむ、いい挨拶じゃな。儂は森辰郎という。空栖くんの担任、ひいては君がこれから一員になるD組の担任じゃな」
「そうでしたか。では森先生、本日からお世話になります!改めてよろしくお願いします」
年齢を重ねるほどクラス担任を勤めるのは厳しいと聞くのでもしかしたら他に・・・とは一瞬思ったが、流石にここまで案内されて担任じゃないということもなさそうだったので、内心少しばかりその高齢さに驚くだけで済んだ。
それに今分かったがどうやら俺はD組らしい。ここの高校の転入が決まって準備をしている間にどうやら自分が転入するクラスの名簿的なもの?が家に送られてきたらしいのだが気が進まなく、目を通してはいなかった。在籍することになるクラスも今のこの時間に聞ければ問題ないだろうなとは思っていたので、今朝の母さんの気になる発言はこういったことに起因してあった。
「森先生か。そんな風に呼ばれるのは久しぶりじゃなぁ・・・。では空栖君、早速じゃが行こかの」
森先生は言葉の前半なにかしんみりとした様子で意味深なことを呟いていたが、これからのことを考えていた俺にはあまり気にすることはできなかった。
そう、ここからが正念場なのだ。新しいクラスで失敗しないようにと俺は気を引き締めると、森先生の後に続いた。