「四月」 4
「ティッシュありがとな。助かった」
その違和感の正体を掴もうとしていると、男が拭き終えたティッシュをポケットにしまい礼を言った。俺は考えるのを止め、疑問に思っていたことを訊ねる。
「いいや、とんでもないよ。それはそうと、もう遅刻確定してるけどどうするんだ?ひっそり教室に入ったりするのか?」
男は数秒の間宙に視線を彷徨わせながら考え、言葉を形にした。
「まーいつもならそれでワンチャン狙うんだがなぁ。ほら、今日は始業式とか初顔合わせがあるだろ?そして見ろ、玄関に張り出されているはずの新しいクラス表が見当たらない。つまり・・・」
「つまり?」
そこまでいうと男は諦めたような顔をして肩をすくめた。
「俺はこのまま職員室でありがたい一言を頂戴してから教室を教えてもらって入るよ。まぁこんな日だから一言で済まないかもしれないけどな。・・・ん?ていうかそれはお前も同じじゃないか?お前も俺と同じ遅刻じゃん。俺と同じで寝坊したか?」
「流石に初日から寝坊なんてしないよ。俺は・・・」
「待て待て、俺を助けていたから遅刻じゃないなんて言わせないぜ?遅刻は遅刻なんだぜ?ここの遅刻に対する判定、指導は厳しいんだ。俺は身を以てよく知ってる」
なぜか誇らしげに胸を張るこの男はどうやら遅刻常連らしい。決して誇れるようなことではないぞという指摘はしないでおき、俺は軽く笑いながら自分の状況の説明を改めてすることにした。あとこの男がコけている時には既に俺以外の生徒には遅刻の時間だったので助けた云々は元々意味がなかった。
「そんなことは言わないよ。俺は今日から新しくここに通う転入生。学年は二年。だから俺はこの時間でも遅刻じゃないんだ」
「・・・二年の転入生?」
「そうだよ。それがどうかした?」
「なんでもねぇ。ちっ、なんだよ、そうか。一緒にありがたい言葉を頂戴できると思ったのにな、ちくしょう!そうだ、それならせっかくだし職員室まで一緒に行かないか?お前がもしかしたら道に迷う可能性が無きにしも非ずだしな。助けてもらった恩もあるし」
男は一瞬「いや、まさかな」と確かめるように小声で言った後、そう提案してきた。俺としても助かるのでそれに乗ることにした。
「いいのか?俺もこの校舎を詳しく知らないから、それはとても助かる」
「いいってことよ。にしてもそうか、見ない顔だと思ったが転入生だったか!はぁー、でもどうせなら可愛い子が良かったなぁ」
男が笑いながらそんなことを言葉にする。しかし、その言葉を額面通りに受け取った俺はびくりとする。
嫌われたくない。咄嗟によぎったその感情に突き動かされ、俺は頭を目いっぱい下げるような本気の謝罪をしようとした。
「・・・はは、そりゃ残念だったな」
しかしこの男が傷つけるためにそんなことを言うはずがないと不思議に思えて、小さく息を吐いてどうにか思いとどまる。そしてニヤリと笑って言葉を返した。
今の発言に本気で、場に似合わぬほどに過剰なほどに謝っていたら変な雰囲気になっていただろう。男もきっと困惑したに違いない。というか今のは普通に考えて冗談の範疇だろう。どうやら俺は必要以上に過敏になりすぎているらしい。
それにしてもさっき感じた懐かしさはなんだったのだろう。
その疑問に思い当たる前に男に「こいつめ!」と肘で小突かれるところとなり、共に職員室へ向かうために足を校舎に向けた。
いつの間にか日の光が空からは届かなくなっていた。
気の良い男の案内に従って職員室までの道のりを共に歩いていた。
職員室に着くまでの間、男は廊下に飾ってある蒼陵高校の部活の入賞歴についてそれぞれ説明してくれた。バスケットボールの金のトロフィーをなんと去年とったものなんだ、と紹介してくれたり、廊下の左右にある美術部が描いたらしい体ほどもある大きな風景画や果物の絵を優秀賞、それも入ったばかりの一年生が取ったんだぜ、と感情をこめて語ってくれるお陰で退屈しなかった。俺もその話に相槌を打ちながら歩いていく。この高校は聞いている感じだと部活動が盛んなのかもしれない。それにしてもバスケ関係のトロフィーについては輪にかけて熱く語っていた気がするのは気のせいだろうか。
廊下も突き当りになり、男は右手側にある階段に足をかける。ということは職員室は二階にあるのだろうか。自然と職員室は一階にあるものだと思っていたのでなんだか意外だった。
そのままアルファベットのUの字を逆にしたような階段を上がるとすぐに「職員室」と書かれたプレートが目に入った。
「ここがご覧の通り目的の職員室だ。二階にあるのは珍しいだろ?」
「ああ、学校の形にも色々あるんだな。ちょうど今驚いてた」
「俺も初めての頃はびっくりしたな。でも意外と珍しくないらしいからなぁ」
「そうなんだ。移動とか不便じゃないのかな」
そんな会話をしながら男は職員室の扉に手をかけようとすると、そろそろと勝手に扉が開いた。まさかこの学校は自動ドアでも標準化されているのかと感嘆しそうになったが、男が小さく「うおっ」と驚いていたのでそれはないみたいだった。考えてみればあの風貌の校舎に自動ドアはアンバランスが過ぎる。
開かれた扉からは見るからにどんよりしている女生徒が俯き加減でとぼとぼと出てきた。朝日のせいか煌めいて見える茶髪をサイドテール?というのだろうか、横に結わえていて本来ならば活発な印象を受けそうだが、本人の纏う暗い雰囲気のせいでそんな印象が打ち消されていた。
並んで立つ俺たちに見られていることに気づいた女生徒はハッとして一瞬姿勢をピンと正したが、また溜息をついてどんよりとした。
「お、おはよう」
目が合ってそのまま立ち去るのも気まずいと思ったのか、彼女は控えめに挨拶をしてきた。
「おう、おはようさん」
男も気軽に挨拶を返す。
俺は軽く会釈をする程度にして、口を開くことはしなかった。
「今日の遅刻はこってりしぼられるよ~、頑張ってね」
そう言い終えるや否や今度はニヘヘと困り顔に笑って階段を駆け上がっていった。結わえた髪が左右に忙<セワ>しなく揺れていた。なかなかコロコロと表情が変わる女の子だったが、どうやら遅刻をしたことにどんよりしてたみたいだ。隣のヘラヘラしている大男にも是非見習ってほしい姿勢である。
「こってりしぼられるんだってよ。幸運を祈ってる」
「せめて心の底から祈っているように言ってくれ・・・。てかなんで急に俺の後ろに縮こまってんだ」
「え?」
言われて自分の立ち位置を見ると、男の横に立っていたはずがいつのまにか隠れるように男の後ろに立っていた。完全に無自覚だった。