「四月」 3
俺が驚いて声のする方に目を向けるのと、声の主がやらかしたといった顔をしながら派手に転ぶのは同時だった。一瞬目が合った。
その男の転倒は、一目で俺よりデカいと分かるほどの大きな体を前に出した両手と一緒にビターン!とコンクリートに叩きつけるようなもので、躓いてから体が一瞬宙に水平になるさまは実に絵になるものだった。男はそのまま動かない。
声をかけに行かないと。俺はそう思って一歩を踏み出そうとした。
だが、なぜなのか足が動かなかった。なんとか動かそうと四苦八苦するも、根を張った大樹のようにビクともしない。他人が見たら、変なパントマイムをしているときっと笑うだろう。
そうして、気づいた。
俺は心惹かれたのだ。ここで人と関わったらまた以前の学校のようなことが起こるかもしれない。もしそんなことになるくらいならいっそ関わらなければ───というほんの、ほんの少しだけ脳裏を過った甘言に。ゼリー状のあの化け物がいつの間にか視界の隅に居座り、嗤っているのが見えた。
でも、そうだ。関わることさえしなければもうあんな思いはしなくて済む。だとすればそれは最善の策なのではないか。触らぬ神に祟りはないはず───。
「・・・いや」
そんな後ろ向きな思考に沈みかけたところで朝の母さんとの会話が思い出された。そこで俺は言ったのだ。頑張ってみようとは思ってる、と。ここで何もしなければ俺は母さんだけじゃなく、父さんにも杏にも嘘をつくことになる。そんなのは俺がいじめで傷つくことなんかよりもよっぽど嫌だ。もう家族に心配はかけまいと誓ったはずだ。何を後ろ向きになっているのか。
奮起すると俺は一度だけ深呼吸し、動かない足を今朝母さんがしてくれた叩き方を無意識になぞるようにバシン!と叩く。するとさっきまで俺のものではなかった足がゆっくりと俺のものへと帰ってくる感覚があった。よし、これなら。
転倒した男が起き上がる様子はない。俺が葛藤にして十数秒と言っても今の今でも起き上がらないのは不安だ。
俺は足を叩いたその勢いから慣れないままに、少しよろめきながらも男の元へ急いで向かうと、ピクリとも動かない男に声をかける。同じ制服を着ているし蒼陵の生徒で間違いないだろう。
「お、おい、大丈夫か?」
「ん、んん・・・。これは俺死んだな。息が出来ない」
どうやら意識はあるようだ。そっと安堵する。
「大丈夫、たぶんだけど生きてるよ。とりあえず起きたらきっと息できると思うぞ、ほら」
うつ伏せでふごふごと話す男にそういって左手を伸ばす。のっそりと顔をこちらに向けた男子生徒は、
「お、おぉ。ありがとな」
と少し照れくさそうな顔をしながらこちらの手を握ろうとして、
───触らないでっ!!
「っ!わ、わり!さっき俺も転んでさ!手が汚れてたんだったわ!」
突然頭の中で響いた声に俺は咄嗟に手を引っ込めていた。そして適当にもっともらしい言葉を紡ぐ。冷汗が体を伝うのを感じる。心臓が早鐘を打ち、右手が強張る。隙間なく閉じた筈<ハズ>の記憶の蓋がギギギと歪な音を立てる。
繋ぐ直前で手を引っ込められた男はその俺のおかしな行動に驚いたような、怪訝といったような顔をしていた。
「別にそんなこと気にしないんだが。リアルタイムで俺もコけてる訳だしな。うんしょっと」
「あ、ああ。それもそうだよな。は、ははは」
幸い俺の行動に言及するようなことはせず、男は立ち上がりそのまま制服をパンパンと叩いて汚れを落とし始める。俺も自分でも分かるほどのぎこちない笑い声を出す。そんな自分の中には鬱憤とした感情が沸き上がっていた。
(なんでこんなことさえ俺は・・・!あいつらとは何の関係も・・・!)
心の中で自分への落胆と苛立ちの言葉を吐く。今のフラッシュバックした声を俺は知っていた。暗く淀んだ記憶が靄を溢れさせながら顔を覗かせる。あの化け物が距離を詰めていた。
溢れたその靄は体にわりつくようにして、手始めに俺の体の自由を蝕まんとする。少しずつ言い知れぬ黒い感情が俺を飲み込み、支配しようとした。
しかし、俺はこんなことで挫折する訳にはいかなかった。これだけで挫折する訳にはいかなかった。朝の約束と、それに先ほどの誓いを思い出して静かに奮い立つと、体に巻き付く靄を引きちぎる様にして振り払った。化け物はピエロが笑ったような表情を残し、その姿を陽炎のように揺らしながら消えた。記憶を再び密封するようにして忘れさせる。
深呼吸をするようにして体を落ち着かせ、心拍と呼吸の乱れを落ち着かせた。
ほどなくして平静さを取り戻した俺は制服の汚れを払い終えたらしい男に対し、とりあえず声をかけてみることにした。
「そういえば顔、大丈夫だったか?派手にいったみたいだけど。見た感じ血とかは出てなさそうだが」
「おうよ!ちょうど顔のところにこのちっせぇバッグがあったおかげで顔は無事だわ。手は・・・あ、すりむいてる。見ろ、血だ」
「いや、いい、やめろ見せようとするな。あ、待て!すりむいた手を制服で拭こうとするな。今ティッシュ渡してやるから」
「お、サンキュー。なんかお前オカンみたいだな」
そう言って男はニカっと、眩しい白い歯を浮かべながら無邪気な笑顔を浮かべた。・・・オカン?
弁当と一緒にもってきた水筒から水を出し、ティッシュを濡らして応急処置として渡す。男はそれをありがたそうに受け取ると、大きい体の割には細かく手のひらの血と汚れをこすこすと落とす。
改めてその男を見ると身長が175cm弱ある俺より全然大きかった。ゆうに15cmの定規一本分の長さは超えていて、195cmは間違いなくあるだろうというほどの大男だった。全体的に茶色がかってツンツンとした短い髪に大きな顔。勝利への執念を感じさせる眉とキリっとした一重の鋭い目が一見近寄りがたさを感じさせるが、不思議と柔らかい雰囲気が醸し出されていてそれを相殺している。
しかし何より目を引くのは頭に巻かれた黄色のヘアバンドだ。前髪を豪快に上げるそれは、ところどころ年季のせいかくすんでしまっているが、新品だったころはさぞかし眩い光の色を放っていただろう。
(いっ、何だ・・・?)
そこまで考えたところで、チクっと頭を何かが差すような痛みが走った。それはどういう訳か郷愁を伴うような、懐かしさから来るような痛みだった。
けれど痛みが過ぎ去ったそこには妙な安心感があって、不快な余韻を与えなかった。