「四月」 1
四月編の始まりです。
朝、いつも通りの目覚まし時計の音で目が覚めた。止めなければいつまでも鳴り続けそうな目覚まし時計にストップをかけ、ベッドから出てカーテンを開ける。そこに広がる景色もいつも通り───ではなかった。一年前まで見ていたビルが立ち並んで排気ガスの匂いが立ちこむ眺めではなく、三角の屋根の家がそこかしこに建っており、遠くには山が見える風景だった。小鳥のさえずりが聞こえる。窓を開けて大きく息を吸い込むと新鮮な空気が肺の隅々まで行き渡って気持ちが良かった。
「そうか・・・俺はここに戻ってきたんだな」
誰に話すという訳でもなくひとり呟くと、思い出したくはない暗い記憶がそれに呼応するように再生されようとした。ゼリーのような形を伴った化け物が隙あらば干渉せんとして、崖から這い上がるが如く顔を覗かせる。強く目を瞑ることで化け物を強引に押しこみ、頭の外へと追いやると体から力を抜いた。記憶の蓋が閉じられる。
肩の力を抜いて、無事に精神が平穏に満たされると窓の縁に肘をついて幾ばくかの時間で景色を楽しむ。
「シキー!そろそろ起きないと学校遅れちゃうわよー!起きなさーい!」
時間を忘れてその和やかな光景を眺めていると、一階にいる母親の朝から元気な声が響いた。
はっとして腕時計を見ると目覚めてから既に十分が経過していた。結構夢中で眺めていたらしい。
転ばないように階段を降りテーブルを見ると、既に朝食が用意されてあった。焼かれてから少し時間がたったのであろうトロリとバターが溶けたトーストに、トマトが眩しいグリーンサラダ、コーンスープといった色とりどりの料理にお腹の虫を刺激される。
そんなテーブルには既に食事が終えられたのであろう食器も二人分並べてあった。父さんの青色の食器と妹の杏のピンクの食器だ。ちなみに俺の食器は白色である。よく見ると杏の皿にはトマトが残されてあって苦笑いする。朝に顔を合わせないのを見ると二人はもう家を出たらしい。変わらず空栖家の朝は早い。
「あー、やっと起きてきた。始業式当日に遅刻なんてみっともないイメージがつくわよ。もう高校二年生なんだからしっかりしなさい。車で送ってやったりなんてしないんだからね」
「大丈夫大丈夫、まだ登校まで余裕があるから。おはよう、母さん。起きてはいたんだけど窓からの景色が綺麗だからつい眺めてた」
椅子に着くと俺が起きた事に気付いた母さんがやれやれといった感じで台所越しに言った。この雰囲気に懐かしさを感じながら「いただきます」と言ってトーストに手を伸ばす。美味しい。
しばらく食パンやサラダとゆっくりと食を進めていると、どうやら洗い物を終えたらしい母親が俺の前にすっと座った。そして毅然とした表情で問いかけてきた。
「シキ。学校、本当に大丈夫?」
「・・・大丈夫って、何が?」
突然な母さんの問いかけに思わずたじろぎそうになるも、平静を装って返事をする。
「友達の事」
母さんが真っ直ぐな、暖かいようにも冷たいようにも見える目で俺の目を見た。やっぱりその話か、と思った。その目からは逃げられないことを直感的に覚り<サトり>、一つ短い呼吸を置いて考える。
俺は母さんの尋ねた「大丈夫?」が前の学校、それも人間関係に関わることであろうことはすぐに察しがついていた。でもその話になるのは色んな意味で避けたかった。なので一瞬あえて惚<とぼ>けてみたのだが、そんなことでうやむやにする気はなかったようだ。母さんの無慈悲な追撃に俺の少しばかりの抵抗は無意味に終わってしまった。いや、無慈悲なんてことを言うのは間違いで、そこにあるのは逆に慈悲でしかないことを俺はこれまでを通じてよく知っていた。
昨年。つまり俺が高校一年生の時、同じく北海道にある都市部の高校で起きたあの出来事を当然母さんは知っていた。あの出来事とは先ほどの寝起きに顔を覗かせた暗い記憶のことで、それは平たく言うと「いじめ」だった。その単語に胸が冷えるような心地がしてたまらず胸を掴む。その右手はやたらと強張っていた。俺は前の学校の事を強く思い出すと決まってこの発作のようなことが起きた。母さんはそんな俺の様子をじっと見つめていた。
いつから始まり、どうして標的にされ、何をされたのか。そんな俺が受けたいじめを、母さんが一体どこまで知っているのかを俺は知りえなかった。恐らく母さんは俺の担任からある程度の情報は得ていたとは思う。だが「あの」担任がその件について詳細に知っているとは考えられなかった。
だから恐らく母さんはその顛末について事細やかには知らない。今はもう仕事に出ている父さんも、学校に行った杏もきっと同様にだ。
しかし父さんや母さん、それに杏も俺のいじめについて根掘り葉掘り聞こうとしなかった。突然電話で俺が学校に行きたくないと伝えたときも揶揄わず<カラカわず>に、その理由を聞くだけで転入の手続きなどをしてくれた。だからきっと家族の皆が俺が急に学校に行きたくないと切り出した理由について知っていることは多少ブレはあるとしても、その時やっとの思いで吐き出せた「いじめられるのが、辛い」という一言以上のものはないと思う。
当然、自分としても詳しく話せないことに罪悪感を感じてはいた。しかしその話題について話そうとすると苦しくて、今はその優しさに甘えることにしていた。
だからいつか、いつか話せるその時が来るのを、身勝手なのは百も承知で待っていてほしいというのが今の自分の意思であり、願いだった。
けれども今の母さんの問いかけから分かるように、息子がただいじめられて学校を辞めたということしか知らないのは親としてきっと不安なのだ。それが分かるくらいには俺は親の愛を自覚していた。だからこそ俺がこんな情けない格好になることを知っている上で、心を鬼にしてでもあえて訊ねてきたのだろう。なら俺もきっと逃げる訳にはいけない。今まで迷惑をかけてきたせめてもの償いとしても。
「シキ、大丈夫?辛いなら・・・」
「いや、大丈夫だよ、母さん。気にしないで」
気づけば乱れていた呼吸をコーンスープを飲んで落ち着かせ、母さんの心配を遮る。一瞬思い出したいじめの記憶を強引に振りほどくと、きちんと母さんに向き直り、目を見て迷いのない決意を伝える。
「以前、一回言ったことだけどさ。正直、いつも通り友達と・・・年の近い人と話すのはやっぱり少し怖いかもしれない。それが例え円幌のあの人たちじゃなくても。でも母さんと父さんがここまでしてくれたし、それを裏切りたくはないから頑張ってみようとは思ってる。それに学校が楽しみじゃないわけでもないんだ。杏にも兄としての威厳を保ってないといけないしさ。だから俺、学校行くよ」
数秒、静寂が場を支配した。母さんが目を閉じ、一つ、とても長い息をついた。
そうして今度うっすらと開かれた目は励ますように暖かった。
「・・・そう、分かった。それがあんたの意思なら、それをあんたは頑張りなさい。母さんも父さんも杏もみんな応援してるからね。でも辛くなったら無理をしないで必ず帰ってくること。これは母さんとの約束。おっけー?」
「うん、おっけー。ありがとう母さん。ごはん、美味しかった。ごちそうさま」
どうにか最後には笑顔を作って気持ちを表明すると母さんは優しく微笑んで背を押してくれた。これ以上家族に心配はかけられない。それにかけたくないと改めて心に深く刻み付けると、学校へ行く準備をするため腰を上げた。
こんにちは。有乃ふゆと申します。この度は閲覧いただきありがとうございます!こちらの小説の投稿は毎夜19時~20時にかけてを予定しています。良ろしければ見ていって下さい。