6 前世と今の境界
ブラムがグレースの元を訪れたのは、翌日の午前中の事だった。
「こんにちは、先生」
「こんにちは、オルストン嬢。体調は如何ですか?」
「至って良好です」
「それは良かった。今日は色々とお聞きする事になると思うので、疲れたらすぐに言って下さいね」
「はい」
「ぶあ!」
向けられた柔和な笑みに、グレースが反射的に微笑み返すと、自身の存在を主張するかのような鳴き声がすかさず聞こえてきた。声の主に視線をやると、ゆらゆらと長い二本の尻尾を揺らめかせながらグレースに視線を送っている。
「フィグもこんにちは」
「ぶあおっ」
ブラムの足元に居たフィグに挨拶すると、上機嫌なひと鳴きが返ってくる。その見た目からは想像できないほど軽やかなジャンプでフィグはベッドに飛び乗り、グレースの左腕に自身の長い尻尾を巻きつけた。
「なんだかご機嫌ですね、フィグ」
「余程、貴方が気に入ったようでして……。ご迷惑ではありませんか?」
「迷惑だなんてとんでもない!今も昔も猫ちゃん大好きなので、むしろ嬉しいです」
グレースの言葉に嬉しそうに眼を細めるフィグを見て、思わず笑い出しそうになるのを堪えつつ、ブラムはベッド横の椅子に腰かけた。
「そう言って頂けて良かった。実は今日の問診にはフィグにも協力して貰うので」
「フィグにもですか?」
「ええ。ですが、協力といっても特別何かするわけではありません。オルストン嬢には、そのままの状態で問診を受けて頂ければ大丈夫です」
ブラムは、フィグの尻尾が巻き付かれたグレースの腕を指さした。
このままでいる事にどんな意味があるのかは分からなかったが、猫の尻尾が腕に巻き付いてる状態など体験した事もないので、嬉しいというのがグレースの本音だ。猫好きのグレースが断る理由など、どこにもない。
「それでは、オルストン嬢。今朝、朝食と一緒に紙を渡されたと思うのですが、記入して頂けましたか?」
「はい」
グレースはベッド横のテーブルの上に置いてあったA4サイズの紙を手に取り、ブラムに差出した。差出されたそれを受け取ると、ブラムは持ってきていたバインダーに挟み、軽く目を通していく。
「全部、記入されたんですね」
「駄目でしたか?」
「いえ、駄目という事ではなく……」
「前世の自分について、前世で生きていた世界の言葉で、書けるところだけで良いので記入しておいてください」と、看護師に渡された紙は、簡単なプロフィールカードだった。名前、性別、国籍、年齢、家族構成、職業、特技。書けない所があるのだろうか?と首を傾げる程度には、時間を要さず書き終えた。
それを見て目を見張るブラムに、グレースは徐々に不安が募り始める。
(特技の欄に、どこでも寝れるって書いたのは拙かったかしら……。それとも、フリガナをふった方が良かったとか? でも看護師さんは要らないって言ってたし)
全ての欄の上に狭い空欄があるのを見て、フリガナを記入するのだと思っていたのだが、看護師にそこは記入しなくても大丈夫だと言われた事を思い出す。日本語で書いた文字もブラムは読めるのかと思ったのだが、やはりあった方が親切だったろうか。
思い当たる限りの原因を考え、悶々としているとブラムが口を開いた。
「この用紙、全ての項目を埋められた人はあまり居ないんです」
「へ?」
予想だにしていなかった言葉に、グレースの口から気の抜けた声が漏れた。
難しい難問の答えを聞かれているわけではない。前世についてのプロフィールを書くだけなのに、埋められないという事があるのだろうか。
「ただ、プロフィールを書くだけですよね……?」
「ええ。ただ、書くだけです。ですが、その、ただが難しいんです」
グレースの言葉をなぞる様に強調し、ブラムはグレースの記入したプロフィールカードから視線を外さないまま続けた。
「名前は憶えていても職業は覚えていなかったり、逆に職業だけは、何をどのようにして働いていたか、内容までしっかりと覚えていたり。覚えている部分は人それぞれですが、前世の事を全て思い出している人というのは少ないんです」
プロフィールカードの上から下まで目を滑らせて、ブラムは「ふむっ」と、頷いた。
「もしかしたら、前世の記憶と繋がりの強いオルストン嬢なら全て埋められるかもと思っていましたが、まさか字まで完璧とは」
「字も関係あるんですか?」
「ありますよ。記憶は浮かんでくるのに、前世で話していた言葉や字が書けないという患者さんも居ますから」
何故、わざわざ前世の世界で使っていた言葉で書くのかと疑問に思っていたが、そういう意図があったのかと、グレースは感心する。
記憶転移症は珍しい病気ではない。この世界に生きる誰もが知っている病気だ。グレースも漠然とではあるが、人それぞれ症状に違いがある事を知っては居たのだが、自身が発症して初めて、ここまで細かく個人差がある事を知った。
「あの、先生は日本語読めるんですか?」
「読めません」
にっこりと笑顔を浮かべて返された。
「日本に居たと言われる転移症の患者さんも数人看ていますが如何せん数が少なく、資料作成が困難なんです。なので、今日はこれからオルストン嬢に一つずつ教えて頂きます」
「教える?」
「はい。それでは順番に行きましょう。前世でのお名前を教えてください」
「あ、えっと、梅野善子です」
ブラムは白衣の胸ポケットからペンを取りだして、グレースが書いた名前の項目欄の上に「うめの ぜんこ」と、こちらの世界の文字で書き込んだ。
「以前の性別と国籍も教えて頂きたいんですが、国籍は日本で宜しいですか?」
「大丈夫です。生まれも育ちも日本だったので。性別も今と同じで女です」
続いて、性別と国籍の欄にもスラスラとペンを走らせていく。
やはり開いていた空欄はフリガナを入れる為のものだったようだ。
(やっぱりフリガナを書く欄だったのね。でも、どうして先生が書き込んでいくのかしら?わざわざ聞いて書いていくより、患者本人に書かせた方が手間が無さそうなのに)
「年齢をお願いします」
「年齢は、死んだ時は九十八だった筈です」
「九十八!長生きされたんですね」
「いえいえ、そこまでいったら百まで生きたかったんですけどね。多分、寿命だったのかしら。最期は自宅の縁側でぽっくり」
「ぽっくり?」
意識せず口をついてでた言葉がブラムに通じず、グレースはハッとした。
思い返せば、目覚めてから自身の言動が前世の自分に寄っていってしまっている。確かに前世では九十八歳まで生きたが、現在の年齢は十七歳。まだ十代の学生なのだ。
「えっと、いきなり亡くなる事を表すんですけど……。やだ、私ったら喋り方までおばあさんに戻ったみたい」
急に恥ずかしくなり、取り繕うように笑うグレース。その心を見透かしたように、ブラムは「大丈夫ですよ」と優しく声を掛けた。
「転移症の患者さんにはよく見られるんです。前世との繋がりが深い人は特に、前世の自分と今の自分、その境界が曖昧になってしまう」
「曖昧……」
言われれば確かに、今の自分は一体どちらなのだろうか?と、グレースは思考を巡らせた。
(グレースと善子。今の私はグレースである筈なのに、目覚めてからは善子の記憶で溢れてる。これじゃあまるで、善子の方が生きてる様な――)
「オルストン嬢」
不意に名前を呼ばれ、グレースは我に返った。
「大丈夫ですか?」
「あ、はい!すみません、質問止めちゃって。どうぞ、続きを……」
「じゃあ、少し深呼吸しましょうか」
「へ?深呼吸?」
「深呼吸です。はい、吸ってー」
「え、えっと???」
「はい、吐いてー」
「ええええ?」
いきなりの要求に混乱を隠せなかったが、有無を言わさないブラムの勢いに流されるがまま、グレースは深呼吸に応じる。何度か呼吸を繰り返し「いつまで続くのか」と思った所で、ようやっとストップの声がかかった。
「はい、お疲れ様でした」
「お疲れ様です……。先生、今のは一体なんの意味が」
「意味は特にありませんよ?」
「ないんですか!?」
「はい。ただ、あまりにもオルストン嬢が不安そうな顔をしていたもので」
「あっ……。ごめんなさい、気を遣わせてしまって」
どうやら、ブラムなりに不安を紛らわそうとしてくれたらしい。
「オルストン嬢。このプロフィールカード。どうして医師が読み方を記入していくのか分かりますか?」
「えっと、分かりません。でも、不思議に思ってました。わざわざ聞いて書かなくても、読み方も書かせれば手間が省けるのにって」
「ええ、そもそも前世で使用していた文字が書けないという人も居ますし、その場合は普通に記入して頂いているんです。でも、その場合でも医師が改めて、一つずつ質問をしていきます」
「どうしてですか?」
そっと撫でるように、ブラムはバインダーに挟んだプロフィールカードに触れた。
「口に出して答えて貰う事で、改めて、前世の自分自身を患者さんに自覚して、受け入れて貰う為です」
「受け入れる……」
「ええ。そして、それが終わったら、今度はこちらに記入して貰うんです」
「?」
プロフィールカードをめくると、元から挟んであったのだろう。もう一枚、白紙のプロフィールカードが出てきた。
「此方には、今の貴方のプロフィールを記入して頂きます」
少々、面倒かもしれませんが。そう付け足して、バインダーから白紙のそれを抜き取って、ブラムはグレースに差出した。そこには、趣味についてや、好きな食べ物、嫌いな食べ物、良く聞く音楽、好きな魔法等々、前世の事を聞くよりも更に細かく項目が作られていた。
「凄い細かいですね」
「ですね。でも、此方も書けるところだけ簡単に記入して頂ければ良いんです。今を生きる貴方について。そして、ひとつだけ。どうか忘れないでいて欲しいんです」
グレースの瞳を真っ直ぐに見つめて、ブラムは言った。
「いくら前世に心を引っ張られて自身が曖昧になろうとも、今を生きているのは、グレース・リー・オルストン嬢。貴方です」
柔らかい声音はそのままに、でも、どこか芯のある言葉に、グレースの中に浮かんでいた前世と今の自分に対する不安が解けていくのを感じる。
神子というのはこんなにも優しい人なのか、と昨日から幾度も思ったが、きっとこの優しさは、ブラム自身が持つものなのだと、グレースは確信した。
ともすれば、温かい言葉で流れそうになる涙を堪えるように俯けば、空白のプロフィールカードが視界に入ってくる。改めて見ると、確かに細かい項目が多かったが、悩まずに書けそうなものばかりだ。
「……プロフィールカード。こっちの方が、簡単に埋められそうです、先生」
「それは良かった」
温かい言葉に答えるように、グレースは十七歳らしい微笑みをブラムに向けた。