1 夢
もう二度と、あの場所には帰れない。
夢に魘され、目覚めた頭に真っ先に浮かんだ確信。
寝惚けているのだろうか。自分でも何故そんな事を思ったのか分からない。
朝の澄んだ空気の中、耳の奥で響く鼓動はまるで早鐘のようだ。
どうにか鎮めようと浅い呼吸を繰り返しながら、強張った体をゆっくりと動かして上体を起こす。
小さく辺りを見回せば、そこは見慣れた自分の部屋。
カーテンの隙間から差し込む光も、聞こえてくる鳥の囀りも、感じるベットの温もりも、全てがいつも通りの朝だ。
それなのに何故、こんなにも異質に感じてしまうのか。
確かにここは自分の部屋なのに「ここは違う」と心の中で何かが叫ぶ。
落ち着かない胸の騒めきに、安心を求めるように自身の膝を胸元に引き寄せ抱え込んだ。
まるで悪夢でもみたかの様な息苦しさと体の緊張。だがあれは、悪夢ではなかった。
どちらかというと心温まる映画を見ているような、そんな優しい夢だった。
主役は一人の老婆。
夢の中で、彼女の幼少から晩年までの人生を共に体験していく。
夢に現れる建物、人物、風景。目に映る物全てが新しく、彼女の人生を体験しながら、まるで異国を旅しているかのような気分にもなれた。
最初の内は幼い彼女の傍に立ちながら、目新しさ、言うなれば異国の文化にわくわくが止まらなかった。
彼女が住む家も、着ている服も、食べている食事も、文化は違えど決して裕福とは言えないものだと分かる。けれど、そんな環境でも両親から愛され、すくすくと成長し、学校のような所へ彼女が通い始めた辺りから少しずつ変化が起きた。
彼女がこちらに干渉する事はない。ただ傍らで彼女の事を眺めているだけの夢だと思っていたのだが、遂には彼女自身になり、彼女の視点で夢を体験し始めたのだ。彼女が喜べばこちらも嬉しくなり、涙すれば共に悲しくなる。
最初は、夢の中なのだからこういう事もあるだろうと気にも留めずにいたが、徐々に沸き上がる感情に違和感を覚えた。
自分が住む世界とはまるで違う、見た事もない世界。それなのに、なぜこんなにも心に温かいものが溢れてくるのか。
「う、ぐっ……」
夢で見た世界を思い出すだけで息が詰まり、うまく呼吸が出来なくなる。
そもそも、あれは本当に夢だったのだろうか?
簡単に「夢」という一言で片づけてしまうにはあまりにもリアルで、強く心を締め付けられる。
胸に溢れる温かさと、同時に沸き上がる寂しさに耐え切れず、両腕で自身を抱き締めた。
知らない筈の世界を見て、何故寂しいと思うのか。
温かくも冷たい、この感情には覚えがある。
幼い頃、友人と遊んだ帰り道。
夕暮れ、橙に染まる空を目にして、家までの道のりを走り出したい衝動に駆られた。
帰りたい。
それは、焦がれる程の郷愁――。
沸き上がる感情の名前を見つけた瞬間、頬に一筋の涙が伝った。
「あ、うあっ……」
それを皮切りに止めどなく涙が溢れてくる。
「ああ、ああああっ……!!」
何故自分は泣いているのか。分からない。理解が追いつかない。
ただひたすらに胸を焦がす郷愁に耐え切れず、気づけば叫びだしていた。
「失礼致しま……お嬢様!?」
異変に気付いたのか、視界の端に駆け寄ってくる侍女の姿が見えた。ノックの音も扉が開く音にも気が付かなかったが、今はそれどころではない。
堰を切ったように溢れる涙と共に、夢の中で見た映像が脳内を埋め尽くしていった。
「お嬢様!グレースお嬢様!!誰か……!誰か来て!!!」
身体を丸めて泣き叫ぶ事しか出来ずにいたが、不意に視界が暗くなると同時に意識が薄れていく感覚に襲われる。助けを求めて叫ぶ侍女の声も段々と遠のき、直ぐに何も聞こえなくなった。
ああ、私はまた死ぬのだろうか。
徐々に力が抜け、倒れ込んでいく身体の重さを感じながら、ようやっと理解した。
この郷愁も、あの夢のリアルさも、夢の中の彼女の感情が手に取るように分かったのも、全て知っていたからだ。
あの世界で「私」は「彼女」として、確かに生きていた。
最後に見えた夢の映像は、あの世界で一番大好きだった日当たりのよい縁側からの眺め。
そしてそれは、あの世界で生きていた時に目にした「最後の光景」だった。