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ケース9『しんじたい』

 クロサキ先生が、黒半透明な瓶から錠剤を取り出す。

「これは、まだどこにも発表されていない万病薬。飲めばたちどころに、あらゆる肉体・精神の不調が快復する」

 アキホがごくりと喉を鳴らす。



 時間は戻る。

 それは午後最後の授業中。クラスメイトのアキホが突然椅子から転げ落ちた。彼女は青い顔で、息苦しそうに過呼吸に陥っている。

「ちょっと大丈夫!」誰よりも早くケイが机と椅子を弾き飛ばして立ち上がる。そして呆然としているクラスメイトたちを、邪魔だどけと言わんばかりに掻き分けながら彼女に近づく。

「アキホ! どうしたの!」

 意識はありそうだ。虚空に向けられた目がケイの顔を捉える。しかし返ってくるのは荒い呼吸だけ。

「保健委員は誰! 保健室に運ぶよ!」

 その時季に保健委員を担当していたタクヤが挙手する。


 保健室。オキシフルの香りが漂う清潔な空間。開け放された窓から、涼しい風が入って頬を撫でる。

 アキホは病的なくらいやせ細った女生徒だったが、タクヤもケイも自立歩行できない人一人を運ぶのに慣れておらず苦労した。彼女の手を肩に回して両側から支えて、ほとんど引きずるようにして歩く。

 彼女は現在、保健室の簡易ベッドの上で上体だけ起こしている。既に意識はあるものの、ボーッとして窓の外、花壇に植えられた向日葵を眺めている。

「ねぇ、アキホ。もう体調良くなった?」

 ケイが心配そうに尋ねる。しかしアキホはぼんやりしたまま視線を外さずに答える。

「うん……」

「本当に医者に連れていかなくて大丈夫?」

「……うん」

 ケイはまいったなと頭を掻く。受け答えできても上の空のまま。放っておくにはあまりに危なっかしい。

 保健室備品のコップに飲み水を汲んできたタクヤが戻ってくる。ケイがそっと耳打ちする。ちょっと来てくれる?


 廊下でケイが頼んできた。

「悪いんだけど、アキホの調子が戻るまで付いててあげてくれない?」

 タクヤは二つ返事で「いいよ、どうせヒマだし」。続けて「ケイは?」。

 そのぅ、と前置きして彼女はバツが悪そうに「私、今日部活の練習試合なんだ。どうしても抜けられない。アキホのことは心配だけれど、ずっと付いててあげられないの」と釈明。

「わかったよ、任せてくれ」と自分でもつとめて爽やかな笑顔を作る。

「もし帰宅のチャイムが鳴る時間になってもあの子が快復しないようなら、親を呼んであげて。これ電話番号」と走り書きされた紙を渡される。


「水、飲む?」

「いらない……」

 快く了承したものの、居心地が悪い。アキホとはほとんど話したことがないくらい疎遠なクラスメイトだ。話題がない。

 ただじっと彼女の横顔を眺めている訳にもいかず、何かきっかけを探す。頭の片隅で、唯一思いついた話のタネが芽を出す。

「病弱なの?」

 やや、しまったと思った。デリケートで立ち入った事情だっただろうか。

 アキホはよく薬を飲む。教室内でも、見かける度に何かの錠剤や粉末を飲料水で喉に流し込んでいる光景を目にする。

「…………」

 彼女がこちらをちらと見る。

 タクヤはひきつった笑いで返す。

「……誰にも言わない?」

「何を?」

「私の秘密」

 聞きたくない、という一方で、進展のない状況に嫌気が差している。

「誰にも言わないよ」

「……私、死ぬかもしれないの」

 彼女がとうとうと語り出す。ここ数年、体の調子が良くないという。その症状は様々で、頭痛や腹痛、めまいや立ちくらみ、先ほどのような過呼吸など。

 病院に行ったのかと聞くと、精密検査を受けたが医者は異常がないという。

「……きっと、あまりに酷い病気だから私に告げられないのよ。それか、現代の医学じゃ発見できてない病気なのかも」

「そ……それは大変だね」タクヤの心の中に苦い物が広がっていく。そして「良い医者がいるんだけど、紹介しようか?」

 良い医者はいない。悪い医者ならいる。



 東校舎二階の西側の最果て。

 部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。

 物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。

 日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。

『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。


 ガラクタだらけの廊下に入って、アキホの疑念が高まったらしい。こんな汚らしい場所に名医などいるわけがない、と。タクヤもそう思った。

 しかし毒まみれの毒の中で、毒を以て毒を制することもまた、必要なのだ。


 立て付けの悪い引き戸を開ける。内側からムワッと、健康の対局に位置する副流煙が襲いかかってきた。

 後ろに立っていたアキホが嫌悪をまったく隠さない。

 雑な平積みの本山が乱立する部屋の奥。安置された頑丈そうな木机の上に誰か寝転がっている。

 少女のように見える不健康そうな小柄な彼。涅槃仏で寝タバコしながら、時折ポテトスナックに手を伸ばしつつ広げたゴシップ雑誌を読んでいる。ご機嫌らしい。わずかに赤らんだ顔で、アハハと脳天気に笑い声を上げる。信じたがいことに、外国銘柄のウォッカボトルと中身が半分ほど減ったオンザロックのグラスまである。

「クロサキ先生」と声をかける。

 先生がとろんとした目つきで、入室してくるタクヤに視線を向ける。

 フラフラと上半身を起こし、「お~~~~……えらっしゃい、ヒック……」

「学校で酒盛りなんて……他の教職員に見られたら減給か懲戒解雇ですよ」

 彼は手をヒラヒラと振り「いーのいーの、これも心理治療の研究なんだからさぁ」

「どこが心理治療なんですか。尋常じゃないくつろぎ方をしているだけでしょう」

 先生が二マーと笑う。

「今日しがた結構大変な仕事を片付けたところなんだよ。これはそのご褒美ってわけ。トークンエコノミー法って立派な強化のルール体系だって」

 だったら自宅で自分にご褒美をあげればいいだろうに。彼の第一発見者がタクヤだったのは幸か不幸か。

「それより、先生。患者ですよ」

「患者ぁ~?」目を細めて部屋の入口付近に立つアキホを見る。「はいはい、お仕事ね。お嬢ちゃん、こっち来て座りなさい」

 先生が木机から降りてヨタヨタと簡易椅子を取りに行く。組み立てようとして盛大にすっ転んだ。


「さて、今日はどうしました?」

 酔い醒ましの水を飲んだ先生は、多少意識がハッキリする。まだ少し顔が赤く、対面に座るアキホが疑惑の眼差しを投げかけている。

「……私、死ぬかもしれないんです」

 ほぉ、と先生が相槌。

「死ぬって、そりゃまた随分と穏やかじゃないね。どうしてそう思うのさ?」

 彼女が保健室でタクヤにした説明と同様の内容を話す。

 先生がうんうんと頷き、全てを聞き終えると「外科か内科に行けよ、バカ」と一蹴した。

 思わずアキホが泣き出しそうになる。

「いくらなんでも今のは酷いですよ」とタクヤが耳打ち。

「あ、スマン。今のなし、冗談冗談」二へへと下手な作り笑い。冗談ではすまない。「でもさ、医者も何でもないって言ったんだろ? だったら気のせいなんじゃない?」

 半べそ掻いたままアキホが反論。

「気のせいなんかじゃありません! 本当に痛いし苦しいんです! こんなに辛いのに嘘な訳ありません! 医学の世界だって昨日までの常識が明日変わるかもしれないって聞いたことあるんですから! 今日死ななくても明日死んだらどうするんです!」

 先生が即頭部を掻く。うーんと唸る。

「ちなみに検査した病院ってどこ?」

「……○×市のツツジヶ丘大学病院ですけど」

「なんだ、あそこか」先生が携帯電話を取り出して背を向ける。ダイヤルしてどこかに電話する。相手方が電話口に出たらしい。

「もしもし、副院長? あ、今院長か。アタシアタシ。悪いんだけど、今から言う子の診断書パソコンに送ってくんない? うん、そう。うちの生徒のアキホって子。コンプライアンス? またまたぁ、そんなもん今更でしょ? アタシと君の仲じゃないの。あの件バラしちゃうよ~? すぐ送ってね、じゃ」

 通話が切られる。

 さて、と言って先生がノートパソコンを木机の引き出しから取り出して電源を入れる。

「あの、先生……」

「ちょっち待っててね」

 十分程度、何か操作をしていた。

 もしかして本当にネット経由で診断書が送られてきたのだろうか。電話口の相手はツツジヶ丘大学病院の院長らしいが、どういった間柄なのか。

「ふーん、なるほどなるほどねぇ……」

 先生がディスプレイ天板を折りたたむ。

「アキホちゃん、確かに君は病気だ。それも重度のK型S症のステージ4だ」

 アキホが衝撃を受ける。

「やっぱり! 何かの重病だったんですね!」

 タクヤが先生に耳打ちする。「本当なんですか?」

 先生が笑顔で返す。「黙ってろ」

 アキホに向き直り、「そう、君の病気は十億人に一人が罹患する稀病。それも症例数が少なすぎて、まだ医学会で正式認知されていない。内外のあらゆる疾患を発症し脳細胞をボロボロにする。そして命を落とす。まさに、死に至るヤマイだ」

 芝居がかった仕草で、ビシッと人差し指を突きつける。

 アキホが口を両手で覆う。両の目から涙がボロボロ零れ落ちる。

「ほら! やっぱり恐ろしい病気だったんだわ! 私、死ぬんじゃないの! あぁ! どうしたらいいの!」

 泣き崩れる彼女の肩に、先生がそっと手をかける。

「確かにこのヤマイは大病だ。症例数が少ないから治療が確立されていない。しかしアタシなら君を助けられる。どうだ? 信じてみないかい?」

 途端にアキホの瞳が澱んでいく。胡散臭いと言わんばかりだ。

「……あなたが?」

 やや見下したような不敵な笑みで、「あぁ、何を隠そう、このアタシ。かの有名なアメリカ、メイヨー・クリニックで幾多の医学賞を受賞した高名な学会指導医なのだよ!」

 うっそだーの文字が浮かび上がりそうな顔をタクヤはしていたに違いない。それはアキホも同じだった。

「あなたが……?」

「そうだよ。ほら、名刺」

 差し出された英語で書かれた名刺。顔写真こそないものの、上質な紙素材で何やら異質な存在感を醸し出している。

 受け取ったアキホが名刺と先生の顔を見比べる。

「疑うならホームページでも見てみれば?」

 アキホが携帯電話を取り出して検索をかける。そして一言、

「ホントだ! 同じ名前が書いてある!」

 な?っとウインク。

「これで信じた?」

「は……はい! 信じます! それでこの大病院を紹介してもらえるんですか!」

 ちっちっちっと先生が指を振る。「焦っちゃいけない。さっきも言ったろ。この病気はまだ正式認知されてない。認可された治療薬もない。その病院に行ったところで、レントゲン撮られて鎮痛剤の処方箋出されて終わりさ」

「じ……じゃあ、どうすれば」

「そこでこの薬の出番ってわけ」

 彼の懐から錠剤の入った瓶が取り出される。ラベルが貼られていない。黒半透明な中に半分ほど中身がある。

「そ……それは?」

「アタシが外国の研究グループと共同開発した万病薬」

「万病薬!? そんなものが!? なんて名前の薬なんですか!」アキホが錠剤瓶を凝視する。

「名前はないよ。そもそも市販はおろか薬局でも取り扱ってない。なにしろ認可前の薬だからね」

「に……認可前」

 不安そうな彼女に、先生がわざとらしく耳打ちする。

「大きな声じゃ言えないけどね。この万病薬が出回ると、他のあらゆる薬が不要になっちゃうの。製薬会社の不利益になるから位相試験もクリアできないんだ」

 顔を離し、二マーっと笑う。

「でも効果はお墨付き。なにしろアタシは、かの有名なアメリカ、メイヨー・クリニックで幾多の医学賞を受賞した高名な学会指導医だからね。信じてみない?」

 アキホは数分迷い、「信じます! その薬をいただきます!」


 錠剤を三粒。水で流し込んで飲み、ベッド代わりの木机で寝て安静にするアキホ。すぐに寝息が聞こえてきた。

 それから三時間後、彼女が目を覚まして起き上がる。

「気分はどうだい?」

「あ……はい。爽快です。頭痛がありません。治った……んでしょうか」

 フフッと先生が声を漏らす。「自分ではどう思う?」

「……治りました。治りましたよ。だってこんなに気分が良いんですもの!」

「そいつは良かった。病み上がりだし、もうちょっと休んでく?」

「いいえ! こんなに晴れた気分は久しぶりです! 自分で歩いて帰れそうです! ありがとうございます!」

 満面の笑顔で頭を下げる。それほどまでに体調は好転したらしい。

 カバンを持って相談室を出て行くアキホ。「タクヤくんもありがとう」


 彼女が去ったのを確認して、タクヤが言う。「万病薬なんて嘘なんでしょう?」

「どう思う?」ニヤニヤ笑いが返される。

「荒唐無稽すぎますもの」

「でも、その荒唐無稽な話を彼女は信じたんだよ。ヤマイは気の持ちよう。思い込みってのは、ある意味万能の霊薬も同然だ」

 先生が手元で錠剤瓶を弄ぶ。

「プラセボ。偽薬効果とも言うらしいね。彼女が万能薬だと信じれば、ラベル剥がしただけの市販薬だって世界最強のワクチンだよ」

「彼女、病気なんかじゃなかったんですね」

「あぁ、ちょっと呼吸器に疾患はあるけど健康も健康。送られてきた診断書には慢性疾患もなし。頭痛だの腹痛だの、気にしすぎてるから余計に悪化しただけなんだろう。精神の変容は肉体に影響するからねぇ」

「じゃあ、その錠剤は……」

 先生が錠剤を数粒取り出して飲み込む。「ただの頭痛薬。鎮痛効果や滋養効果もあるから、ちょっと仮眠したら気分も良くなる。睡眠障害もあったのかな」

 心の中でため息をつく。「彼女の信用が足りなかったら効かなかったんじゃないですか?」

 彼はケラケラ笑い、「そん時は本当に良い病院紹介してやったさ。アタシみたいな非常勤じゃなくて、ポール・エクマン並の名医をね」

「……あの名刺はいったいどうやって」

「詮索するねぇ、聞きたがりはモテないよ? あの名刺は前に学会で会った時にもらったもんだよ。何かに使えると思って取っておいたんだ」

 確かにクロサキ先生は有名な医師ではないかもしれない。しかし、大学病院の院長を顎で使って診断書を送らせたり、アメリカの名医と見識がある。このぐうたらでいい加減な彼に、底知れない何かをタクヤは感じた。

「さーて、またひと仕事片付けたんだし、自分にご褒美あげなくちゃねぇ。お酒、おっさけぇ」彼は喜々として酒盛りを再開する。

 ほとんど溶けたロックアイスの入ったグラスにウォッカが注がれる。生徒相談室にあってはいけないはずのアルコール臭が漂う。

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