ケース7『ありたい』
東校舎二階の西側の最果て。
部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。
物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。
日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。
『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。
扉の向こうからツンと臭ってくる、ヤニの香り。タクヤは三角巾を整え、マスクの歪みを正し、右手に持った掃除用具を握りなおす。
一呼吸つく。扉の取っ手に手を掛けて右に開く。金具が錆びてるのかゴミでも詰まっているのか、立てつけが悪い。こちらも直さねばならないだろう。
埃と本の山に支配された部屋の奥。頑丈そうな木机の上で、白衣を着た少女のように見える生き物が寝転がっている。両腕を後ろに腕枕にし、右足を左ひざに乗せている。細く青血管の浮いた白い太ももがあらわになっていた。顔を開いた本で覆い、その下からいびきが聞こえてくる。
タクヤが入室しながら声をかける。「クロサキ先生」
起きない。言葉にならない寝言が返ってくる。
部屋に踏み入り、木机に近づく。本の山がタクヤの足に引っ掛かり、三つほど土砂崩れを起こす。
「先生、起きてください」
彼の肩に手を置いて体を揺する。
「ん~~~~?」と猫のような欠伸。上体が起き上がる。日よけにしていた本が落ちる。ボリボリと後ろ頭を掻きながら、「お? またアンタか。今日はどんな患者? 自律神経失調症? 退却神経症?」
タクヤが片手に持った掃除用具を目の前に突きつける。
「今日は掃除にきました」
「ここを?」
「ここをです」
先生はバツが悪そうに、「えぇ~、面倒くさい。アタシ、掃除なんかしないよ~」
タクヤは怯まない。
「結構です。先生が掃除をしなくても僕が勝手にやりますから」
「え? あぁ、そう? それなら別に、いいけど。無駄だと思うなぁ」
「無駄な訳がないでしょう」
先生が木机の上で胡坐を掻く。
それにまったく構わず、タクヤは掃除用具を床に置く。換気扇を起動し、窓を開け放つ。
「アタシ、掃除してくれなんて頼んだっけ?」
脚立に乗って、本棚の上に積まれた本をどかしながらタクヤが答える。
「いいえ。先日、演劇部のサヤカさんの治療をしてくれたでしょう。そのお礼をケイがしたいと。相談室がゴミ箱になっていることを伝えたら、掃除をしようってことになりまして」
「あの件か。ふーん…中々義理堅い子だ。人には親切にしとくもんだねぇ」
サヤカの治療は彼の仕事の範疇内。教員の仕事に返礼をすべきなのか、タクヤは今一つ腑に落ちない。
「そんで、そのケイちゃんは?」
「来ませんよ。だから僕が代わりに掃除しているんです」
「なんで来ないのさ? お礼をしたいのはその子だろう?」
タクヤは溜息をつく。
「部活動の大会が近いから練習を抜けられないとか」
あっはっはっは!と先生が腹を抱えて笑い転げる。「それでお礼の掃除をアンタが引き受けてるって? あはは! なーんじゃそりゃ!」
ケイがどうしてもお礼をしたいと言った。しかし外せない用事がある。タクヤは代役を頼まれたから引き受けた。お礼の念が人から人へ伝達しただけ、とそう考えるしかあるまい。彼女に懇願されて承諾した時、自分の中には何か得があったのだから、決して不合理な行動をしている訳ではない。
「アンタ、そのケイちゃんが好きなんだろ?」
言い当てられた。動揺はない。同級生から見ても、自分が彼女にゾッコンなのはバレバレなくらいだから。
「別に」とタクヤはつとめて興味のない振りをする。それが先生には強がりに見えたのかもしれない。
「便利に使われてるなぁ」
「僕が納得しているんだから誰も損をしていません」
本棚の上から本をどかし終える。天板は油煙でベタベタである。酷く粘性の高い液状の何かがこびりついている。綿埃を集めたら綿菓子大になるほどありそうだ。それにしても汚い。虫の類がいないのが不思議なほどに。
木机の上でうつ伏せに寝転がる先生。両手で肘をつき、手の甲に顎を乗せ、茶化して言う。「盲目ぅ~」
「損得を考える程度には冷静です」
「『恋が入ってくると、知恵が出ていく』
「…誰の言葉ですか?」
「ドイツの詩人」
「僕が掃除を引き受けることで、ケイの心証が良くなりこそすれ、悪くなることはありません。徒労じゃないんですから、愚かな行動をしていませんよ」
「それが既に盲目だって言ってんだよ。『掃除を任せてくれ』じゃなくて、『今度一緒に贈り物を選びにお店に行こう』って誘えば良かったじゃないの」
ハッと我に返る。確かに、こんなせせこましいゴミ部屋の掃除より、お礼の時期をずらせば二人きりになる口実を作れただろう。
「まぁ、アタシは助かるけどね」
上の方からハタキで埃を床に落としつつ、疑問を先生にぶつける。
「そういえば、どうして女性の恰好をしているんですか?」
「んあ?」
舞い落ちる埃の爆撃を受けないように、部屋の隅っこの本山に腰かけて読書している彼が聞き返す。
「先生、男性でしょう。白衣の下、スカートだし化粧もしているみたいですし」
にへらと彼が表情筋を弛緩させる。
「似合う?」
「オカマなんですか?」
「オカマとは失敬だな、君。別に趣味で女装している訳じゃない。性同一性障害、私も病さ」
意外な答えでタクヤが戸惑う。トランスセクシュアルという言葉がテレビやネットで取り上げられたのを見たことがある。性自認と身体的性が異なる状態をいうのだとか。誤解や批難を受けがちだとされるその症状を、悩みと無縁そうな先生の口から出たのが不意打ちだったのだ。
「カウンセラーなのに?」
「カウンセラーなのに。医者の不養生だな。内科医が腹痛を起こさない訳じゃない、外科医も腕がちぎれたら縫い合わせる、心理士ですら心の風邪くらいひくさ」
しんみりした口調でタクヤが気遣う。「そうですか。それで自分の心のケアも兼ねてカウンセラーを?」
「いや? 前も話したじゃないか。相談員はただの数合わせだよ。それにアタシ可愛いからさ。それなら女装しないともったいないだろ?」
あっけらかんとした軽い口調。テレビで見た社会的・対人関係不利に悩む人々の姿と重ならない。どうやら彼に心療は必要ないらしい。
「アンタも履いてみる? スカート」
「結構です」
埃を払い落とし、チリトリで搔き集め、雑巾をかけて部屋が本来の美しさを取り戻していく。しかし散乱した本を片づけないと、景観は悪いままだ。
「先生、これ要りますか?」
何語なのかもわからない書籍を掴んで尋ねる。
「それ? うん、要る」
本棚のどこに戻すべきかわからない。テキトウに判型と色で分け入れる。何も言われないので、先生自身もこだわりがないに違いない。
「先生、こっちは要りますか?」
何年も前の医学雑誌。英語で書かれているが、ランセット、と読むのだろうか?
「それは捨てられないなぁ」
雑誌同士の場所に一固める。本棚の空きに余裕がなくなってくる。
「じゃあ、これは捨てますか?」
恋愛指南書と書かれた新書。
「要る要る。それは要る」
業務上のどこで使う気なのだろう。
「…漫画は捨てて良いでしょう?」
十年前のくたびれた青年漫画誌。何度も読み返して擦り切れている。
「要るって。たまに読み返してるんだから」
その後も問答は続く。「これは?」「要る」「こっちも?」「当然」「これは捨てますよ? 本棚に入りきりません」「それも使ってるって。捨てられたら困る」
あれも捨てたくない、これも捨てたくない。一向に物が減らない。交渉の末、洋書と医療誌以外は積んで紙紐で括り、室外のガラクタと同じ場所に安置した。
「ふぅ、この辺りで十分ですかね」
必要な書籍だけ残しても、やはり本棚から溢れた。ひとまず部屋の隅に塔として建設しておく。
それでも掃き掃除、拭き掃除でゴミ事情は見違える。足の踏み場もあり、歩いても靴裏に汚れがまとわりつきもしない。
「ご苦労さん」
タクヤの胸に缶コーヒーが押し付けられる。いいえ結構です、などとは断らない。あれだけの清掃労働をしたのだ。
「ありがとうございます」
「片付くのも悪くないね。また掃除してくれるなら、アタシに会う口実にしてもいいよ」
ケイに比べてなんと下手なねだり方だろうか。
「気が向いたら」
翌々日、再び相談室を訪れたタクヤは目を疑う。室内が元のゴミ箱に戻っていた。あれだけ片づけた本が、再びいい加減に積まれ山と化し乱立していた。いくつかに読み齧った後があった。一昨日から今日にかけて、ぐうたらな読書生活をしていてこうなったと予想がつく。
そして部屋の主人は、一昨日とまったく同じようにして、午後の暖かい陽光の中で気持ちよさげに昼寝していた。
水泡に帰した努力に黙祷を捧げる。
タクヤは、二度とこの部屋の清掃に加担しないと心に誓う。