ケース5『たえたい』
「ヘイ彼女ぉ、アタシとお茶しない?」
歳の頃、二十代前半くらいの女性に先生が声をかける。女性はなにこの子?と不審そうな視線だけ向け、無視して歩き出す。
しかし前方へ先回りした彼が、「待って待って、可愛いお嬢さん。アタシ、ビビッときたんだよね、運命っていうの? ちょっとそこのカフェで話そうよ」と場慣れしないヘタクソな口説き文句で引き留めようとする。
「…私、そういう趣味ないから」かなりきつめな口調が先生に突き刺さる。
「ま…待って。電話番号! 電話番号だけでも交換しよう? ね? ね?」みっともない台詞で食い下がる。
しかし女性は頑として耳を傾けない。人を寄せ付けない背筋を伸ばした姿勢で、足早に去っていく。
ナンパに敗れた、少女のように見える38歳中年男性がその場に崩れ落ちる。泣いているらしかった。
その光景を少し離れた位置で、タクヤとユウヤは唖然として眺めた。
時間が戻る。
午後の休み時間、タクヤと談話していたユウヤの元にケイが訪れる。「ねぇ、今日の日直ユウヤ君だったよね?」腰に手を当て、ぐいっと彼を覗き込む。
あけすけでおおらかな人と距離が近い彼女の仕草に、二人を離させたい我欲が首をもたげかける。軽く嫉妬の念が渦巻く。
「え? うん…」それまで饒舌に談話していた彼は、ケイに話しかけられた途端、表情が固まる。
「職員室まで宿題のプリント取りにきてほしいんだって」
ユウヤの顔面がみるみる赤くなっていく。目線を外し俯く。「あ…ぅん…」蚊の鳴くような小さな返事。
ケイが首を傾げて「え? なんて言ったの?」
「ぁ…ぅん…と…とりに…」
短気な彼女が大声で怒鳴りつける。
「はぁ!? だから聞こえないって! わかったの? わからなかったの?」
ユウヤはさらに小さく委縮する。
「あ…うぅ…ぅぁ…」
見かねてタクヤが咄嗟に助け舟を出す。「わかったよ。わかったってさ」。休み時間とはいえ、騒ぎ立ててクラスの注目が集まり恥ずかしい。
「本当に?」目で射すくめられる。悪い気がしない半面、彼女の眼光の鋭さに冷や汗が頬を伝う。
「あぁ、大丈夫大丈夫。な? ユウヤ?」
「…………」
話しを振っても答えない。それどころか一歩身を引いてタクヤを盾にしている。
「…まぁ、いいけど。私は伝えたんだから、後は知らないからね」そう言い捨てて彼女が立ち去る。
ほっと胸を撫でおろす。ユウヤの肩に手を置いて尋ねる。
「どうしたんだよ、いきなり消極的になって?」
彼がふーっと息を深く吐く。「俺、どうも女子が苦手みたいでさ」。顔色が少し戻っている。ジョークではなさそうだ。
「なんだそりゃ。今までそんなことなかっただろう」
深い友人でもないが、彼とは日常的に会話する程度の関係である。普段接していて同様の異常を示した記憶がない。
「なるべく距離を置いてたんだ。こんなこと、人に知られたくないから」
タクヤは頭を掻く。「そうか、大変そうだな」。女性恐怖症というものだろうか。およそ共感できないが、ケイとの一連から生活に支障が出ていると慮るのは容易い。
医者は?と聞くと、彼は首を振る。「行ってないよ。女性恐怖症なんて、恥ずかしくてとても医者にも両親にも相談できない。それに、生活出来ているのだから病気だなんて思いたくない」。
なるほど。確かにやや相談し難い悩みかもしれない。
「でも、そのままだと苦しいだろう?」
ユウヤは数秒目を閉じる。今までの経験を想起しているらしい。
やがて軽い溜息をつき、「そうだな、息苦しいよ。このままじゃ、女子と付き合うこともできない」と軽口じみた弱音を吐露する。
もっともだと思った。
東校舎二階の西側の最果て。
部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。
物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。
日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。
『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。
扉を開ける。いつものように、内側から漏れ出たヤニの臭いが鼻をつく。何度訪れても慣れない。
本と埃に塗れた部屋の奥。頑丈そうな木机の前、職員室用の椅子に部屋の主が腰かけている。その両手に、体長30~40cmほどの茶色で毛むくじゃらの何かを掴んでいた。傾けたり揺らしたり、四方から覗き込んだりしている。ミャーミャー聞こえた。
「クロサキ先生、お客さんですよ」入室して、散立する本の山に注意を払って歩く。気を付けたのに山は崩れた。
先生が毛むくじゃらから目を離し、こちらを見やる。毛むくじゃらもこちらを見る。二組のアーモンド型の目が並んだ。
「お~~~、いらっしゃい」。毛むくじゃらが膝に下ろされる。生後三ヵ月くらいの子猫。縞模様で、何故か額だけ円形に白い。
「どうしたんですか、その子猫?」
指先で子猫を不器用にあやしながら「あぁ、女生徒が登校中に拾ったらしい。帰りに引き取るから放課後まで置いてくれってさ」無気力な顔で答える。子猫と戯れても心が動かないのか、顔に興味が浮いていない。
「おぉ、可愛い子猫ですね!」後ろから入室したユウヤが進み出る。
「猫好きなのか?」
彼に子猫が手渡される。慣れた手つきで受け取り胸に抱く。
「はい、うちでも二匹ほど飼っています。いやぁ、可愛いなぁ」
女子の前とは正反対な、余裕と安らいだ表情。あやし方も年季が入っている。子猫は大人しく手中に収まっている。
「ふーん、もし身元引受人が現れなかったら、アンタに連れてってもらおうかな。んで、誰?」
先生の目がタクヤに向く。どこの誰だか説明しろ、ということらしい。
「ユウヤくん、患者です」
「あぁ、そっか。そっちね」
どっちだと言うのか。
先生が壁に立てかけてあった組み立て椅子を対面に接地する。乱雑に置くせいで二山ほど本が薙ぎ払われる。埃が小さな爆裂の如く舞う。
「じゃあ、ユウヤくん。そこに座りなさい」
ユウヤがおそるおそる椅子に座る。子猫を抱きかかえたまま、不安げに周囲を見回す。いまさら部屋の汚さをハッキリ認識したらしい。そう、この部屋は汚い。子猫の生育環境に適してない。そっと埃から守るように手で覆う。
タクヤは部屋に唯一ある窓を開け放ち換気する。しないよりマシだ。室内に収監されたエアロゾルが外界へ解放される。
「さて、今日はどうしました?」先生が足を組み、椅子にふんぞり返る。
尊大でタバコを吸ってて顔色の悪い少女、のように見える教員。不信感と子猫を抱いたリラックスで、ユウヤは複雑な心境だろう。子猫にばかり気を取られている。
「…………」
「…………」
沈黙に耐えかねて、先生が下から抉り込むように彼を覗き込む。「おい、今日はどうしたって聞いてる」。
「うわっ」ケイの時と同じく表情が固まる。顔がひきつって紅潮する。
「ん? アタシが可愛くて照れてるのか?」
「先生、ユウヤは女性恐怖症らしいです」
ほぅ、と小さく唸る。「へぇ、女性恐怖症ねぇ。だったら安心しなよ、アタシは男だ」。ニマーと笑い、上体を後ろに下げる。
「え? 男?」目を開いて口が半開きに弛緩する。外見だけなら不健康そうな少女にしか見えないのだから当然の反応だ。
「あぁ、クロサキ先生は38歳男性だよ。だから安心して良い」
「年齢まで言わなくてもいいだろう」口を尖らせて、足を軽く蹴ってくる。
「そっか。男…なんですね」安心したのか、ユウヤの顔色が戻っていく。まるで打ち寄せては引く波のようだ。
「ふーん、本当に女性恐怖症なんだねぇ。TKSの一種だったっけ。いつから?」
「確か…二週間くらい前から」
「二週間前ねぇ。その前後で何かあった?」
「……ない、と思います」
おや、と引っ掛かる。言い淀んだ。即答できない何かがあったのだろうか。
先生がうーん、と唸る。椅子を反転させる。頬杖をついて外を眺める。
「女性恐怖症ねぇ、うーん…どうしたもんかなぁ」いまさら臨床心理の教本をめくっている。生業としているならせめて暗記すべきではなかろうか。
大丈夫なのかこいつ?とユウヤから批難の視線が飛んでくる。むろん、大丈夫なはずはない。
「あの、やっぱり俺…」
「よし! ナンパ行こうぜ!」先生が突如、椅子を蹴って立ち上がる。不敵に唇だけで笑っていた。
ユウヤは眉をハの字に曲げていただろうし、タクヤもきっとそうしていた。
学校から徒歩15分。平日昼間の最寄り駅が人でごった返している。せわしなく歩く会社員、ランチ後の娯楽を楽しむ奥様、生活様式が想像もつかない奇抜な服装の通行人、など三者三様な人々。
とりわけ白衣と学生服二人はさぞかし目立っただろうが、出歩いている学生はタクヤたちだけでもない。時折、当たり前の顔をして同校あるいは他校の制服姿が横切っていく。仮にただのサボりで授業を抜け出してきても、補導される懸念は思う以上に大きくない。
「こんなところに来て、何をするつもりなんですか?」校外に出ても尚、子猫を抱いたままのユウヤが質問する。
わざとらしく、口の前で指を振って見せ、「おいおい、ナンパするって言っただろう。駅前と言えばナンパ、ナンパと言えば駅前。少年老いやすく恋なり難しだよ、若人~」と先生が挑発する。
「ナンパ…」不安げに子猫の頭を撫でる。
「女が苦手なんだろう。なら、ナンパなんて恥ずかしい行為を通して距離を縮めれば、いずれ慣れるってもんよ」
先日のエクスポージャーを再現するつもりなのか。しかし物言わぬ砂場と違い、人間の反応は十人十色。筋書き通りに事が運ぶとも限らない。
「ま、モテない君がいきなり異性に声をかけるのも難しかろう。アタシが大人の経験を先に見せてやるよ」小柄な鼻が、得意げにふふんと鳴る。
先生が小走りに、近くを通りがかったOL風の女性に声をかける。「ヘイ彼女ぉ、アタシとお茶しない?」
十人に声をかけて十人にフラれる様を見た。わずか一時間の間に二桁の失恋を目にする機会も、人生においてそうないはずだ。
先生は路上で蹲って頭を抱えている。そっと歩み寄れば、雑踏の中にあってすすり泣きが聞こえてきた。
「泣いてるんですか?」
顔を上げる寸前にさっと目元を拭う。「は…ははは、バカ言うな。こんなことで…泣くわけないだろう」薄っすら赤らんだアーモンド型の目。無理やりに苦笑う。
「他人に拒絶されるのは精神を病みますね」
強がりが返ってくる。「だから平気だって言ってるだろ、見本を見せただけなんだから」。
悪い見本にはなった。捻りのないワンパターンなナンパ口上。しつこく電話番号やメールアドレスを聞きたがる見え見えの下心。白衣を着た少女にしか見えない彼に口説かれて本気にする女性がいたら、相当な物好きだ。
「じゃあ次、ユウジやってみろ」
「ユウヤです。……無理ですよ、正面に立っただけで緊張してしまって、とても口説くなんて」
先生が彼の抱いている子猫を取り上げる。「アタシに考えがある。だから安心して愛の言葉を囁いてこい」
拠り所としていた子猫を取り上げられて、不安が満ちたようだ。
ユウヤが女性の隣に移動し、やや震えた声で話しかける。
「あ…あの、ちょっといいですか…?」
彼が最初に選んだのは、アパレル店のショーウィンドウ前で携帯電話を弄っている女性だった。紺のブラウスに白のスカート。長髪をバレッタで後ろにまとめている、大人しそうな外見。
やや棘のある言い方で、「…なんですか?」と返事。
女性がユウヤの頭からつま先を、視線で一度舐める。まずナンパを警戒し、次に場違いな学生服に驚いたようで、そこから不審げな表情に変わる。
「う…えっと…」早速、彼がどもる。
女性が顎を引いて追撃する。「何か用ですか?」
「あ……あぁぁ…その…」前後不覚に陥るユウヤ。
その時、女性の背後五メートルに移動していた先生が、両手に掴んだ子猫を頭の高さにさっと掲げる。見ろ、と言わんばかりに左右に揺らす。伸びた胴体に足がブラブラ、ミャーミャー鳴く。
ユウヤがほっと一呼吸する。
「な…ナンパです」要件をそのまま伝えた。
女性が苦笑する。「間に合ってます、彼氏、いるんで」踵を返し、ハイヒールの音を立てて歩き去る。
残されたユウヤが肩の力を抜く。拒絶の痛みより、解放された安堵が勝ったらしい。
先生が肩を叩き労う。「最初にしては上出来じゃないか」
どの口が言うのか。彼に比べれば幾分かマシな対話ができていた。数十分程度前の醜態を動画に残しておくべきだったか。
「そ…そうですか?」
心労を感じているようだが、僅かに自信が見て取れる。
「ほらほら、次だ次。最低十人にはぶつかってこい」先生がユウヤを通りへと追いやる。
系統的脱感作法、と先生は言った。恐怖刺激に直面した際、拮抗する安心刺激を与えることで原因となる恐怖を除去していく、らしい。ユウヤにとっての恐怖刺激は異性との接触、安心刺激は猫だとか。
であれば最初から子猫を抱かせておいてやれば良いのではないか、と提案したが「日常的に猫を手元に置いて生活するわけにもいくまい。恐怖を受けた時に、自分の記憶の中から強化子の記憶を引っ張り出せないと自立できないだろ。これも条件付けだよ」と、正しいのかそうでないのか不明瞭な答えを返された。
そうなのかな、とタクヤは自分を納得させる。
でなければ、十二人目の女性にあしらわれるユウヤと離れた位置で子猫を掲げている先生の二人が、あまりに間抜けで不憫だ。
日が暮れる。時刻は十九時を回る。植木を囲むベンチに腰かけて、タクヤたちは休憩を取った。
暗くなりだしても駅前の人通りは衰えない。むしろナンパは宴もたけなわだろう。
しかし隣に座っている先生は飽きてきたのか、空を仰ぎながら時折「腹減ったなぁ」とぼやく。
ユウヤは休憩時間限定で子猫と戯れている。ポケットに出し忘れたドライフードがあったらしく、人間三人と違い、子猫が飢える心配はなかった。
「なぁ、その猫の名前、デコマルにしない?」と先生。
「何でですか?」とユウヤ。
「額に円形脱毛症みたいな丸が、あーるから」と投げやりに植木に背中を預ける。
ユウヤが子猫に語りかける。「名前は飼い主が決めるもんだよな。な?」
「あ、いた! 何で出歩いてるんですか!」
通りの向かいから女生徒がこちらに向かって歩いてくる。同校の制服を着て規定の学生鞄を手に提げている。あっ忘れてた、と先生が気まずそうに視線を外す。
タクヤが聞く。「誰ですか?」
「子猫連れてきた女子。アキちゃん…だったかな」
女生徒が訂正する。「ユキです。放課後引き取りに行くから、相談室で待っててくださいって言ったじゃないですか」彼女がちらとユウヤの方を見る。その手元の子猫を。
「悪い悪い。でもアタシも仕事があるからさ」
「仕事?」
ユキが先生の指差した先のユウヤを、改めて視界に収める。彼はこれまでになく真っ赤になって俯く。
合点がいったと言わんばかりに「おやおやおやぁ」と先生がいやらしくニタニタ笑う。そして、そういうことかと小さく呟く。
「ユウヤ、お前猫に詳しかったよなぁ。彼女、デコマル連れて帰るらしいから、一緒に行って世話の仕方とか教えてやれよ」
ユウヤは真っ赤な顔のまま驚く。しかし嫌だとは言わなかった。
「あ、飼い方教えてくれるんだ。えっと…」
「…ユウヤ…だよ。その…僕でよかったら…」
「ありがとう。じゃあ帰りながら教えてくれる? 私の家、こっちの方角なんだけど」
「あ…あぁ、一緒だね…行こうか」
二人はそのまま西の方角に向かって歩き出す。ユキも猫を預かってくれた礼を言わないあたり、先生への感謝もないようだ。他のカップルと同じように雑踏の中へと消えていく。
先生がベンチに仰向けに倒れる。「あーあ、バカバカしい。原因は色恋か。女性恐怖症じゃなくて思春期危機じゃないか」
おそらくユウヤの、異性への強い意識の芽生えだったのだろう。それを萌芽させたのがユキへの恋心であったに違いない。彼女が初恋であったのか、今度彼に聞いてみよう。
「なぁ、アンタ初恋は?」涅槃物をしながら俗っぽいことを聞いてくる。
「とっくに経験してますよ」
「へぇ、誰? アタシ?」
「系統的脱感作法が必要に見えますか?」
先生が通りの道行くカップルたちを眺める。「どいつもこいつも春を満喫しやがって」
「ナンパ、してきたらどうです?」
ひらひらと手を振って断る仕草をする。
「アタシ、するよりされる方が好き」
夕闇に沈む駅前が、街灯でライトアップされていく。オレンジの陽光と闇と混じり合いながら、昼と夜の境目へ落ちていく。
取り残されたような寂しさの中、連れだって歩くアベックを眺めながら、そこにケイと自分をタクヤは想像した。いつか同じように歩けたら、と。