ケース2『おぼえたい』
リョウコが机を荒々しく叩く。「そんなの覚えられないわよ!」。英語の教科書が机から数ミリ浮いた。
放課後の図書室、暇をつぶしていた数人の生徒と図書委員の目がこちらに向く。ゴホン、と貸出受付から咳払いで威嚇される。
「わ、わかったよ。ちょっと教え方が悪かった」口角を上げて敵意のなさを伝える。
激高した彼女は顔を紅潮させていた。「それなら、もうちょっとわかりやすく教えてよね」口調ほどに敵愾心はない。自罰的な表情が浮かんでいる。
焦りと自責、どうにもならない憤りがタクヤにも感じ取れた。
時間は戻る。
4時限目の英語授業中、教師が英文を読み上げている中で、リョウコが突然怒声を張り上げる。
「早すぎて聞き取れません! リスニング側のことも考えてください!」椅子を蹴とばし机が前のめりに倒れる。
予期しなかった批難に、教師は虚をつかれて呆然としていた。注意が飛ぶより、血の気の多いケイが立ち上がって彼女に掴みかかる方が早かった。大声を上げるより以前、リョウコがずっと鉛筆の先端で机を叩く音が気に障っていたことも無関係ではあるまい。
「なにすんのよ!」「あんたこそいきなり大声出して迷惑なのよ!」「聞き取れないんだから仕方ないじゃない! スピーキングが悪いんだから!」「普通よ! みんな当たり前に聴いてるわ!」
リョウコは目を丸くして押し黙り、大人しく椅子と机を戻して座りなおす。「大丈夫かね?」教師の言葉に「はい…」と意気消沈して返した。
直後の休み時間、タクヤがケイに話しかける。「あんなに言わなくても良かったんじゃないか?」。
ケイはそっぽを向く「鬱陶しかったのよ」。
リョウコの異常は、ひと月ほど前からクラス全員が感じている。授業中に落ち着きなくイライラしている様子だ。今日の暴発は蓄積した火山の噴火だったに違いない。元は、寡黙で温厚な女生徒だったはずだが。
「どうしたんだろうな?」
「さあね、スランプなんじゃない。この間のテストでも平均点だったみたい」
ケラケラ笑いながらケイは言った。「あんた勉強教えてやったら?」。
「まかせろ」と返事をしながら、冗談だろう、と思った。
リョウコは数か月前の模試まで学年上位に入る才媛だった。とても平均点の自分から教えを請うとは、考えられない。
女子をナンパしたのは初めてだった。
「良かったら一緒に勉強しないか?」馬鹿にされるだろうな。
彼女は驚くほど素直に頷いた。「…うん、教えてもらおうかな」。
図書室に移動し、教科書を開いて、すぐに絶望する。リョウコは授業中と同じく、鉛筆トントン頭イライラをし始めたからだ。
「そんなの覚えられないわよ!」
無理もない。教科書の内容をそのまま説明しているだけで、彼女が不快感を持った教師の教え方と同等かそれ以下なのだ。英単語のいくつかは意味を答えられたものの、英文となるとまるで翻訳できない有様だった。そして、それ以上にどうしようもなかった。一時間に渡って粘って教え、彼女はたったの数問も解けやしなかった。
「ちょっと場所を変えようか」
誰かに縋りつくしかない。
東校舎二階の西側の最果て。
部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。
物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。
日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。
『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。
扉を開けて、煙と埃と本に塗れた室内に入る。部屋の主が椅子に腰かけ、組んだ足を机に投げ出し、気怠そうに天井へ紫煙を吐いていた。
クロサキ先生が気づき、落胆と喜びを含んだ声色で「お~~~…なんだ、またお前か」。
「どうも」と挨拶して入室する。
後ろから続いてきたリョウコが煙に蒸せている。気管支が弱いのかもしれない。
「ヒュー! 女連れじゃん! 彼女?」街中のチンピラ同然の野次を飛ばされた。小指を立てるのは教師としての品性を疑う。
「違います」否定しつつ、部屋の換気扇を動かし窓をあけ放つ。
リョウコも言った。「違います」。
…やはり違うらしい。
「来談者はそっちの娘? ちょうど暇してたんだ。さぁ、座って座って」埃塗れの椅子が引っ張り出される。少しは掃除しようと企てないのか。
リョウコが怪訝な顔で先生を見やり戸惑う。何故子供が?、おそらく初来室では誰もが同じ心境なのだろう。
「失礼します」
ハンカチで拭いてから彼女が座る。
先生は足を組んでふんぞり返る。「さて、今日はどうしました?」。唇の端を歪め、ニマーと笑う。
「…勉強が頭に入ってこないんです」
「ほう、勉強がね。頭悪いの?」
まったく歯に着せないあっけらかんとした物言いに、リョウコが苦い顔で皺を刻む。
気まずくなりそうな空気を慌てて取り繕う。「先生、彼女は模試トップクラスですよ」
「へぇ、じゃあ地頭は良いんだ。症状は最近?」
一秒の逡巡。リョウコの視線が左上に向かう。「ここひと月くらい…かと」。
「そっかそっか。すごく最近だねぇ。スランプかな?」
落ち着きなさげに手遊びをする彼女。「そう、かもしれません…。それで、先生に勉強を見てもらえないかと」。
「わかった、いいよ。教科書貸してくれる?」差し出された手に、タクヤは自分の英語教科書を渡す。リョウコは鞄から自前を取り出す。
どこ?と聞かれ、46ページの頭からです、と返す。
「はぁ、なるほどね。ごほん、Could you please signature this Documents? 訳して」先生がリョウコに向かって疑問文を投げかける。
彼女の顔から血の気が引いている。顔に皺を作り、必死に頭の中で読解しているようだ。
「私が…じゃなくて…あー…えっとえっと…」
「焦らなくていいよ」
「こ…この…この…………えっと、動詞、なんでしたっけ…?」
ふむ、と先生は唸る。「Could」「you」「please」「signature」「this」「Documents?」と区切って再度口にする。
リョウコが俯いて固まる。そっと表情を伺うと、今にも泣き出しそうであった。
「わかり…ませ…ん…」涙混じりの悲痛な声が漏れる。
ふーーーーむ、と長く先生が唸り、頭を掻きながら臨床心理の教本を取り出してページをめくる。
「私、頭がどうにかしてしまったんでしょうか?」
「最近、事故にあったり頭を打ったりした?」
「いいえ…」
「器質性じゃ、なさそうだね」教本を閉じて元の場所に戻す。
よし、と彼が頷き、タクヤの鞄を勝手に漁って英単語帳を掴みだす。そして7ページほど書き込む。
「今度はこれ使ってみて。一ページめくったら単語を言って、裏面の回答を見ること。ただし口にするのは一単語一回だけ」
リョウコは怪訝な顔で単語帳を受け取る。単語帳なら普段から使っている、そんな顔をしている。
彼女が発語する。「Could」と言ってから裏の「できた」を見る。「you」と言ってから裏の「あなた」を見る。
残りも続ける。「please」「お願いします」「Could you please」「~してください」「signature」「署名」「this」「この」「Documents」「書類」。
「はい、Could you please signature this Documents? 意味は?」
問いかけに、たどたどしく答える。
「~してください…署名……えっと、この書類に署名してくださいませんか?…ですか?」
先生がニカリと笑う。「はい正解」。
リョウコ本人も何が起こったのか分からない様子だ。彼女が俯いて何かを考え始める前に、先生が英単語帳を引っ手繰り、また数ページ書き込む。
「はい、同じように。やって」
再び単語の発話、文の英訳。「she」「彼女」「eats」「食べる」「candy」「飴」「when」「いつ…あ、~の時か」「Spare」「予備」「 time」「時間…余暇時間?」「か…彼女…暇な時…彼女は、暇な時、飴玉を舐める」先ほどより、躊躇いが少し消えている。
三度目、躓きは文頭だけ。「I」「私」「should」「~すべき」「take」「取る」「into」「~に」「consideration」「考慮…あ、私は考慮すべき、か」「the」「その」「fact」「事実」「that」「それ」「you」「あなた」「will」「~だろう」「be」「なる」「my」「私の」「partner」「恋人」「えっと……彼氏にしてあげよっかなー?」ユーモアも飛び出した。
先生が満足そうに頷く。「うん、もう大丈夫そうだね。それあげるから、帰って同じように勉強しなさい。他の教科もさ」
「あ…ありがとうございます!」
それは僕の単語帳です、とタクヤは言いそびれた。彼女はすっかり調子を取り戻していたし、気を削ぐくらいならくれてやっても良かった。
リョウコが荷物をまとめて部屋を出ていく。退室前に一礼する辺り、育ちの良さを感じる。表情から焦燥は消えていた。
んーっと伸びをしてから、先生は新しいタバコを取り出し火を付ける。「ふぅ、英語なんて何年ぶりだろ。さっきの合ってた?」。
「たぶん、合ってたんじゃないですか。教えるの上手いですね」傲慢。まがりなりにも教員へかける言葉ではない。しかし心の底で、教職者らしくない彼に、勉強なんて教えられないだろうとも思っていた。
「よせやい。単語帳見て呟いて覚える。学生ならみんな深く考えずにやってるじゃないか。繫がった長文が覚えられなくても、細かく分解すりゃ短期記憶で覚えてられる」
いつかどこかで聞いた。確かリハーサル効果だったか。そう言えば、リョウコは元々無口で勉強中も口数は少ない。
「会話は出来ていたのに、変な話ですね。記憶障害か何かだったんですか?」
先生は、さあねと小首を傾げる。「脳みそケガした健忘や言語野障害じゃないみたいだし、ちょっとした失敗か溜まったストレスで混乱してたんじゃないか。僅かでも成功体験があれば歯車も噛みなおるさ。多感な時期だからなぁ」。
「はぁ、なるほど」と自分でも納得できたのか判然としない。
先生がひらひらと手を振る。「お前が患者を連れてきてくれると、仕事が増えて良い塩梅だ。ガンガン連れてきてくれよ」。
そんなに悩みを持った生徒がいるだろうか。カウンセラーらしくない彼に預けるのも不安がよぎる。「いたら連れてきますよ、いたら」。帰ろうと、自分の鞄を持ち上げる。
少女のような小さな顔の小柄な鼻が、ふふんと鳴る。
「そうだ、アンタ、アタシのこと好きって言いなよ」
「何でそんなこと言わなきゃならないんですか。嫌ですよ」
彼がカラカラ嗤う。「口に出せばアタシのこと忘れずに、次も患者連れてきてくれるかもしれないじゃん。ほら、言ってみなよ、好きって。一回さ」。すぼめた口から吐いた煙がドーナツに変わる。
タクヤはそっぽを向く。「言いません」。そんな感情は覚えたくなかった。