ケース11『かなえたい』
サクラが頭を抱えて嘆く。「あぁ、どうすればいいの! このまま何も出来ないまま時間だけが過ぎていく!」
対面に座っているクロサキ先生が、「へぇ、何かをしても時間は過ぎていくけどねぇ」と興味があるのかないのか判然としない返答をする。広げたファッション誌、そこにケイの写真が写っていた。
時間は戻る。
放課後。タクヤは帰宅しようと靴箱から自分の外履きを取り出す。その時、昇降口付近で言い争う声が聞こえた。
「ちょっと、ケイ! これどういうことなのよ!」
同級生のサクラが薄平べったいファッション誌を広げ、靴箱を背にするケイに突き付けている。
「どういうことって言われても……」
かなりの剣幕だ。普段、誰に対しても強気なケイが押されている。
「私が応募するから応援してくれるって言ったじゃないの!」
「いや、だから、こんなの身に覚えが……」
サクラがファッション誌を床に叩きつける。
「じゃあ、なんでケイが載ってんのよ! 私に隠れて応募したってことじゃないの! うそつき!」
地面に転がされたファッション誌を拾う。ページをパラパラと捲る。
タクヤの口から小さな驚きの声が漏れる。二十ページを過ぎた頃、読者投稿欄の一枠にケイの写真が掲載されていた。
私服だった。白のシャツに花柄紺色のスカート、手に有名なレディースアパレルメーカーのハンドバッグを持っている。大人びた彼女の容姿と相まって、大学生か社会人のようにさえ見える。背景に写っている商店は、学校から近い花屋だ。
ん?っとタクヤは首を傾げる。この写真、どこかで見た記憶があったのだ。
その時、ケイがこちらを指差して言う。
「あーっ! そうだった! タクヤが勝手に応募したんだった! あの写真撮ったの、彼だもの!」
え?っと疑問を口にする間もなく、
「本当なの!?」とサクラに詰め寄られる。
かなり興奮した様子。眉の間にシワを刻み、固く結ばれた口から歯ぎしりの音が今にも聞こえてきそうだ。
「な……なにが!?」
彼女は弾くように強く、雑誌上に写されたケイの胸を指で押さえる。「この雑誌の読モコーナーにケイを応募したでしょって言ってるの!」
タクヤは首を振る。「し……知らない」
本当に覚えがない。ケイが雑誌に載ったことさえ、今さっき知ったくらいだ。
サクラが振り返る。
「ケイ! 知らないって言ってるじゃないの! ……ケイ?」
既にそこに彼女の姿はない。まるで疾風のごとく痕跡も残さず逃げ去っていた。
昇降口で靴を履き替えて帰ろうとすると、「ねぇ、本当に何も関係ないの?」とサクラが強い口調で問いただしてくる。
「無関係だよ。それにその写真撮ったのは、たぶん写真部だ」
「…………」彼女は得心ゆかぬようだ。まさかケイが蒸発したので、怒りのぶつけ先を探しているのではあるまいか。
話を聞く限り、ある若年女子向けのファッション誌にサクラは応募したらしい。その話を二、三ヶ月前に教室でしていたのだが、クラスメイトに「私だけに応募させてほしい。特にケイは特段美人だから同時期に応募しないで」と頼んだのだとか。
随分手前勝手な話であるが……大変失礼だが、サクラが懸念するほどケイの美貌は優れている。同じ店先に値段が同じだけでグレードの違う商品があれば、誰でもそちらを取るのは自明の理。
そしておそらく、この写真を雑誌に投稿したのは撮影に立ち会った写真部の誰かだろう。元々この写真は以前、校内新聞の一記事として使われた物だったことを思い出した。偶然なのかイタズラなのか、サクラの応募する同月に当て込んでしまったらしい。
その推測をサクラに聞かせてみたが、「……そんな話、信じられない」と一蹴される。この手のステイタスに興味のないケイが応募する方がよほど信じられない話だが、今の彼女は冷静さを欠いている。
帰宅しても執拗に付いてきそうなので、タクヤは忘れ物をした振りをして校内へ戻る。そしてやはり付いて来てしまう為、やむを得ず進路を東校舎に向けた。
東校舎二階の西側の最果て。
部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。
物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。
日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。
『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。
ゴミだらけの廊下に差し掛かると、サクラが不審がった。人気のない場所へ誘導されたと勘ぐったらしく、より数歩分距離を開けて尾けてくる。
扉を開ける。扉から漏れ出るヤニ煙が、今日は少ない。入室する。
そのまま帰ってくれても良いのに、サクラは部屋前で待機した。
本の山が床を支配する、縦に狭い部屋の奥。安置された頑丈そうな木机、その前にいつもの職員用の椅子がない。いい加減に部屋の隅に片付けられ、代わりにクロサキ先生が地団駄のような運動をしている。
「クロサキ先生……なにやってるんですか」
彼が振り向き、「はぁ……お~~~~……いらっ……はぁはぁ……しゃい……はぁはぁ……」と乱れた呼吸で返事をする。
いつもの白衣は脱いで木机の上に置かれている。上は黒のタンクトップ、下は黒のスカート、さらに黒のタイツまで履いている黒ずくめだった。服趣味が良いとは言い難い。
「健康器具、ですか?」
先生が踏んでいるのは台座にY字型のアームと、その上に足置き場を設置したステッパーと呼ばれるウォーキングマシンの一種。
彼が汗まみれの顔で二マーと笑う。「あぁ、最近運動不足だったからね。ちょっとは何かしないとね。十分はやったから、ちょっと休憩しよ」そう言って、いつもの職員用椅子を組み立て直して座る。
ステッパーは上下に足を動かす程度の稼働しかしない。十分やったくらいでそれほど疲れてしまうのなら、運動不足解消も焼け石に水ではなかろうか。
さらに彼は、懐から愛用銘柄のボックスを取り出し、口に咥えて火を付ける。
「はぁ~~~~……運動後のこの一服が美味い」胸いっぱいに煙を吸い込む。蒸せる。運動で肺が過活動しているようだ。
異常な体力不足。酒もタバコもやるのに、ガリガリにやせ細って青白い肌と深い隈。ちょっとやそっと運動するより、トレーナーや理学療法士の下で指導を仰ぐべきだろう。
「で? そっちの娘が今日の患者?」
タバコの先端で、部屋の入口前から中を伺っているサクラを差す。
「えーと……患者……かなぁ」
振り向いて彼女を見る。別に精神疾患が原因で連れてきたという訳でもない。
「え? 患者って?」
当人も不思議そうな顔をした後、ドアに吊り下げられているプラカードを確認した。「患者じゃありません。私は……そのぅ」
先生が茶化すように「タクヤくんの追っかけ? やるねぇ。ヒューヒュー」
「違います! 私はむしろ追っかけられる側です」
「ふぅん……そうなの?」
下駄箱での経緯を説明する。サクラがケイに詰め寄っていたこと、ケイの写真があずかり知らぬところで雑誌掲載されていたこと、おそらく写真部の仕業であること、など。
「なるほどねぇ」と先生は聞きながら、件のファッション誌を組んだ足の上に乗せて読んでいる。右手指に挟んだタバコの先から灰がパラパラ落ちている。人の物でもお構いなしだ。
「ケイったら卑怯でしょう! そう思いませんか!」
サクラの中では、まだ彼女が裏切ったことになっているようだ。
先生は雑誌から目を離さず、うんうんと頷く。
「もしかしたら私がその号に載っていたかもしれないのに。そこからモデルの道だって開けたかもしれないのに」
「うん……うーん……うんうん」
「先生もそう思うでしょう?」
「うーん……読者モデルかぁ。羨ましいなぁ」
「……羨ましいなぁ、じゃなくて。ひどいと思いませんか?」サクラがイラついた様子でファッション誌を叩く。
「そうだねぇ。話を聞いた限りじゃ、アタシも写真部のイタズラだと思うんだけど。ケイちゃんにその応募が重複しないようにって話、した時、写真部の人間はいなかったの?」
「……わかりませんけど」
クラスに二人、写真部の部員がいる。ケイやその周囲は大声で話す傾向もあり、同じクラスなら聞こえていても不思議ではない。
先生が足を組み直す。「まぁ、責任の所在をどうこう言っても始まらないさ。この雑誌、毎月発行なんだろう? 来月また投稿してみればいいじゃないか。焦らなくてもチャンスはあるよ」きわめて楽観的な口調でそう言った。
だがサクラの顔には険しい表情が浮かぶ。
「チャンス? チャンスですって? 私、もう十七歳なんですよ。これから先、いったいどれだけチャンスがあるって言うんですか」
先生が小首を傾げる。
「いくらでもあるんじゃあないか? だってまだ十七歳なんだろう?」
「まだ、じゃなくてもう十七歳なんですよ!」
「わっかんなぁ、まだ十分若いじゃない。これから芸能界に入る猶予は長くあると思うけれど」
サクラがはぁ~と長くため息をつく。小馬鹿にしたような仕草で両の手の平を振る。
「先生は何もわかっていませんね。今時は高校生どころか、小学生や中学生、果てはそれ以下の年齢からでもデビューする人だっています。現にケイは読モデビューしましたし、この雑誌でさえ毎号出て、そこからモデルや女優になる人だってたくさんいるんです」
「へぇ、そうなんだ。最近の子ってマセてるなぁ」小さく開けた口から小さい煙のドーナツを吐き出す。
「学生の頃から読モデビューなんて当たり前。高校生だってあと一年少ししかないのに、まだスタート地点にも立ててないんです。あぁもう! 時間がない!」
髪を掻きむしるサクラ。
先生が「そうなの?」とタクヤを見る。
「いえ、僕も芸能界事情は詳しくないので……そういう人も、いるんじゃないんですかね」
普段目にするテレビやインターネットメディア。華やかな舞台で低年齢から何かを成した人もいるだろう。それが一般的かはともかく。
「だから今回は私の中でも貴重なチャンスの一つだったんですよ! サクラが応募しなかったら私の写真が使われていたのかもしれないのに!」
そこに大きな語弊がある気がタクヤはした。ケイの写真が候補になかったとして、果たしてサクラが選ばれていたのだろうか。ケイの容姿がテレビ映りに耐えるものだとして、彼女のそれが雑誌出版社の編集者たちの目に止まるかは定かでない。
「そうだねぇ。確かにケイちゃんの写真とサクラちゃんの写真が隣にあったら、ケイちゃんの使うかもしれないね」
絹旗せぬ物言いがサクラに突き刺さる。
「そ……そうかもしれないですね……」
先生が放り出すように雑誌を木机に投げ出す。
「ま、過ぎたことを悔やんでも仕方ないよ。今月号にサクラちゃんの写真は載らないのは変わらないんだから」
「そ……そうですね……」
「過去より今や未来。これからの堅実的な考え方をしよう。問題解決療法だね、あれ? 違ったかな?」
何故か心なしか彼がウキウキしているように見える。
「今や未来……そうですね。次のチャンスを絶対に無駄にしない為にも」
先生が木机の引き出しを開ける。何やらゴソゴソ探していたようだが、古めかしい一眼レフを持ち出す。
「じゃあ、写真撮ろうか。今から」二マーと唇の端を釣り上げる。
サクラがやや動揺し「え!? 今、ここでですか? ここはちょっとレイアウトが……」
本の散乱したグチャグチャの狭苦しい部屋。エアロゾルも酷く、昨今のスタイリッシュで整然としたファッション誌の紙面を飾るには汚らしすぎる。
しかし先生はお構いなしに、「いいのいいの。素体が良ければ背景なんてなんだってさ」
サクラが褒められて顔を赤らめる。「そ……そういうものでしょうか」
はい、と先生が彼女にカメラを手渡す。「じゃ、撮ってくれる?」
「は?」とサクラが口を半開きにして固まる。
先生は木机に上る。
「は? じゃないよ。ほらほら、撮って撮って。なるべく綺麗にね。うっふ~ん、なんつって」
彼が机の上でポーズを取る。場慣れしない不器用で不格好な所作で。
「わ……私が先生を撮るんですか? なんで?」
「だって、アタシの写真撮らなきゃアタシが応募できないじゃん」
「ど……どうして、先生が応募するための写真を私が撮るんですか。私が応募するんですよ?」
先生が意外そうに「え? さっき諦めるみたいなこと言ってなかった? チャンスがもうないとかなんとか」
サクラが反論する「言ってません! ま……まだデビューできないとも決まってませんし。だいたい、先生はそんな見た目でも男性だって言うじゃないですか。これ、ティーン向け女性誌ですよ。いくつなんですか」
全く後ろめたさを見せず「三十八だけど?」
「三十八って……」目眩を引き起こしたようによろけるサクラ。「絶対無理です! 中年男性が読モになるなんて!」
「失礼だな、君。十七で既に賞味期限ギリギリだって言うなら、三十八だろうと四十八だろうと苦境は大して変わらないだろう。どうして十七の君は良くて、三十八のアタシはダメなんだよ」
「いや……だって、そんなの……」
サクラが考え込む。女子高生と中年男性ではあまりに状況が違いすぎる。しかし自らを崖っぷちと言ってしまった手前、自分と彼の間に大きなハンデ差があるのか判断し得ないのかもしれない。
やがて、数分考え込んだサクラがカメラを木机の前に置く。
「すみません、やっぱり私が間違っていました。まだ私には幾らも可能性があります。だって、もう十七歳ではなくまだ十七歳ですもの」
自分の鞄を手に取り、頭を軽く下げる。
「ありがとうございます、自信が沸いてきました。帰ってまた投稿の準備をしようと思います」
未練がスッパリ切れたというように出口に向かって歩いていく。そして戸口でもう一度頭を下げ、「先生もがんばってくださいね。無理だと思いますけど」ニコリと笑う。
タクヤが閉められたドアに向かってため息をつく。
「良かったですね、ひとまず自信取り戻したみたいですよ」
「あ……あぁ、そうだな」先生の頬肉と眉がピクピクと痙攣していた。
周囲が思っている以上に年齢を気にしているのかもしれない。
「リフレーミング。リフレーミングってやつだよ。客観的事実に対する否定的な思い込みを肯定的に再解釈したんだ。あー、成功成功。これであの子も自分に好機がなくなってるなんて、おかしな思い込みはしなくだろうよ」
「十七歳は若いですからね」
先生が木机に置かれたカメラをタクヤに押し付ける。
「はい、じゃあ代わりにアンタ写真撮ってよ」
渡されたカメラは見た目より重い。結構な高級品なのだろうか。
「何故、僕が撮らなければならないんですか?」
「いいから撮れって」
先生が片目を瞑ってポーズを取る。両手を後ろに回して足を片足を組む。本人は色気を醸し出そうとしているのかもしれないが、傍目には病的な子供がマセた仕草をしているようにしか見えない。
断ってもしつこそうなので、適当に構えて撮影ボタンを押す。
はいチーズ、カシャ。
「じゃあ、それ現像してどこかの雑誌に投稿しておいて」
肩を叩かれる。どこに投稿しろというのか。マニアックな専門誌だろうか。
先生がいやらしく二マーと笑い、「アタシの写真欲しかったら焼き増ししても良いよ。一枚300円でね」と妙に自信ありげだ。
彼は再び健康器具のステッパーを持ち出して踏み始める。室内にギッギッとアームと駆動部の軋む音が響く。
「はいはい、わかりましたよ」
そして帰り支度をするタクヤは、ケイの写真が載ったファッション誌を帰宅時に購入する決意しか頭になかった。今さっき撮った写真の処遇の件など、既に忘れていた。