ケース10『しにたい』
「来るな! 近づいたら飛び降りるぞ!」とカケルが大声を張り上げる。強風に流れても尚、十数メートル離れたタクヤとケイにまで届いた。
二人は彼への接近を止め、その場に固まる。
学校屋上の縁。腰くらいの高さしかない柵を掴み、カケルが威嚇する。
「来るな! 絶対に来るな!」
明らかに錯乱している。
タクヤとケイが顔を見合わせる。どうにもならない状況で膠着してしまった。
地上には人だかりができ始めている。
時間が戻る。
それはその日、六時限目の授業中に発生した。
午後の気怠い空気の中、化学教師が亜硝酸ナトリウムについて解説している。反応式はこうでうんたらかんたら。
タクヤは夢の世界に片足突っ込んでまどろみ、ボーっと窓から校庭を眺めていた。
今日はとりわけ気温が高い。日中も一人、生徒が熱中症で倒れたくらいだ。
バシャアっと水音がして、突然視界が真っ青に染まる。頭に電気が流れたように痺れ硬直する。
教室の窓一体の半分ほどの視認性が失われた。ペンキのような液体が、内側へと叩きつけるようにして上からぶちまけられたらしい。
タクヤは眼前の窓を締め切っていたが、昼風を感じるために開け放していた所は飛沫が飛び入りクラスメイトの何人かが悲鳴を上げている。
クラス中がパニックになっている中、ひとりケイが教室外へ飛び出していく。彼女はもっとも早く悟ったらしい。この教室は三階にあり、上は屋上しかないことに。
ケイの後を追って踊り場から屋上へ通じる階段を登る。
普段施錠されているはずの扉が開いている。傍に清掃業者の物と思しき、仕事道具が放置されていた。
屋上へ出る。屋根や壁がないせいか、一瞬足元がふらつくほどの風が吹く。
入り口から数メートルにケイが立ち止まっている。その視線の先、屋上の隅に誰か立っていた。
顔と名前だけ知っているクラスメイト。確かカケルだったか。
先ほどペンキをぶちまけたのは彼らしい。制服に青い斑点が付着して、足元に開封済みの一斗缶が転がっている。
ケイが「あんたなんてことすんのよ!」と怒鳴りつけ歩み寄ろうとする。
「近づくな! 近くに来たら飛び降りるぞ!」
カケルが屋上の柵を掴んで足を掛ける。
彼の危険が取引材料になるか不明だが、ケイが思わず足を止める。
柵は腰までしかないものの、その先には落下防止用の金網があるから安全、ではなかった。
金網が直径二メートルに渡って、工具か何かでくり抜かれていた。
「ち…ちょっと落ち着きなさいよ!」
「落ち着いてたらこんなことするか!」
彼の目的は公衆の前での飛び降り見せつけだろうか。それとも自身を人質にした交渉だろうか。
「な…なんでこんなことすんのよ」
ケイが気持ち語気を弱める。
カケルは何かを言いかけて「…………」口を閉じて沈黙する。
「わー! バカバカ押すなって! アタシ一人にやらせる気か!」
振り返る。屋上の入り口から生徒相談室のクロサキ先生が、数人の教師に押されるようにして放り出されているところだった。
「クッソー、あいつら。こんな時ばかりアタシに押し付けやがって」ぶつぶつ不平を垂れながら歩いてくる。
「先生……」
「飛び降りだって? 物騒な青春してるねぇ」懐のボックスからタバコを一本取り出して火を付ける。
「隣のクラスのカケルです」
「知ってる。清掃業者が鍵開けた時に殴り倒して屋上入ったんだってさ。ペンキと工具まで持ち込んで、随分と手間のかかった飛び降りだな」
「何の為かもわからないし、来てくれて助かりました。近づくなって言われましたけど、早く説得してください」
先生が口ごもる。「え? あ……うん……うぅーん……」気色悪く体をよじらせる。
「何してるんですか! 早く! いつ飛び降りるかわからないんですよ!」
「いや、それはわかるんだけどさぁ……。こういうケースって……そのぅ……」彼が苦笑いする。「対応した職員が責任追及されることが、多いんだよ。ハハ……参ったな」とおよそ教職として最低な発言をする。
ケイが詰め寄り胸ぐら掴む。「バカなこと言わないで! 人の命がかかってんのよ! あなたそれでも教師!」
先生が手を払いのける。「バカヤロウ! 教師だって生活があって人生があるんだ! あいつがうっかり転げ落ちたら、こっちに悪意があろうとなかろうと責任所在の捌け口で社会的制裁を食らわされるんだよ!」
「さ……最低」ケイが嫌悪感を露わにする。
「そんな暴言、入り口で様子を伺ってる奴らに吐いてやれ」
先生の親指で指された先。屋上には一歩も入ろうとしないで、教師一同がこちらの一挙手一投足を注目している。
「じゃあどうするんですか?」
彼は髪の毛をグシャグシャ掻き「……やるよ。まぁ、やるだけね。飛び降りの引き止めなんかやったことないけどさ。今、下でクッション敷いてる。アタシもなるべく時間稼ぎするけど、あいつが飛び降りそうになったら、お前ら急いで抑えつけに走れよ」
「……やるだけやるわよ。ここから走って間に合うとは思えないけれど」
「……ったく、カウンセラーはネゴシエーターじゃないっての」
「や……やぁ、カケル君、だっけ?」
先生がニヘラと媚びへつらう笑顔を向ける。片手を上げてフレンドリーをアピールしているようだが、下手な笑みと相まって怪しい。
「止まれよ! 近づくなって言っただろ!」
カケルが両足とも柵の外側に出す。
「わわわわかった! これ以上そっちに行かない! だから落ち着け!」友好的な態度は一瞬で崩れ去った。「とりあえず話をしよう! な? な?」
「…………」カケルの沈黙。
「どうしてこんなことをしたのか、先生に話してみたらどうだ? な?」
「…………」また沈黙。
タクヤの頭に猜疑心が浮かぶ。ここまで派手な騒動をわざと起こしたのだから、カケルに何か訴えたいものがあるはずだ。にも関わらず、彼は自分のことを話そうとしない。
そっと耳打ちする。
「何が目的なんでしょうか?」
「うーん……わからん。死ぬつもりならとっくに飛び降りてるだろうし。このパフォーマンス自体が目的かもしれん」
記憶を攫う。一つだけ思い当たる節が見つかる。
「そういえば、彼、以前イジメを受けていたとか」
最初に言えよと先生とケイが睨みつけてくる。しかしクラスも違えば交流もない。忘れていても自分のせいではあるまいとタクヤは思った。
先生がカケルに「あー……原因はイジメか?」
カケルの体がビクリと震える。
絹着せぬ物言いが、その場全員を緊張させる。ケイが飛び掛かれるように、膝を少し折り曲げている。
「……まぁ、そうだけど」とカケルが初めて冷静な返答。
先生がニマーと唇の端を釣り上げる。
「それならアタシが職員会議で取り上げてやるよ。二度とイジメが起きないようにさ」
「……以前相談したことあったのに、解決しなかったじゃないか。信用できない」怨嗟の込もった声。
「わかった。だったらアタシがイジメっこにヤキ入れてやるよ。親でも見分けつかないくらいにボコボコに」
なんてことを言い出すのか。
カケルは彼を一瞥して、「弱そう……」
その後も説得を続けるが、カケルは信用どころかさらに不信感を募らせていく。
状況にストレスを感じているようで、顔が青くなり体に小さな震えまで起きている。
「先生、このままだと余計に追い詰めていくだけなんじゃ……。どうにかならないんですか」
「どうしろって言うんだよ……もういい! 現実見せてやる!」
先生が携帯電話を取り出してインターネットページにアクセスする。そして「suicide cadaver」と打ち込んで画像検索をかける。
「おい! 見ろカケル!」
「なんだよ!」
先生が携帯電話の画面を突きつける。
「飛び降りなんかするとな! こんなことになっちまうんだぞ! こんなグチャグチャな……おえっ」嘔吐しそうになり、ツバだけ吐いて堪える。
「そんなもの見せるな!」カケルが顔を背ける。
痺れを切らした先生がツカツカと歩み寄る。
「いいから見てみろって。もうこんな……うわぁ、これ血まみれだしアレとかソレが飛び出て……うえっ」
「だから止めろって! 近寄るなって言っただろ! 本当に飛び降りるぞ!」
「見てから考えろよ。ほら、これとかさ……あっ!」
先生が躓く。その手から携帯電話が離れる。アルミとガラスの5.8インチが二、三度床をバウンドする。
「アタシの携帯!」
カケルの足元で止まる。そして彼はふいに見てしまったらしい。ヒビ割れた画面に表示されたそれを。
「おぇえええええ!!」
彼は蹲り、その場で吐く。喉を逆流した未消化物が地上へと降り注ぐ。下でクッションの設置を進めていた教職員や生徒が爆撃を受けて悲鳴を上げて逃げ惑う。
「はぁ……はぁ……うっ……おえぇ……」
一通り吐き終えたカケルが、柵にしがみついたまま動かない。
依然として震えたままだが、固く柵を掴んだ手は別の感情を意識している。
「大丈夫? こっちへ来られる?」
既に彼への接近を果たしていたケイが、心配そうに声をかける。彼女の手を借りて柵を越えてくるカケル。
ふぅとタクヤが胸をなでおろす。自殺体の直視が、カケルの生存本能を呼び起こしたようだ。一安心といったところだろう。
「ひとまず一段落ですね、先生」
先生は転がった携帯電話を拾い上げていた。しかしその場に座り込んだ姿勢のまま動かない。
「先生?」
「うぅ~……アタシの携帯〜〜……買ったばかりだったのに~~……」肩が小刻みに震えている。すすり泣きが聞こえる。
ヒビ割れた画面、欠けたボタン、吐瀉物らしき液体がこびりついている。使用に耐える程度の微損だった。
夏の青い空の下。屋上に吹く、青嵐が心地良い。
東の空に入道雲が、ゆっくりゆっくり流れていた。