ケース1『きいてほしい』
埃まみれの部屋の中、ユキオはまくしたて続ける。
「だから僕はあいつらより優れた人間なんですよ! 勉強だって模試じゃ学年3位だし、運動だって平均よりできる!」
彼を淀んだ瞳でとろんと眺めながら、クロサキ先生は気のない返事で返す。
「ふうん」
激昂と無気力が相対する中で、ここへ連れて来たことを後悔しはじめた。
時間は戻る。
それは午前中の休み時間に、ケイが言ったからだった「だったらあんたが連れていけばいいじゃない」と。
同級生のユキオと口論していた彼女との間に、仲裁で入ったタクヤは巻き込まれた。
「そんなに言わなくてもいいんじゃないか?」「アンタ関係ないじゃん」「そうかもしれないけど…」「だったら引っ込んでなよ!」「もうさ、俺たちじゃ手におえないし、えっと、相談室に連れてったらどうかな。東校舎のさ」
その失言をケイは見逃さなかった。
今思えば、元々問題児のユキオをクラス内でたらい回しにして、責任の所在をどこかに押し付けようとしていたのではないか。
思わず「まかせろ」と言ってしまった。日頃、ケイに密かな想いを寄せていたが為に、カッコ良いところを魅せようとしたのだろうと言われれば、否定できない。
ユキオの付き添いになってしまった。
東校舎は図書室や放送室や教材室、一部の部活動部室などの特別教室を擁する。
西校舎から向かうには、接続された渡り廊下を歩いていくしかない。
振り返る。ユキオは俯いてブツブツ独り言を呟きながら付いてきている。逃げ出したりこちらに矛を向けないだけ、幸運なのかもしれない。
東校舎二階の西側の最果て。
部活用品、書類の束、用途のわからないオブジェの波を避けながら進む。授業や部活でも普段使いから外された道具、あるいはゴミが申し訳程度に整えられつつ乱雑に放置されている。
物置同然と化した奥まった先に、目的の場所はあった。
日焼けしたオンボロ引き戸に、留められた画鋲から吊り下げられた、上部両端に紐が通された粗末なプラカード。
『学生相談室責任者:クロサキ ツバキ』と、ヘタクソな字で手書きされていた。
ユキオが付いて来ているのを一度だけ確認して、扉を引き入室する。
「すみません」そう口にする前に鼻を塞ぐ。室内にヤニの臭いが充満していた。
教室を半分の半分に切ったような狭さに、中も外と変わらず散らかっている。
壁際の棚にぎゅうぎゅうと押し込まれた本たちが住処をなくし床を占領して、それ以外のゴミと冷戦状態にあった。
最奥地、値段とガタイだけ自慢できそうな木机の前で、職員室用の椅子にダラシなく誰か腰掛けている。
「お~~~」寝起きのような声を喉から絞り出して、椅子の主人が背もたれを引っ繰り返らんばかりに倒し、逆さまの顔を向けてきた。
中学生くらいの女の子。不健康そうな青白い肌、アーモンド型の濁った目と徹夜だけして生きてきたような深い隈、黒のアンダーシャツの上にダブルの白衣、真っ黒な長髪は後ろで雑に結んでいる。
けしからんことに、口に咥えたタバコに火が付いていた。この煙ったさは彼女が原因らしい。
少し躊躇ってから「クロサキ先生は?」と尋ねる。
少女が「アタシだけど?」と返し、懐から身分証明カードを取り出して見せてくる。ホームセンターから値段だけで選びましたと言わんばかりの、安っぽいカードケースに顔写真と名前と所属の印字された厚紙が納められていた。
彼女は椅子をくるんと足で蹴って回し正面に向き合い、「あ~~、患者かー。だったら遠慮せず入りなよー」。わずかに目に生気が宿る。
この子供が相談員?と、半信半疑のまま室内に踏み入る。進もうにも足の踏み場もない。膝を引っ掛けて書籍の山が崩れる。
クロサキ先生を自称する彼女は、億劫そうに立ち上がり、
「患者なんか久しぶりだからさぁ、どうせ今日も誰も来ないと思っててさぁ」。
壁に立てかけてあった組み立て椅子を対面上に設置する。七面倒そうな体捌きと裏腹に、相手をする気はあるらしい。
「ほらほら座りなよ」
「あ、相談したいのは僕じゃなくて、彼なんですが」
「あン?」
入り口からユキオが心底侮蔑した目つきで入室してくる。プライドの高い彼にとって、ゴミ箱同然の部屋の有様は軽蔑の対象なのだろう。
「僕はユキオの付き添いで」
「じゃあ、アンタは立ってな。椅子もないし。ユキオくん? だっけ。アタシが話を聞いてやるからこっち座って」椅子の座面をバンバン叩きながら手招きする。むせそうなくらい埃が舞う。
ユキオがハンカチで拭いてから座り、無愛想に言う「失礼します」。
先生が二マーと唇の両端を釣り上げ、ふんぞり返って自慢げに足を組む。
「さて、今日はどうしました?」
「どうもこうもないですよ! 僕はどこも悪くない!」
ユキオの大声。こいつは教室でも同じく、癇癪を起こしたかのように張り上げて喋る。
「ふんふん、どこも悪くない? じゃあ何で来たの?」
一瞬だけ先生の視線がこちらに向けられる。だったら何で連れて来たの?そういう目だ。
「クラスの奴らが行けってしつこいからですよ! 一度行けば僕がどこも悪くないってわかるでしょうからね! だから今日来たんですよ! 診てなんともなかったら診断書かいてくださいね! クラスの奴らに突きつけてやりますから! あ、これって保険効きますよね! 僕個人の判断じゃないんですけど、奴ら卑怯者だから請求されて知らんふりするかもしれませんし!」
まるでマシンガンだ。一呼吸もつかず、自分の言いたいことをまくしたてる。
「あぁ、いいよ。何枚でも書いてあげる。それで?」促されユキオは続けるが、元より相手の許可など得ようとしない。
彼は自慢癖でおしゃべりだ。日頃から時と場をわきまえず話したがる。ケイとの喧嘩の原因は、彼がしつこく彼女に話しかけたからである。
「僕のうちはですね、金持ちといかないまでもそこそこ裕福でしてね! ユキオって名前も幸せの幸に雄々しいの雄! 自分にふさわしい名前だと思ってます! 兄はユキトって言いますが、幸せの幸に人と書いて幸人。平凡ですよねぇ! 僕の名前の方が間違いなく上ですよ!」
要点のわからない内容、冗長な嫌味、耳聞こえの悪い甲高い声。親でも聞くに耐えないだろう。
先生は聞き入るとも呆れるでもない顔で「へぇ、そうなんだ。それで?」と返す。
ユキオのマシンガントークは続く。自分の生い立ちに始まって体験、考え、その多くは興味の唆られない無駄な情報の切れ端と主観。
そんな実にならない自己語りを先生は、「うんうん」「なるほど」「そうかぁ」と興味があるのかないのか不明瞭な態度で受け流す。
やりとりが一時間、二時間、三時間が経ち、やがて四時間目に入る。既に放課後を過ぎて、窓の外をふと見やれば、生徒が三々五々帰宅の途についている。
窓から差し込む日差しもとっくにオレンジ色。
ケイへの手前、ユキオを放って置けなかったものの、流石に飽きていた。よく付き合った。もう十分だろう。先生と彼が話していても構わない、自分だけ帰ってしまおう。
という気にならなかったのは、部屋の隅で座り込んで聞いていたうちに、二人の会話に変化があったからだ。
二時間を過ぎた頃、ユキオの饒舌さに陰りが見えた。「えっと、だから、僕はもうちょっと評価されても良いはずなんです」。
三時間を過ぎた頃、たまに詰まるようになった。「が…がんばりは必ず認められる、そうです…よね? 少なくとも僕はそう思いますよ」。
四時間目に入り、発言の前に躊躇する素振りが頻繁に見られた。「えーと…これは僕が先週行ったお店の話で…あれ? 先々週だったかな…?」。
「それで? 他には?」先生の態度は始終一貫していた。問いかけと相槌のスタイルは無変化だ。
「ええと…後は、最近数学でわからないところが…」
「へぇ、どの公式? 高校生数学くらいなら教えてあげられるかもしれないなぁ」
「あー…それは自分でなんとかできますし…」
「そっか。他に何か気になってることは?」
ユキオが沈黙する。目が泳いで話題を探しているようにも見える。
「他は…特に…」
「ないの?」小首を傾げてポニーテールが揺れる。一瞬だけ見た目相応の少女の面影が垣間見えた。
「俺、帰ります」そう呟きがユキオから漏れた。顔から気迫が消えて、憑き物が落ちたように少しボーっとしながら出口に向かう。
部屋の主人は疲れた様子も見せず、「あ、そう? 話なら聞いてやるから、また来なよ」と抑揚のない声で見送る。
一分の沈黙。「アンタは帰らんの?」と声を掛けられて我に返る。
「あ、相談は終わったんですね」
スタートはわかりやすく、ゴールは判然としなかった。
間抜けな声で間抜けな顔のまま、先生の顔を見やる。深い隈の目に、少し、最初の生気のなさが戻っていた。
「たぶんね」腕を頭の後ろに回し、小さな体を後ろに倒す。背もたれがギッと鳴く。
「ユキオの奴、あんなに大人しくなって。これがカウンセリングの効果なんですね。凄いです」
嫌味のない褒め言葉が口を付いて出る。特に説得もしていなかったが、現にユキオから好戦さが消え、スッキリと顔が晴れていた。
「あいつ、話を聞いてもらいたかっただけなんじゃないか? 早口で話すのも余計な言葉が多いのも、話したいことを話せずにいたから鬱屈してたんじゃないかね」
言われてみれば、ユキオはクラスで孤立していたし、彼ばかり積極的に発言してもそれを聞く者はいなかった。
「はぁ…そんな程度のことだったんですね」
「カウンセリングの基本は傾聴姿勢。話を聞いてやるだけで楽になる患者も多いんだよ」
「なるほど」
感心。見た目が子供っぽくても、部屋が散らかり放題でもさすが相談員として勤務しているだけある。まだ信じ難いが、彼女がクロサキ先生本人で間違いないようだ。
「って、この教本に書いてある」
「教本?」
手近にあった埃まみれの書籍が掴み出される。積んでいた山が崩れた。
ページをめくりながら「ふーん、なるほどなるほどねぇ」。
「け…経験と知識に基づいた見立てとかじゃなかったんですか!」
先生は眉根を寄せる。
「いやアタシ、脳外科医だし。とりあえずスクールカウンセラーがいればいいからって、数合わせで呼ばれたようなもんだよ。現場経験なんてユキオって奴が二人目…あ、最初の生徒はすぐ帰ったから一人目みたいなもんか。あはは、おめでとう」ケラケラ軽薄な笑い方。
口を半開きにしたまま固まる。ほぼ素人同然で相談員なんて勤めているのか。なんていい加減な。
しかし一つ確かめておかなければならない。
「ところで、教員名簿だとクロサキ先生は38歳男性なんですが…」
彼は唇だけ歪めて笑う。
「若く見える?」