EX46 サルメが逃走したって? そんなわけないだろう?
アスラが朝食を求めて食堂に行くと、なぜかみんなが盛り上がっていた。
「おら来いやティナ! 俺様のケツを打ち据えてみろ!」
東の大英雄たるアクセル・エーンルートは仁王立ちし、キュッと尻に力を入れている。
背後にはティナが立っていて、自分の右手に息を吹きかけていた。
「手加減しませんわよ!」
ティナがノリノリで言った。
「団長、どっちに賭けるっすか?」アスラに気付いたユルキが言う。「アクセルが一歩も動かなきゃアクセルの勝ちで、動けばティナの勝ちっす」
「ではアクセルに賭けよう。1000ドーラかね?」
「当然1000っすね」
ユルキがそう言った瞬間、ティナの手が音速を超えたのかと思うほどの風切り音に続き、激しい破裂音が響いた。
食堂の中を衝撃波が駆け巡る。
さすがのアスラも、あまりの攻撃力に焦った。
「いいいいいいいい!」ティナが叫ぶ。「痛いですわぁぁぁぁぁぁ!!」
ティナの右手が腫れ上がっている。
ちなみにアクセルは微動だにしていない。
「こんな、こんな堅いお尻には初めて出会いましたわ!! 痛すぎて手が死にますわ! アイリス! アイリス! 回復魔法ですわ! ぼくに回復魔法を!」
「ふん。鍛え上げれば、筋肉が鎧になんだヨォ」
アクセルは澄まして言った。
エルナがアクセルに寄っていき、アクセルの尻に中段蹴り。
「ぐおっ! 何しやがる!」
アクセルが痛そうに顔を歪めた。
「やっぱりダメージあるじゃないのー」エルナがニコニコと言う。「今のでノーダメージだったら逆に引くわよー」
「どっちにしろ俺様の勝ちは揺るがネェ。動いてネェからな」
「さすがアクセル様ね」
アイリスは感心しながら、ティナの右手に回復魔法をかける。
「つーか、サルメはあれを何回も喰らってんのかぁ」とアクセル。
アクセルは昨夜、古城に到着した。そしてサルメのお仕置きに遭遇したのだ。
それで高威力なティナの平手打ちに興味を持ったというわけだ。
「サルメにはもっと手加減してますわよ。ねぇサルメ」
ティナがサルメに同意を求めたが、サルメの返事がない。
「あれ? サルメいませんの?」
ティナがキョロキョロと食堂を見回したが、サルメの姿が見えない。
「……お尻が痛くて起きられない、とか?」とイーナ。
連日叩かれたダメージの累積で、サルメの尻は酷い色になっていた。そろそろ許してやろうかな、とアスラも思っている。
「レコ。起こしてやれ」アスラが言う。「今日はアクセルおじさんが体術を教えてくれる日だからね。近接戦闘術とはまた違っているから、楽しめるはずだよ」
「はぁい」
レコがタタッと走ってサルメの部屋へと向かう。
「俺様も朝飯食っていいんだよな?」とアクセル。
「もちろんだとも。大英雄会議までの間、うちの連中に体術を教えるのが条件だがね」
団員の育成にプラスになるものは全て取り入れる方針だ。
団員たちが好きな席に座る。
長いテーブルにはすでに朝食が並んでいた。
執事のヘルムートとティナ、それからメルヴィとブリットで作ったものだ。総務部が増えてきたので、朝飯は完全に総務部任せになっている。
アスラはまずコーヒーを飲んだ。それから軽めの朝食に手を付ける。
「ねー団長」戻ったレコが言う。「サルメいないよ?」
「……逃走ですぅ」ブリットが言う。「毎晩、酷く叩かれるから、逃げたのですぅ……」
「サルメは逃げたりしないわよ」アイリスが言う。「お腹痛くてトイレから出れないとかでしょ?」
「でも書き置きあったよ」とレコ。
「ほう」とアスラ。
「サルメさん、逃げたんですか?」
メルヴィが心配そうに言った。
「いやいや。そりゃねーよ」とユルキ。
「そうだね。過酷な人生を送ってきたサルメが、あの程度で逃げ出すはずがない」アスラが言う。「確かにサルメは痛いの嫌いだけど、ちゃんと反省してたし、逃げる理由はないよ。何か別の理由があるんだろうね」
レコが手紙をアスラに渡す。
ちゃんと封筒に入っていたので、アスラはまず封を切って中身を出した。
便せんに目を通し、アスラは溜息を吐いた。
「まただよ諸君」
「何があったんだい?」ラウノが言う。「もしかしてルミアに続いてサルメも攫われたとか?」
「まさか」マルクスが言う。「そんな連続で攫われることは滅多にない。ないですよね、団長」
「サルメちゃんを攫うメリットって何かしらー?」
エルナは相変わらずゆるーい感じで言った。
「言いたくないが、正解だよラウノ」アスラがうんざりした風に言う。「ちなみに身代金を要求されている」
「マジかー」ユルキが苦笑い。「《月花》の見習いを堂々と拠点から拉致かー。度胸だけは半端ねーな」
「……技術も、プロ……」イーナが言う。「あたしら、基本、夜はぐっすりだけど……誰も気付かなかった……」
「それで幾ら払えと言われてますの?」とティナ。
「50万ドーラだそうだよ」アスラが肩を竦めた。「まさかの金額だね。私の拉致より高額ってゆーね。ちょっとイラッとするね」
アスラは20万ドーラで拉致されたことがある。実行したのは傭兵団《焔》で、依頼したのはノエミだ。
「団長のは依頼料ですから」マルクスが言う。「身代金とはまた別でしょう」
「それで?」ラウノが言う。「拉致した奴は誰が殺しに行くのかな?」
「私に1人で来いと書いてあるね。もしかしたら目的は私の方なのかも?」
「……それなら、団長拉致した方が、早い……」
「アスラ拉致んのは難しいんじゃネェか?」アクセルが話に入った。「酔ってりゃ別だが」
アスラは酒に弱い。酔っている時なら割と普通に拉致可能だ。前回もそれで拉致された。
「ま、1ドーラ持ってまたサルメを買ってくるよ。誰か一緒に行く人?」
「俺様が行ってやるぜ」
「いや、君はうちの連中に体術を教える役目がある」
「じゃあ、あたしが行くわ」アイリスが言う。「いきなりは殺さず、まずは出頭させる方向で話してよね?」
「サルメを傷つけていてもかね?」
「う……それは、ちょっとぐらいなら殴ってもいいけど」アイリスが言う。「最終的には、法で裁くべき……ってどこの国にいるの? 《月花》の敷地内なら法なんてないじゃないの!」
「リヨルールで待つそうだよ。時刻は正午だね。場所は劇場。割と大雑把な地図が添えてあるけど、たぶん大丈夫だろう」
「リヨルールなら法があるわね!」とアイリス。
「アイリスだけじゃ心許ないから、もう1人来てもらおう」
「なんでよ!?」アイリスが驚いて言う。「あたし英雄よ!? 心許ないって言った!?」
「僕が行くよ。相手も1人とは限らないし、アイリスだけだとちょっとね」
ラウノが手を上げて、アスラが「よろしい」と頷いた。
「では、我々は食事後、アクセルと訓練に入ります」マルクスが言う。「団長とラウノは訓練には参加せず、色々なパターンを想定しておくのがいいでしょう」
「あたしは!? ねぇマルクスあたしは!?」
「君もじゃあ一緒に考えようか」
アスラが笑いながら言った。
◇
「あの、今はまずいんです。本当に今はちょっと勘弁してください。お仕置きが嫌で逃げたと思われるので、帰らせてください。後日改めて拉致されるので」
サルメは言いながら、周囲を確認した。
まずサルメは頑丈なロープで縛られている。両足首と、両手首。
場所は劇場で、サルメは舞台の上に座っている。
観客席の最前列に、3人座っている。顔と体型を隠しているので、動くか喋るかしてもらわないと性別すら不明だ。
ちなみに、サルメは昨夜拉致されてからずっと麻袋に詰め込まれていた。
「服を着替えたいです。漏らしちゃったので気持ち悪いです。トイレにも行かせてくれませんでしたし」
サルメの話を、3人が聞いているのかどうかは分からない。無反応だ。
気持ち悪い人たちですね、とサルメは思った。
「本当、お願いですから今度にしてください。もしくは、せめて団長さんたちに私が拉致されたことを伝えてください。逃げたと思われるの本当に嫌なんです」
しかし3人は応えない。
ここまで徹底した沈黙はプロですね、とサルメは判断した。
「みなさん、どういう人たちですか? あ、私はサルメです。サルメ・ティッカ。14歳です」
誘拐犯には自分のことを話すのがいい。
物ではなく人間なのだと認識させるためだ。要するに、酷い目に遭わないため。もしくは殺されないため。
まぁ、相手の目的によっては何の意味もないけれど。
「出身はアーニアの城下町です。知ってますか? お茶が有名な国です。お茶と言えば、喉が渇きました。死んでしまいます。水をください」
「うるさい」と3人の1人が言った。
男だ。年齢は30代。声に聞き覚えはない。知らない人間だ。
「水をやるから少し黙れ」
30代の男が立ち上がり、舞台に上がる。
そして皮革水筒をサルメの口に近づけた。
サルメはゴクゴクと水を飲んだ。喉が渇いていたので、正直ありがたい。
飲み終わると、男はすぐに観客席に戻った。
「あの、手を解いてもらえませんか? しんどいです」
サルメはうつ伏せの状態になった。
座っていると尻が痛くて敵わないのだ。
「よく喋る人質だ……」
別の者が喋った。男。20代半ば。もっと若いかも?
あとは真ん中に座っている背の低い人物だけだ。
たぶん、この背の低い人物がボス。少なくとも、サルメはそう見ている。
「それで団長さんに私が拉致されたことは伝えてもらえますか? というか、私を拉致する理由がまったく分かりません。恨みを買った覚えもありませんし」
「アスラ・リョナには身代金を持って来いと書き置きを残している」30代の男が言った。「だからもう黙れ」
「黙らなかったらどうするんです?」
サルメがそう言うと、背の低い人物が立ち上がり、軽やかに舞台の上へ移動。
それからサルメの顔面を蹴っ飛ばした。
合わせて受けたが、痛いものは痛い。サルメは涙目になった。
これ以上話をするのは危険だと思ったので、サルメは沈黙した。
背の低い人物はスッと観客席に戻る。
それからしばらく無言の時間が続く。サルメは色々なことを考えた。例えば、魔王弓について。
アスラが使ってみて、それからエルナに渡すという話だった。
それから、素手で触ったのは本当に失敗だったなぁ、と。2度と不用意な真似はしないと心に決める。
あとは、今日もお仕置きされるんだなぁ、とか。痛みが累積しているので、今日は3回ぐらいで気絶しそうである。
ふと、サルメが思考の海から浮上して3人を見ると、背の低い人物が消えていた。
まったく移動に気付かなかった。
隠密スキル、レベル高いですね。本当、この人たち誰ですか?
30代の男が舞台に上がり、舞台袖へ。
そしてすぐに、背もたれのある一般的な椅子を持ってサルメの横へ移動。
「これに座れ、もうすぐショータイムだ」
男は椅子を置いて、それからサルメを抱き上げ、椅子に座らせる。
「いっ!」
割と乱暴に座らされたので、サルメは尻が痛んで顔を歪めた。
30代の男はサルメの背後へと回った。
20代の男が立ち上がり、客用の入り口の方を見た。
「やっほー!!」アスラの声が劇場に響く。「音響最高じゃないかここ!! アスラ・リョナが、来ーたーよー!!」
「アイリスもいるわよ!」アイリスが言う。「わぁ! 声が響いて楽しい!」
「1人で来いと言ったはずだが?」
20代の男が言った。
「ごめーん! 読んでなかった!」
えへへ、とアスラが笑った。
「ふざけるな! 人質がどうなってもいいのか?」
「あは! その件について交渉しよう。そっちに行くよ?」
「お前だけだ。アイリスはそこにいろ。ゆっくりだぞ」
「はいはい。警戒しなくても何もしないよ、今はね」
アスラは軽やかな足取りで段になっている客席を下る。
アスラは途中で軽くスキップした。
あ、これ私がどうなっても絶対殺すパターンですね、とサルメは思った。