売れ残りの隣人
雨が降っている。
薄暗い店内で、少女は素足を片足だけ抱えて、椅子の上に収まっていた。
白を基調としたドレススカートと少女の持つ長く白い頭髪が、椅子から水が流れるように床へと延びる。その中で、美しい太ももがはしたなく露わになっていた。少女はまるでビスクドールのように繊細な美しさを持ち、眼には宝石のような淡いオレンジが、消え入りそうなほど儚く佇む。その光景は空想に近い。
しかし、顔についた表情はうんざりしていて、口もへの字だ。少女の視線の先には、清潔感のある四十代程の大男の背中が動いていた。
「ウェル。もう少し愛想をよくしておかないと、誰もお前を買わないぞ」
「いいのよ。私はどうせ売れ残りなの」
店内の掃除をしつつ語り掛けてくるオスカーに対して、ウェルは素っ気なく返す。そして、誰かが視線をくれたわけでもないのに、そっぽを向いた。
ウェルは人間ではなかった。純粋な生物ではない、元々は人ならざるモノが人の形を持った、通称擬人である。
その中でもとりわけ特別な性質をもった、花の擬人であった。
原理は解明されていないし、いつから存在するのかもわかっていない。ただ、彼らの大部分に共通している性質は、あくまで誰かのモノであることだった。常に、所有者を欲している。動物の擬人にはそうでない者もいるが、例えハンカチの擬人だろうが、観葉植物の擬人だろうが、基本的には所有者を探していた。
だから、オスカーのような『雑貨屋』は少なくない。もっとも、大抵の場合は雑貨を売りつつ、希少な商品として擬人を置いておく、というくらいだ。それなりに世話も必要なため、大人数を置くことはできない。
『雑貨屋』はしばしば議論の対象になった。問題視される声も多い。が、実際に何かが起きたようなことは少ない。擬人が持つ、選別の意識と付喪返りと呼ばれる現象が、彼らの権利を守っていたからである。
選別とはそのまま、擬人が買い手を選ぶことである。ウェルも何度か買われかけたのだが、その際にウェルは「貴方は私にはふさわしくない」ときっぱり言い切って、貰われようとはしなかった。こういうことは稀ではない。気難しい性質の擬人は、当たり前のように買い手を拒否することがある。
もう一つの付喪返りというのは、擬人が原型に戻ることをいう。彼ら曰く、戻ろうと思えばいつでも戻ることができるが、その後のことはよくわからないらしい。人型としての自殺のようなモノであるとされている。
彼らは人よりも長く生きたりする。
だから、それに疲れてしまったり、酷い目にあったりすると、原型に戻ってしまうのだ。人間が瞬きする間に。
「本当に? ダリアたちが相方見つけて、店を出ていくのを見てる時。ひどい顔してたぞ」
ダリアとは、この店にいた擬人の子である。つい先ほど、雨宿りに来た若い男を気に入り、気に入られ、巣立っていった。それで、ウェルは最後の一人になったのだ。多くが半年ほどで出ていく中、ウェルは既に一年もオスカーの店に残っている。
オスカーの店には、小物のほかに擬人が大抵三人は常駐していた。『雑貨屋』は孤児院のようなモノでもあり、認められた店にお役所が見つけた擬人を送ることで成り立っている。オスカーはウェルに「買われない」と言ったが、擬人には値段がない。ただ、客が擬人に気に入られ、引き取ることになった時、そのほとんどはこれまでの世話賃としていくらかの金を支払う習慣があった。これは絶対ではないし、店主の趣向にもよる。擬人がしつこく客についていきたいと乞うなら、逆に金を払うケースさえあるのだ。
『雑貨屋』は擬人を売っているわけではなく、あくまで擬人と主の顔合わせの場としての認識が一般的となっている。
「せ、清々したの! あの子たち、いっつもびくびくこっちを見てくるんだもの! それに、あんな人達を選ぶようじゃ見る目が――いったい!」
椅子の上でぴーぴーとうるさいウェルの頭に、拳骨が落ちる。
「何するの!」
「プライドが高いのは悪いことじゃない。でも悪口は駄目だ。そんで、本心じゃない悪口はもっと駄目だ」
厳しい声だった。
ウェルは頭を押さえて涙目で頬を膨らませる。
「もっと他人に優しくなったらどうだ。いつも一人で、世話するこっちも大変なんだぞ」
「貴方に世話された覚えはないわ」
「一番手間かかってんだが」
「嘘」
「ほんとだ」
ぐぬぬ、という声が聞こえてきそうなくらい、見事な悔しい顔。ウェルはもう一方の足も椅子の上にあげ、膝の上に組んだ腕に、顔を半分ほど埋める。
「オスカーは皆に優しいのに、私には少し厳しい」
「……優しくしてるつもりなんだがな」
「少しだけ」
「少しだけか」
「うん」
小さいが、素直な返事だった。
掃除前より片付いてすっきりした棚を眺めて、オスカーは満足する。
今までに何人かの擬人を育てたが、花の擬人は買われたダリアと、残ったウェルだけだ。それはおそらく、役所ないし委員会がオスカーの運を買ってのことだった。しかし、今回は期待に沿えそうにない。
「ねぇオスカー、貴方はまだ待てる?」
夜の闇に怯える幼子のような声は、小さな雨音に押しつぶされそうだった。
売れ残る擬人というのは、一定数いる。選別の意識が強く、中々自分にあうと思える所有者を見つけられない。そうして、数年から数十年、下手すると数百年は店に並び、結局付喪返りしてしまうこともある。上からの支給金もあるため、金銭的に困ることはない。しかし、他の擬人たちと、驚くほどかみ合わないことが多いのだ。
選別の意識が強いということは、思慮深く、失敗を恐れている証拠でもある。だが、本来の擬人はもっと気ままなモノだ。合わないと思ったら自分で簡単に消えることができる、ということが大きいのか、ほとんどの擬人はあっさりと所有者を決める。つまり、売れ残る擬人は、変に生真面目である、というのが最も的確な表現だろう。悪い子ではないが、なじめない。そういう子が多かった。
そういう擬人は、多くの店をたらいまわしにされるケースが多い。
「待つぞ」
オスカーはウェルの眼をしっかりとらえると、雨音よりも大きな声で、ハッキリと言った。言われたウェルが目をそらしてしまう程に。
ウェルが売れ残っている理由は、選別の意識の強さとは違う気がしたのだ。いわゆるなじめない子とは違った印象。どこか、自分から壁を張っている感覚。
擬人も、人である。ウェルの売れ残りにはきっと解決できる理由があった。
「いくらでも待ってやるから、何かあるなら話してくれ」
何度目かの交渉だった。
だが、ウェルの反応は良くない。
それでも良かった。いつか話してくれれば、語り掛けた時にたまたま話す気なったら、それでいい。オスカーはウェルにそう言っていた。
しかし、いつかは今訪れる。
「…………私ね、何年も前に、もう見つけたの。イイヒト」
顔を完全に埋め、くぐもった声を漏らす。オスカーは手を拭き、そこら辺の椅子を取り出して、ウェルの前に座った。
「どうして、その人についていかなかったんだ?」
素朴な疑問が漏れる。
「……隣の花の子も、同じヒトを気に入った」
そこまで言うと、ウェルは黙った。オスカーは腕を組んで、大きく唸る。ウェルの言葉で、大体の事情を把握できたのだ。
花の擬人は特別な性質を持っている。
正しくは、擬人はそれぞれ固有の性質を持っている。その中で、最も顕著なモノが花の性質だった。
花の擬人は所有者候補に恋をするのだ。そして、お互いが惹かれ合い、所有者が決まると目に見えて美しく、可愛らしく、凛々しくなる。元の性格に引っ張られて成長するのだ。まだ所有者を持たない花の擬人は蕾と呼ばれ、所有者を持った花の擬人は花と呼ぶのは、恋を知って開花するというこの性質から来ていた。
擬人というのは、そのほとんどが美男美女であり、十代から二十代の見た目をしていることが多い。その中でも花は特別美しくある場合が多く、それにさらに磨きがかかる。
彼らの恋は人間のいう一目惚れに近い感情で、曖昧で大胆。初恋のようなモノだ。故に、花の擬人は初恋しか知らない無垢な存在、とも言われる。
「店に入ってきた時、すぐにピンときたわ。あぁ、このヒトなんだなって。私たちはほとんど同時にそのヒトに声をかけたわ」
擬人が同じ人物を選ぶケースは珍しくない。ただ、花同士で同じ人物を選ぶことは、極めて厄介である。花の擬人は独占欲が強く、また、どちらも所有者の最後の女になりたがる。壮絶な取り合いになることは勿論、敗れた方は付喪返りしてしまうのだ。
ウェルは昨日のように思い出す。
五感を得てから、色々な場所を行き、人に出会い、自分の中の形容しがたい性質を説明され、ただそのヒトを待つに至った。仲間とまだ見ぬヒトの話題で盛り上がり、色々な空想をしている最中だ。その日は突然に訪れた。全身が敏感になって身震いがした。鼓動が早まる音と、上がる体温が、気持ちを急かす感覚が蘇るようだった。
だが、その後のことを思い出して、酷く冷めた。
「あの時の私は戸惑うばっかりで、全然何もできなかったの。せっかく店主が良くしてくれて、そのヒトに二つの恋を伝えてくれたし、そのヒトに何度か店に足を運んで、コミュニケーションをとってから選ぶように働きかけてくれたわ。でも、強気にスキンシップすることも、甘い声で誘惑することも、できなかった。ただ、目を泳がせて、言葉の欠片を投げるだけ。喉にたくさんの言葉を詰まらせて、ね」
一つ、オスカーには納得したことがあった。ウェルが店にやってきた時は、今よりも髪の艶も良く、肌はほんのり赤みを帯び、雰囲気的な美しさも一段階上だったのだ。それが、一週間ほどで今の状態に落ち着いた。開花しかけていたのが、蕾に戻ってしまったのだろう。そのようなことがあり得るのかは、わからないが、そうとしか説明がつかなかった。
なんにせよ、他の擬人をやけに威圧していた理由は、これではっきりした。
「選ばれなかったのか」
「えぇ、当然。そのヒトは全く迷わず、隣の子を買っていったわ」
さらっと、その事実は述べられる。ウェルの顔には自嘲の笑みはない。過去の事実、として受け入れているのは明白だった。年月が事実を曖昧にしてくれたのだろう。
だが、問題は解決していないようだった。それもそのはず、時間の経過は感覚を曖昧にしてくれるだけで、無慈悲にも解決はしてくれない。
「でも、お前はまだ人型のままだ。なんでだ?」
「……買われていった子がね。とっても、嬉しそうだったのよ。店の前でぼろぼろ泣いちゃって、それでも笑ってた。……私もいつか、なんて、夢を見ているのかも」
選んだ相手に拒否された擬人は、付喪返りを起こしてしまう。オスカー自身、人型として残っている例は聞いたことがあっても、詳しくは知らなかった。噂で聞いた、『所有者を見つける感覚が、ノイズが走るようにかき乱され、形成された自我が耐えられずに原型に戻ってしまう』という話を思い出すも、何も言えない。
ウェルがまだ自分の感覚とズレた感覚との違いで苦しんでいるのか、それとも、既にズレを克服しているのか、オスカーには知る由もない。
もしも後者ならば、いつかまた、と願うばかりだ。
「……そうか。それじゃあ、俺は本当に待ってやるくらいしかできないな」
「そうね。これは私の我儘だから」
ウェルは笑う。落ちる寸前の線香花火のような笑顔で。
高貴な佇まいの少女は、その名にふさわしく打たれ弱い。
オスカーは余計な助言をしかけて、止めた。
この店はそんなに人の出入りが多いわけではない、ならば、それなりの場所に行く方が出会いの回数は多い。しかし、先ほど待ってやると言ったばかりだったし、きっとこの店の薄暗さは、ウェルが微かな光を持つにはちょうどいい場所だったのだ。
「お前が奥手だったとは、正直意外だな。普段からじゃガンガン行きそうに見えるし、人は見かけによらないもんだ」
「表面的な態度なんて、何かがあれば変わるモノでしょ。オスカーだってそういう経験あるんじゃないの? 少なくとも私の何倍かは生きてるんだから」
「そうだな、昔は今のお前みたいだったぞ。人と関わらなかったし、一人で生きていけるって突っ張って、色んな職場を転々としたな」
「……本当に?」
目を丸くしてウェルは聞き返した。
慣れた様子で初対面の客とも話し、擬人たちにも良く目配りをしている普段のオスカーからは、全く想像できなかったのだ。
「まぁな。詳しい話は今度してやろう。その時、誰かといると初めて季節が巡るんだなって思ったこともな。感動を分かち合えるってのはいいことだ。そんで、気づかせてくれる隣人はやっぱ大事だ」
オスカーの台詞は、今のウェルにとって破格に魅力的なモノだった。自身の探しているモノを、この男は知っている。しかし、気になることがあった。オスカーの言う隣人とは誰なのか、そして、その人物はどこに行ったのかということだ。
「そういうなら、私がそんなヒトを見つけられるまで、世話してね?」
訊きはせず、冗談めいた台詞を発して、唇をきゅっと結ぶ。
今度詳しく、と言っているのだ。強く扉を叩く必要はない。
「言われなくてもそのつもりだ」
視線が二人を結んでいた。
「絶対よ?」
「神に誓って、嘘だったら死んでもいい」
大真面目なオスカーの顔は、茶化すように作られた真顔だった。それで、ウェルはおかしくなって、薄く笑う。
「大袈裟」
ウェルが椅子から降りると、何層にもなるドレススカートが滝のように足の後を追いかけた。腰に手を当て、前に降りた髪を見とれるほど美しく完結した動作で後ろへと払う。
自信に満ち溢れた顔が、如何にも子供らしい。
「それじゃあ、宜しくね」
女王が召使いに命令するようにして、店の奥へと去っていく。
ぺたぺたと鳴らしていたはずの足は、いつの間にかその先をハイヒールに隠し、綺麗に磨かれた床をコツコツと歌わせていた。
◇
――数十年後。
ベッドの上で男が寝ていた。
男はもう七十程の歳で、暫く寝たきりだった。動くときは車椅子に乗っていたが、ここ数年はそれすら難しい。約束さえなければ、さっさと死んでしまいたい程に、男は衰弱していた。
それでも粘ったのだ。可能な限り生きたのだ。だが、もう無理らしい。
死の直感とは恐ろしく確信的なモノだった。
死神が見えるだとか、故人の声が聞こえるだとか、そんなモノではない。ただ静かで、暗く、闇の中で自分というモノが曖昧になる。そして、悟るのだ。もうそろそろ、自分は闇に溶けてしまうのだと。
似たような感覚は今までにいくらかあった。だが、悩みようもない程、仕方ないとしか表現できない程、理不尽で明確な感覚を前に、確信した。
男は、最後に言わねばなるまいと声を絞る。
「……いるか?」
掠れた声は、ベッドの隣に座っていた美しい女に向けられたモノだった。
「いますよ」
女は返事をして、男の手を握ってやる。
気品に溢れた、大人の声だ。その落ち着きぶりは、どこかの貴族のようだった。
「悪いが、今日、死ぬ」
一切誤魔化さず、男は伝えた。
女は息をのんで、先ほどより強く、男の手を握る。
「そうですか」
震える声がして、男は少しだけ嬉しくなった。それと同時に、自分の不甲斐なさを悔い、女に謝らねばなるまいと思った。
「……約束、守れなかったな」
「仕方ないですよ。だって、寿命なんだもの」
「俺が、病気で目を悪くして……もう二十年以上か。表には出たが、店の掃除も作業も、任せっぱなしだな」
「あら、お礼ですか?」
「あぁ、有り難う。それしか言えんがな」
「十分ですよ」
女は苦笑した。微かに笑った声が届いて、男も満足げだ。
それからは昔話に花が咲く。そうして会話をしているうちに、男は耳に違和感を覚えた。死を前にして遂におかしくなってしまったのかと笑う。
「お前、そんなに大人びた声だったか?」
「…………えぇ」
やけに遅い返事に、男は変だなと思って瞼起こしたが、映る景色は酷くぼやけた部屋と白い女で、細かい表情を見て伺うことも今は叶わない。
「お前が咲いた姿は、ちょっと見てみたかったがな」
「……そうですね」
女は続きそうな言葉を飲み込んだ。しかし、そんな様子もわからない男は会話を続ける。
「もう待てないんだ。許してくれ」
「いいの。私は……貴方といれて、貴方の最後の女になれて、幸せでした」
女の台詞に、男は大きく口を横に伸ばして笑った。
今までに比べ、妙にはっきりとした声だった。
「そりゃよかった」
男は目を閉じると、それっきり喋らなくなった。
握っていた男の手が、次第に緩んでいくのを感じる。女は男に覆いかぶさるようにして、強く抱きしめた。
そして、最後の一言だけ口にする。
――私は、貴方にふさわしくなれたかしら。
言葉が響いて、空間に溶ける頃には、女の姿は消えて失せる。
男の枕元には、白い薔薇が花開いていた。