2-2 白亜の麗仙
邸内は思った以上に広かった。
聖都の城壁内でありながら、その有する庭園の広さはかなりのもので、
騎士団領ヴァロの兄ケイオスの住むギルドの実に四倍近くありそうだ。
庭を抜けて屋敷にたどり着くまでに結構な距離がある。
「ヴァロ、何があっても絶対に剣は抜かないで」
フィアの声には先ほどまでとは違う緊張があった。
「ここはこの結界の基点の一つでもあり、ここの聖堂回境師の住処。
この邸内で武器を使うことは相手も魔法を使ってもいいという口実を与えるもの。
『狩人』だとしても手にかけることにためらいはない」
ヴァロはその言葉に生唾を飲み込む。
この一年、フィアとヴィヴィに接する機会が多くなり、久しく忘れていたが、
彼女たちの論理はヴァロたちのそれとはまた違うのだ。
邸内に人影はない。
聖都コーレス有数の大通りに近いはずなのだが聞こえるのは、小鳥のさえずりと噴水の水の音だけだ。
前方に見える時計台と、それを囲うようにそびえたつ尖塔がここが聖都であるということを教えてくれる。
ヴァロとフィアは目の前にある大きな屋敷の前までやってきた。
おそらくここがニルヴァという魔女の住処なのだろう。
ヴァロが息を吸い込み覚悟を決め、一歩を踏み出すと屋敷の扉がひとりでに開く。
もちろんあたりに人の気配などあるわけがない。
「入って来いって」
フィアは当然のようにヴァロの前を歩いていく。普通の人間ならば卒倒しかねない。
ヴァロは意を決して一歩を踏み出した。
「なっ」
屋敷の中に足を踏み入れた瞬間周囲が闇に覆われる。
思わず剣に手をかけるが、フィアの言葉を思い出し抜剣を思いとどまる。
そして、混乱しかける頭をどうにかして鎮めようとヴァロは試みた。
フィアに語りかけるも反応は返ってこない。
五感を奪われた?
魔法耐性のある自身に魔法は効きにくいはずだ。
ならば周囲を何らかの魔法で囲われ、感覚を遮断されたと考えたほうが正しい。
抜剣するのはいいが、この状況で相手に攻撃の口実を与えるのはまずい。
フィアと同じ聖堂回境師とはいえ、相手は魔女。
さてどうしたものかとヴァロはその場に立ち尽くした。
カツン
乾いた音が周囲に響くと、周囲の闇にヒビがはいったように亀裂が入り、
闇はガラスを割ったように崩れ去った。
ヴァロの脇にはさきほどと同じようにフィアが立っている。
違うのは右手に杖を持っていることだ。
それはフィアの唯一の武器であり、彼女に残された親の遺産であり、彼女の魂とともにある唯一彼女だけが使えるモノ。
それを出したということはフィアもまたかなり警戒しているということだろう。
「初めまして、フゲンガルデンより招待を受けた聖堂回境師フィアといいます」
フィアは聖堂回境師の部分を語調を強めた。おそらくは意識的に強めたのだろう。
表情には出さないものの、彼女の言い回しには微妙に険があった。
普段のフィアを知るヴァロには想像もつかない。これも聖堂回境師というフィアの一面なのだろう。
フィアの視線の先、階段の上には一人の女性が妖艶な笑みを浮かべながら立っていた。
「その結界は、わたくしの弟子の一人が侵入者対策に屋敷中に張っていたものですわ。
うちの弟子たちは式典の準備で出払っていましてね。
ついついうっかりと守護を切り忘れてしまったとういうわけですわ」
「暗黒魔術…面白い体験ができました。ただ聖堂回境師ともあろうものが住処に張った術を忘れるなど、
ここ聖都全体を管理している者としてはありえないのではありませんか?」
フィアの声のトーンはいつもと変わらなかったが、凍えるような目でニルヴァを見据えていた。
「聖堂回境師ならばあのぐらい切り抜けることなど造作もないこと」
「そうですね、聖堂回境師ならばあの程度の術解くのは手間にもならない。
ただ次は私一人の時にしてほしいものです」
「フフフ…話は聞いてますわ。
その歳で聖堂回境師を名乗るのを許されたのは異例中の異例。
どこの結社でもあなたの話題で持ちきりですわよ。
最近現れた得体のしれない小娘が、大魔女様にうまく取り入って聖堂回境師になったと」
フィアは嘆息し、言葉を続ける。
「すべてはラフェミナ様の決めたこと。
それに不服とあれば直接ラフェミナ様に直接申し出るのが筋だと思いますが?」
フィアの態度はヴァロから見ても、堂々としたものだった。
「ただ私自身を試したいというのであれば、私もラフェミナ様の顔に泥を塗るわけにはいきません。
全力であなたと対峙させていただきましょう」
フィアは杖を振りかざし、ニルヴァに向き合う。
しばらく二人は無言で向き合った。ヴァロはハラハラしながら事の成り行きを見守っていた。
不意にニルヴァが表情を崩し、にこりと微笑む。
「ごめんなさい、あなたが噂通りなのか確かめたかっただけですわ。
どうやらラフェミナ様の戯れといったわけでもなさそうで安心しました。
若く実績のない身の上で、聖堂回境師という重責を担ったあなたを嫉妬する輩も数多くいます。
そのことだけは肝に銘じておきなさい」
「御忠告ありがとうございます。自身の未熟さは誰よりもこの私が理解しているつもりです。
そのことを常に忘れず日々精進していく所存です」
フィアは杖をしまって、一礼して見せた。
「初めましてわたくし、この聖都コーレスを管理する聖堂回境師ニルヴァ=アルゼルナと申します。
以後お見知りおきを」
恭しくニルヴァはスカートを持ち上げ一礼して見せた。
純白のドレスを身にまとい、銀細工を思わせる銀色の髪は結われて上にあげられている。
ドレスの合間から見える白い素肌は陶器を思わせ、その身に纏う純白のドレスは彼女の美しさを際立たせるものであった。
異様なまでに整った顔立ちをしているが、それゆえに魔女ということを意識せざるにいられない。
口元を隠すように羽のついた扇を当てているも、瞳の奥には強い意志を宿した金色の光が見られる。
ヴァロは視線を釘づけにする。
正装したヴィヴィは圧倒的な美だったが、目の前の魔女は豪華ともいえる美だ。
ヴァロが呆けたように見とれていると、フィアが横から肘で小突いてきた。
ニルヴァはゆっくりと二人の前に歩いてくると、
ヴァロの姿を足の先から頭のてっぺんまでなめまわすように見る。
ヴァロは居心地が悪くなり目を背けた。
「あなたが『竜殺し』…思ったよりも普通の殿方なのですわね。
わたくし、もう少しいかつい殿方を想像しておりましたわ」
「はあ…」
褒められたのかどうかわからずにヴァロは曖昧な返事をした。
『竜殺し』は一年前に死飢竜を倒したことにより、勝手に使われることになった二つ名だ。
自身だけで倒したわけではないので呼ばれるのには若干の抵抗がある。
「こんなところで立ち話もなんですわね」
ニルヴァがぱちんと指を鳴らすと白い影のようなものが現れ、人の姿を形作る。
「お呼びですか?」
その白い影はまるで人間のように会釈をした。
ひとつだけ違うことはその者には色がないところであろう。
「接客の間に、お茶の用意を」
「かしこまりました」
そういってその白い影はその場から去っていった。
「驚いたみたいですわね。この内では私は魔法が使えますのよ?
不完全なフゲンガルデンの結界のように術者までが結界の対象ではありません」
彼女が指を鳴らすとヴァロたちのいる部屋が白い影で埋められる。
子供のような姿をしたもの、小太りした兵士のような体型のもの。はては老人の形をしたものまである。
それぞれに個体差はあるが、人間のようなシルエットをしていた。
ヴァロはあまりに突然の出来事に目を見丸くして見入る。
「勘違いしないで欲しいですわね。こんなものは一部でしかないですわ。
私がその気になればこの屋敷中を埋め尽くすことも可能ですわよ」
「…これが『白の軍勢』。現代傀儡魔法の到達点の一つ」
冷静な声とは対照的に、フィアは目を見開きその光景を食い入る様に見入っていた。
コーレスに来た時と同じように目を輝かせているのがわかる。
「いい目ですわね。いいですわ。ついてきなさい。お茶の前に面白いものみせてあげますわ」
ニルヴァが指を鳴らすとその白い影は幻のように消え去る。
彼女は反転するとヴァロたちの前を歩き始めた。
「ここが『星見の部屋』。結界の調律を行う場所」
ニルヴァが案内したその部屋は、屋敷の最上階にあった。
ニルヴァの手の上に光の玉のようなものが現れ、部屋中を照らす。
家具、壁紙はおろか窓すらない。昼間だというのに光さえその場所にはない。
一面が白い壁で覆われていた。
「ごらんなさい。これが結界の式ですわ」
彼女が手をかざすと、ヴァロたちを囲むかのように魔法式が展開していく。
それはまさに緻密な式が部屋中に重なるように現れていく。
光の式が展開していくさまは荘厳ですらあった。
気が付くとヴァロたちの周囲は式で埋められていた。
時を刻む針のように、一つ一つが正確に時を刻み続けている。
「ヴァロは結界式に絶対に触れないで」
フィアが必死の形相で叫ぶ。
「あ、ああ」
魔法抵抗力の高いヴァロはその抵抗力の高さを使って式の解体を行ったことがある。
ヴァロの能力ならば魔法式を触れるだけで壊すことができる。
「賢明ですわ。ですけれど、万が一のために予備の式は三重にとってありますわよ。
もし結界に何かあっても、時計台と尖塔が破損した箇所を上書きするシステムになりますわ」
「そんなことが」
「驚くべきことはないのではなくて?まあ、騎士団領の結界は幾重にも重ねられた強固な絶縁結界。
破壊されることがまずありませんものね」
「いえ、勉強になります。私は聖堂回境師になって日も浅く、フゲンガルデンの結界だけしか知らないもので。
そんな複雑な式を管理できるニルヴァさんはすごいですね」
フィアはいたく感心したようだ。
「私はただの結界の調律者。…私でもこの結界を一から組みあげることは難しいでしょう。
組み上げるにしても百年単位という膨大な時間が必要になりますわ」
「謙遜を…」
「謙遜ではありませんわ。それをわずか三年で組み上げた不世出の大天才。
魔女の名はサフェリナ。わたくしたち魔女の中でも大魔女と呼ばれる三人の一人」
魔女はどこか懐かしむように語りだした。
「お会いしたことははあるのですか?」
「ええ、過去に三度ほど。聖堂回境師に就任する前に一度とそのあとに二回。
他の誰よりも美しくて、気高く、慈悲深く、そして賢くあらせられた。
ラフェミナ様、カーナ様ですら彼女の緻密で繊細なこのような式を構成することは不可能でしょう。
これほどの魔女がいるのかと思わせられましたわ。
…あの方が亡くなってからもう十五年になりますのね…」
それを語るニルヴァはどこか寂しげだった。