6-1 それの始まり
カッカッカッ
静まり返った大理石の広間に、乾いた足音が響き渡る。
ヴァロとフィアは大広間の中心を慎重に歩いていた。
二人の先には一人の男。
その男、ウルヒは展示場の大広間の女神の彫刻を眺めるように立っていた。
ウルヒの右手には三冊の本を抱えられている。
「君は女神の伝説を知っているかい?」
ウルヒはこちらを振り返ることなく語りかける。
「ああ」
「第一の魔王が出現したとき、人類は見たこともない魔物や怪物の脅威にさらされた。
人類の支配域は急激に狭められ、多くの人間の命が失われた。
人々は女神のいうとおり、城壁を作り魔王と戦った。
それが聖都のはじまりとされる。この彫刻はその女神なのだそうだ」
ウルヒの視線の先にはその女神の像が自分たちを見下ろしている。
その無機質な表情は人ではない女神という言葉にふさわしいと感じる。
「偶像崇拝を元来禁止している教会の教義が時の経過により変化したというわけさ。
人が作り出したものである以上、どんなに神聖なものでも不変はありえないということなのだろうね。なら魔王はどうだ?」
魔王は有史以来人類の敵であり続けている。
「…魔王という存在は教会の存在意義そのものでもあるのさ。
魔王の脅威を忘れないようにするため、引いては教会の権力を維持するために、引き出されるプロパガンダ。
聖なる教会ともあろうものが困ったものだ。
魔王という存在が過去のものになりつつあるということは、同時に教会の求心力の低下を意味している。
六十年前に最後の魔王が出現して以来、魔王はこの大陸に現れていない。
それが教会を腐らせたのだよ」
ウルヒがこちらに振り返る。その表情にはいつもの笑みは無く鋭い刃を連想させられた。
ヴァロとフィアは思わずぞくりとさせられる。
「教会の地下深くに封印されたこの書の公開の話を各方面に持ちかけたとき、意外とあっさりいって拍子抜けしたよ。
断られた時のことを考えていくつか手段は用意していたというのにね。
これじゃ魔王のために教会があるのではなく、協会のために魔王がいるみたいじゃないか
魔王打倒を声高に叫ぶ教会自体がその存在に頼ろうとする。支離滅裂だろう?」
「…何か言いたい」
「思うに魔王とは神と同義であると俺は思うんだよ。神と魔王は表裏一体。
魔王は文献によればその存在は超越者。本来人間の存在など塵芥。
象相手に蟻が勝てると思うかい?
そんな超越者的な存在がどうして人間など矮小な存在に敗北したのか、君は不思議には思わなかったかい?
俺はそれを知りたかった」
「ウルヒさん、あんたはそのためにこんな…ことをしてきたというのか」
ヴァロの言葉にウルヒの表情にはなんの変化もみられない。
「昔話をしようか。物心ついたころには、俺は東の地で羊飼いをしていた。
肥沃というわけではなかったが、そこそこには恵まれた生活を送っていたんだ。
家族も友人も恋人もあり、その日常が永遠に続くと信じて疑わなかった。
そうその魔女の扮した芸人の一団がその地に現れるまでは。
奴らはすべてを蹂躙していった。村の大人たちは真っ先に殺され、子供は…特にひどいものだったよ。
選別された上に実験の材料に捕まえられた。生け捕りにされた子供の末路は凄惨なものだった。
おおよそは魔法の実験材料として使われ。必要がなくなれば廃棄された。
中には一晩かけて生きながら魔女の使い魔に咀嚼されたものもいる」
ウルヒはまるでそれを淡々と物語るように口にした。
ヴァロはかつて師から語られた一つの事件を思い出していた。
それははぐれ魔女の集団が行った凶行の一つ。
生存者がいなければ、ただの村人の失踪事件として片づけられたはずの出来事だ。
『真夜中の道化』
二百年前から数年おきに起きる村の失踪にその一団が関与している。その集団の目撃者はなく、発覚したのは最近。
二十年前に『狩人』があるはぐれ魔女の住処を襲った際に、一人の人間の生存者がいたことでそれは明るみになる。
その生存者は魔女から行われた行為を赤裸々に語る。
あまりに凄惨な事件のため関係者はそれを一部
現在『狩人』でも指定魔族討伐と同等か、もしくそれ以上の案件として取り扱われている。
「俺は例外的に魔女に愛玩動物として生きることを許された。
考えられるかい?数十年も両親や友人たちを殺された人間の下で働くことを。
想像できるかい?その屈辱が」
「年齢凍結魔法…」
フィアのその言葉にウルヒはにっこりと笑みを浮かべた。
フィアはそれを肯定ととらえた。
年齢凍結魔法は、魔力によって細胞の老化を遅らせる魔法の一つ。
それは魔法を使えるもの以外に使うことは許されてはいない。
使えば九割の人間が死ぬか、恐ろしい副作用にさらされるとされているためだ。
「…俺だけがどういうわけか生き残った」
だけ…というその言葉の重みにフィアはめまいを覚えた。
「…それが…その憎しみがあなたが狩人になった動機?」
「どうかな…初めは憎んでいたんだ。それが唯一の生きる糧だったのだから。
目の前で友人を見送り、恋人を異形にかえられてどうして憎まずにいられると思うかい?
何度も何度も笑いながら、焼かれるような苦痛を与えられて憎まずにいられるかい?
…ただその憎しみは、自分を弄っていた魔女を殺した時にどうでもよくなってしまったよ」
ウルヒは乾いた笑みを浮かべた。この男は復讐を遂げたのだ。
自身の両親と友人たちの命を奪った魔女に。
「信じられるかい?魔女を殺すためにそれに入りながらも、俺はまたその魔女の下で働くことになったのさ」
ウルヒの言葉はどこか自嘲気味だった。
「あなたの身の上には同情する。だからと言って他の人間を巻き込んでいいなんて道理はない」
「なら力ずくで何とかしてみるかい?あの時の魔女のように」
顔こそ笑っているが、フィアは凄みを感じ後ずさる。
ウルヒはにこりと微笑んで続ける。
「…君たちは良くも悪くも予想外の行動をしてくれる。
だからこそ俺も君らを観客にすることを選んだわけなんだけどね…」
カティが教会守護兵たちを率いてその場に駆けつける。
そこにはキールも含まれていた。相手は異端審問官。教会屈指の戦闘能力を持つ。
一対一で対峙しても捕らえられる見込みは少ない。
これでも捕らえられるとは限らない。
ヴァロは慎重に相手の隙を伺う。ウルヒの目の前にカティが進み出る。
「ウルヒ、子爵殺しをしたのはお前か?」
「ああ、そうだよ」
ウルヒは低くそう答えた。
「何故そんなことをしたんだ」
「彼は魔女への資金提供元の一人だ。排除されて当然だ」
「裁く方法ならばいくらでもあっただろう」
「見逃しておいたのは利用価値があったからさ。
実際、この世のどこかに流通している魔術書を見つけ出すのに役にたってもらったのは感謝してる」
ウルヒは脇に抱えた書を掲げて見せた。
「すでに知ってるとは思うが、この書はある魔法を暗号化し、保存しておくもの。
三冊あわせてはじめてこの式は完成する」
ウルヒの手の中に三冊の書があった。
「メルゴート掃滅戦に参加した際に、俺は一人の魔女に出会いこの三冊の本の存在を知った。
彼女たちも第四魔王の弟子の文献を調べていた際に偶然この本の存在を知ったと言っていた。
もっとも彼女たちは聖都の地下深くに封印された一冊と、今なお世界のどこかに流通する一冊を手に入れるよりも、
月蝕というフゲンガルデンの結界の孔をついたほうが幾分か簡単だと思ったのだろうね。
…まあ、結果は見ての通りだけど」
ウルヒの右手がぼんやりと光を放つ。
それはフィアたちが扱う魔力の光。まだ反応しないということは結界の許容範囲なのだろう。
もっともウルヒのことだ、その辺も理解して使っていると考えたほうがいいだろう。
「皮肉なもんだ。魔女に飼われていた時の力が役に立つときが来るなんてね」
目の前で魔法を使われ、周囲に居た教会守護兵がざわめく。
「あんた自分が何をしてるのかわかってるのか?」
ヴァロは揺らぐことなくウルヒに問いただす。
「ここにいるだれよりも分かっているつもりだよ」
「あんたの目的は?」
「答えを聞きたいそれだけだよ。直接本人からね」
ウルヒはそういうと三冊の書物を懐から取り出した。
ぼんやりと三冊の書が光を纏い、宙に浮く。
三つの書は空中で円を描くような軌跡を描いた。
「結界が…反応しない…?」
フィアが驚愕の声を発する。魔力に書の式が反応し、式が虚空に浮かびあがる。
それでも聖都の結界は反応すらしない。
排除の対象になるのは一定以上の魔力のみ、彼の扱う魔力では警鐘が鳴るだけで攻撃はされない。
そのことはフィアから聞いていた。フィアが魔法の式を編み始める。
「フィア、使うな」
フィアの魔法をヴァロが制止する。
この距離で彼を止められるのは任意の座標を決め、攻撃を行うフィアのみ。
しかしフィアの魔力では聖都の結界の攻撃対象となりかねない。
つまりこの聖都内で魔法を使うことは聖都から排斥される。
「賢明だ。なんなら君の鉄芯もためしてみるかい?」
ヴァロは手にかけていた鉄芯を放した。なるほど手の内は完全に読まれているらしい。
「俺にはあんたが何をしたいのかよくわからない」
「理解されようとは望んではいないよ。ただ最後に残しておきたかっただけさ」
ふっと彼は乾いた笑みを浮かべた。
「茶番はもういいですわ」
頭上からの声には冷気すら感じる。
背後から三人の従者を伴いニルヴァはその場にゆっくりと降り立つ。
凛とした態度で堂々と淀みない足音が展示場内に響き渡る。
場に似つかわしくない女性の登場により、教会守護兵の視線がそちらに惹きつけられる。
そこには純白のドレスを纏った聖堂回境師ニルヴァとその弟子らしき女性たちが歩いて現れた。
「飼い犬の始末はこちらでつけます。ウルヒ=ザイバング、あなたを殺人の容疑で拘束しますわ」
射抜くような眼差しで彼女はウルヒと対峙する。
並みの男ならばその迫力に蹴落とされているところだ。
ニルヴァが扇をかざすと、ウルヒの周囲に白い影による人垣が一瞬で現れる。
姿形には多少の誤差はあるが、各々さまざまな武器を携えている。
その数は広間の埋め尽くすほど。軽く見積もっても五百はいるだろう。
『白亜の兵団』というニルヴァが扱う傀儡魔法。
聖都を覆う大結界の中、彼女だけは例外的に魔法を使えるという。
あまりの展開の早さにヴァロは目を見張る。
ウルヒが凄腕の個だとしてもこの人数差は覆すことはできない。
「抵抗は許しません。観念しなさい。どんな魔法だろうと、その魔力量ではたかが知れます。
もっとも使用した瞬間に串刺しにされるでしょうけれど?」
「君たちは本当に何も変わらないね。だからこそ俺もこの選択ができる」
ウルヒはおかしそうに笑い、その式に魔力を流し込む。
結界が警戒音を上げるのと同時にニルヴァが扇を開く。
彼の周囲に展開していた白い影が、一斉に彼めがけてなだれ込む。
刃が届く直前、ウルヒはその場から忽然と姿を消した。
「空間転移…まさか…そんな…」
空間転移という予想を超えた事態にニルヴァを含めそこにいた魔女たちは驚きを隠せない。
事態はヴィヴィの思い描く最悪のシナリオをに向かいつつあった。
カッカッカッ
静まり返った大理石の広間に、乾いた足音が響き渡る。
ヴァロとフィアは大広間の中心を慎重に歩いていた。
二人の先には一人の男。
その男、ウルヒは展示場の大広間の女神の彫刻を眺めるように立っていた。
ウルヒの右手には三冊の本を抱えられている。
「君は女神の伝説を知っているかい?」
ウルヒはこちらを振り返ることなく語りかける。
「ああ」
「第一の魔王が出現したとき、人類は見たこともない魔物や怪物の脅威にさらされた。
人類の支配域は急激に狭められ、多くの人間の命が失われた。
人々は女神のいうとおり、城壁を作り魔王と戦った。
それが聖都のはじまりとされる。この彫刻はその女神なのだそうだ」
ウルヒの視線の先にはその女神の像が自分たちを見下ろしている。
その無機質な表情は人ではない女神という言葉にふさわしいと感じる。
「偶像崇拝を元来禁止している教会の教義が時の経過により変化したというわけさ。
人が作り出したものである以上、どんなに神聖なものでも不変はありえないということなのだろうね。なら魔王はどうだ?」
魔王は有史以来人類の敵であり続けている。
「…魔王という存在は教会の存在意義そのものでもあるのさ。
魔王の脅威を忘れないようにするため、引いては教会の権力を維持するために、引き出されるプロパガンダ。
聖なる教会ともあろうものが困ったものだ。
魔王という存在が過去のものになりつつあるということは、同時に教会の求心力の低下を意味している。
六十年前に最後の魔王が出現して以来、魔王はこの大陸に現れていない。
それが教会を腐らせたのだよ」
ウルヒがこちらに振り返る。その表情にはいつもの笑みは無く鋭い刃を連想させられた。
ヴァロとフィアは思わずぞくりとさせられる。
「教会の地下深くに封印されたこの書の公開の話を各方面に持ちかけたとき、意外とあっさりいって拍子抜けしたよ。
断られた時のことを考えていくつか手段は用意していたというのにね。
これじゃ魔王のために教会があるのではなく、協会のために魔王がいるみたいじゃないか
魔王打倒を声高に叫ぶ教会自体がその存在に頼ろうとする。支離滅裂だろう?」
「…何か言いたい」
「思うに魔王とは神と同義であると俺は思うんだよ。神と魔王は表裏一体。
魔王は文献によればその存在は超越者。本来人間の存在など塵芥。
象相手に蟻が勝てると思うかい?
そんな超越者的な存在がどうして人間など矮小な存在に敗北したのか、君は不思議には思わなかったかい?
俺はそれを知りたかった」
「ウルヒさん、あんたはそのためにこんな…ことをしてきたというのか」
ヴァロの言葉にウルヒの表情にはなんの変化もみられない。
「昔話をしようか。物心ついたころには、俺は東の地で羊飼いをしていた。
肥沃というわけではなかったが、そこそこには恵まれた生活を送っていたんだ。
家族も友人も恋人もあり、その日常が永遠に続くと信じて疑わなかった。
そうその魔女の扮した芸人の一団がその地に現れるまでは。
奴らはすべてを蹂躙していった。村の大人たちは真っ先に殺され、子供は…特にひどいものだったよ。
選別された上に実験の材料に捕まえられた。生け捕りにされた子供の末路は凄惨なものだった。
おおよそは魔法の実験材料として使われ。必要がなくなれば廃棄された。
中には一晩かけて生きながら魔女の使い魔に咀嚼されたものもいる」
ウルヒはまるでそれを淡々と物語るように口にした。
ヴァロはかつて師から語られた一つの事件を思い出していた。
それははぐれ魔女の集団が行った凶行の一つ。
生存者がいなければ、ただの村人の失踪事件として片づけられたはずの出来事だ。
『真夜中の道化』
二百年前から数年おきに起きる村の失踪にその一団が関与している。その集団の目撃者はなく、発覚したのは最近。
二十年前に『狩人』があるはぐれ魔女の住処を襲った際に、一人の人間の生存者がいたことでそれは明るみになる。
その生存者は魔女から行われた行為を赤裸々に語る。
あまりに凄惨な事件のため関係者はそれを一部
現在『狩人』でも指定魔族討伐と同等か、もしくそれ以上の案件として取り扱われている。
「俺は例外的に魔女に愛玩動物として生きることを許された。
考えられるかい?数十年も両親や友人たちを殺された人間の下で働くことを。
想像できるかい?その屈辱が」
「年齢凍結魔法…」
フィアのその言葉にウルヒはにっこりと笑みを浮かべた。
フィアはそれを肯定ととらえた。
年齢凍結魔法は、魔力によって細胞の老化を遅らせる魔法の一つ。
それは魔法を使えるもの以外に使うことは許されてはいない。
使えば九割の人間が死ぬか、恐ろしい副作用にさらされるとされているためだ。
「…俺だけがどういうわけか生き残った」
だけ…というその言葉の重みにフィアはめまいを覚えた。
「…それが…その憎しみがあなたが狩人になった動機?」
「どうかな…初めは憎んでいたんだ。それが唯一の生きる糧だったのだから。
目の前で友人を見送り、恋人を異形にかえられてどうして憎まずにいられると思うかい?
何度も何度も笑いながら、焼かれるような苦痛を与えられて憎まずにいられるかい?
…ただその憎しみは、自分を弄っていた魔女を殺した時にどうでもよくなってしまったよ」
ウルヒは乾いた笑みを浮かべた。この男は復讐を遂げたのだ。
自身の両親と友人たちの命を奪った魔女に。
「信じられるかい?魔女を殺すためにそれに入りながらも、俺はまたその魔女の下で働くことになったのさ」
ウルヒの言葉はどこか自嘲気味だった。
「あなたの身の上には同情する。だからと言って他の人間を巻き込んでいいなんて道理はない」
「なら力ずくで何とかしてみるかい?あの時の魔女のように」
顔こそ笑っているが、フィアは凄みを感じ後ずさる。
ウルヒはにこりと微笑んで続ける。
「…君たちは良くも悪くも予想外の行動をしてくれる。
だからこそ俺も君らを観客にすることを選んだわけなんだけどね…」
カティが教会守護兵たちを率いてその場に駆けつける。
そこにはキールも含まれていた。相手は異端審問官。教会屈指の戦闘能力を持つ。
一対一で対峙しても捕らえられる見込みは少ない。
これでも捕らえられるとは限らない。
ヴァロは慎重に相手の隙を伺う。ウルヒの目の前にカティが進み出る。
「ウルヒ、子爵殺しをしたのはお前か?」
「ああ、そうだよ」
ウルヒは低くそう答えた。
「何故そんなことをしたんだ」
「彼は魔女への資金提供元の一人だ。排除されて当然だ」
「裁く方法ならばいくらでもあっただろう」
「見逃しておいたのは利用価値があったからさ。
実際、この世のどこかに流通している魔術書を見つけ出すのに役にたってもらったのは感謝してる」
ウルヒは脇に抱えた書を掲げて見せた。
「すでに知ってるとは思うが、この書はある魔法を暗号化し、保存しておくもの。
三冊あわせてはじめてこの式は完成する」
ウルヒの手の中に三冊の書があった。
「メルゴート掃滅戦に参加した際に、俺は一人の魔女に出会いこの三冊の本の存在を知った。
彼女たちも第四魔王の弟子の文献を調べていた際に偶然この本の存在を知ったと言っていた。
もっとも彼女たちは聖都の地下深くに封印された一冊と、今なお世界のどこかに流通する一冊を手に入れるよりも、
月蝕というフゲンガルデンの結界の孔をついたほうが幾分か簡単だと思ったのだろうね。
…まあ、結果は見ての通りだけど」
ウルヒの右手がぼんやりと光を放つ。
それはフィアたちが扱う魔力の光。まだ反応しないということは結界の許容範囲なのだろう。
もっともウルヒのことだ、その辺も理解して使っていると考えたほうがいいだろう。
「皮肉なもんだ。魔女に飼われていた時の力が役に立つときが来るなんてね」
目の前で魔法を使われ、周囲に居た教会守護兵がざわめく。
「あんた自分が何をしてるのかわかってるのか?」
ヴァロは揺らぐことなくウルヒに問いただす。
「ここにいるだれよりも分かっているつもりだよ」
「あんたの目的は?」
「答えを聞きたいそれだけだよ。直接本人からね」
ウルヒはそういうと三冊の書物を懐から取り出した。
ぼんやりと三冊の書が光を纏い、宙に浮く。
三つの書は空中で円を描くような軌跡を描いた。
「結界が…反応しない…?」
フィアが驚愕の声を発する。魔力に書の式が反応し、式が虚空に浮かびあがる。
それでも聖都の結界は反応すらしない。
排除の対象になるのは一定以上の魔力のみ、彼の扱う魔力では警鐘が鳴るだけで攻撃はされない。
そのことはフィアから聞いていた。フィアが魔法の式を編み始める。
「フィア、使うな」
フィアの魔法をヴァロが制止する。
この距離で彼を止められるのは任意の座標を決め、攻撃を行うフィアのみ。
しかしフィアの魔力では聖都の結界の攻撃対象となりかねない。
つまりこの聖都内で魔法を使うことは聖都から排斥される。
「賢明だ。なんなら君の鉄芯もためしてみるかい?」
ヴァロは手にかけていた鉄芯を放した。なるほど手の内は完全に読まれているらしい。
「俺にはあんたが何をしたいのかよくわからない」
「理解されようとは望んではいないよ。ただ最後に残しておきたかっただけさ」
ふっと彼は乾いた笑みを浮かべた。
「茶番はもういいですわ」
頭上からの声には冷気すら感じる。
背後から三人の従者を伴いニルヴァはその場にゆっくりと降り立つ。
凛とした態度で堂々と淀みない足音が展示場内に響き渡る。
場に似つかわしくない女性の登場により、教会守護兵の視線がそちらに惹きつけられる。
そこには純白のドレスを纏った聖堂回境師ニルヴァとその弟子らしき女性たちが歩いて現れた。
「飼い犬の始末はこちらでつけます。ウルヒ=ザイバング、あなたを殺人の容疑で拘束しますわ」
射抜くような眼差しで彼女はウルヒと対峙する。
並みの男ならばその迫力に蹴落とされているところだ。
ニルヴァが扇をかざすと、ウルヒの周囲に白い影による人垣が一瞬で現れる。
姿形には多少の誤差はあるが、各々さまざまな武器を携えている。
その数は広間の埋め尽くすほど。軽く見積もっても五百はいるだろう。
『白亜の兵団』というニルヴァが扱う傀儡魔法。
聖都を覆う大結界の中、彼女だけは例外的に魔法を使えるという。
あまりの展開の早さにヴァロは目を見張る。
ウルヒが凄腕の個だとしてもこの人数差は覆すことはできない。
「抵抗は許しません。観念しなさい。どんな魔法だろうと、その魔力量ではたかが知れます。
もっとも使用した瞬間に串刺しにされるでしょうけれど?」
「君たちは本当に何も変わらないね。だからこそ俺もこの選択ができる」
ウルヒはおかしそうに笑い、その式に魔力を流し込む。
結界が警戒音を上げるのと同時にニルヴァが扇を開く。
彼の周囲に展開していた白い影が、一斉に彼めがけてなだれ込む。
刃が届く直前、ウルヒはその場から忽然と姿を消した。
「空間転移…まさか…そんな…」
空間転移という予想を超えた事態にニルヴァを含めそこにいた魔女たちは驚きを隠せない。
事態はヴァロたちの予想だにしない方向に向かいつつあった。




