助手に戻ってきた日常
次の日、僕が眠い目を擦りながらも起床し、階下へ降りてみると僕よりも遅い時間に寝たはずの姉はすでに出勤したようであった。仕事中毒者だったり、所謂ブラック企業に捕まっているのではないかと普通なら心配してしまうところだが、昨日の説教からして、多分ないだろう。
いつも通りに支度を済ませ、学校へと向かう僕の足取りは重い。それは本務にどんな無理難題を吹っ掛けられるのかという心配と、昨日打ち付けた右半身が痣だらけになっていて、歩くたびに痛みが走るという現象が合わさった結果だった。それさえ無ければ、むしろ走っていくほどであっただろう。なにせ数年に渡り僕を苦しめてきた悩みが、綺麗サッパリとなくなったのだから。
普段より早い時刻に学校へ到着して靴を履き替えると、昨晩言われたとおり、真っ先に理科準備室へと向かう。こんな時間に学校へ来ている生徒は朝練をしに来る生徒ぐらいなものだし、そういった生徒はこの実験棟へは近づかない。加えて教師陣は職員会議のため、誰と出会うこともなく順調に理科準備室へ来てしまった僕は、深呼吸をしてから扉に手を掛けた。
扉は鍵が掛かっておらずすんなりと開き、やはり机の上で胡坐をかいている本務と僕を対面させた。
「やあ、おはよう。キチンと朝一番に来てくれてボクは嬉しいよ」
替えの制服を持っているのか、どこも破れていない制服を着こんだ悪そうな笑みを浮かべた本務が、視線で中にある椅子に座ることを促したため、僕は挨拶もせずに扉を閉めると、本務から一番遠い位置にある椅子に腰を下ろした。
「それで、僕はどうすればいいんだ?」
本務は肩を竦めると、立ち上がって椅子を引っ張り僕の隣で腰を下ろす。わざわざ遠いところに座ったのに全く意味がない。そして近い。
「キミは今日から助手になるわけだけど、雇用条件は実にシンプル。学校がある日は放課後、ない日は朝からここに来てくれたまえ。そしてボクの言うとおりに動いてもらうだけさ」
「僕にもプライベートってものがあるんだけど……」
「部活には所属しておらず、委員会にも入っていない。彼女も友達もいないキミなら、このぐらい余裕だろ?」
事前に調べられてしまっているのか、僅かな抵抗も無駄だった。というか友達がいないんじゃない。作れなかっただけだ。
「以上。とりあえず教室に行きたまえ。また放課後に会おう」
どんな無理難題が来るのかと身構えていた僕は、拍子抜けしてしまい、何も言えなかった。
言いたいことは言ったとばかりに本務は立ち上がると、そのままお茶の用意を始めてしまう。よくよく見れば、紅茶だけでなく緑茶やコーヒーマシンまで増えている。完全にこの部屋を私物化していた。しかし、それを責める気にもなれなかった僕は出ていくために立ち上がり、そしてふとした疑問を投げかけた。
「そういえば、探偵なんだろ? 事件を探さなくていいのか?」
「問題ないさ。依頼というのは勝手に舞い込んでくる。事件は探偵を呼ぶものだからね」
意味が分からなかったが、とりあえず教室へ行くことにした僕は、理科準備室を出た。
教室ではすでに何人かの生徒が集まって話していたり、終わっていない宿題と格闘していたりしていた。僕は集まって話している生徒たちの中に、麗度がいることに気づく。麗度もこちらに気づいたようで、集団から離れると、こちらに近づいてきた。
「よお! お前が食いつきそうな話題、仕入れて来たぜ!」
「おはよう。朝から元気だな」
「それだけが取り柄だからな」
僕らは席に着くと、麗度が体ごと振り向かせてくる。
「隣の青林高等学園って知ってるだろ?」
「ああ、あの県内でも指折りの秀才学校」
「そうそう。ついでに金持ちの。……で、あそこに通ってる生徒が見たって言うんだよ」
「何を?」
「幽霊だよ! 幽霊!」
「へえ」
「なんでも、ソイツが学校から帰り途中、最寄りの駅で降りたらコインロッカーの中から赤ん坊の泣き声が聞こえたんだと。で、ソイツが気になって声が聞こえるロッカーを開けてみると……中は空っぽだったんだそうだ!」
「よくある都市伝説じゃないか」
「ああ、でも本人から聞いたんだ。間違いないぜ」
なんと、麗度の顔は自校だけでなく他校にも及んでいるのか。なんて顔の広さだ。
「な? 面白いだろ」
「よくある都市伝説を体験したって話すヤツがいたってだけだろ」
「つまんねー奴だな。ちょっとはノってこいよ」
「それはスマンね」
何気なく会話をしていると、麗度が段々と目を丸くしていくのに僕は気付いた。
「なんだ?」
「あ、いや……珍しく会話になってるからビックリしてさ……なんか良いことでもあった?」
「……まあね」
長年苦しんだ悩みがなくなった僕を見抜くとは。こういうところが本務の顔の広さの秘訣でもあるのだろう。
そうこうしているうちに予鈴が鳴り、いつもと変わらない学校生活が始まった。いや、正確に言えば僕にとって全然違うものではあるのだけど、それは学校という枠組みの中で見れば至極些細なものだったし、本来はこれが普通なのであった。授業中に居眠りをしていても、自分の影が動いたような気がしてハッとしたり、話相手にも被害が及ぶのではないかと極端に人と関わるのを避けたりすることなく、僕の新しい学校生活は、無事に一日目を終えた。
本来の学校生活を満喫した僕が、晴れやかな気分で理科準備室に向かうと、やはり本務が待っていた。
「本務は授業を受けないのか?」
「ボクは特待生だからね」
「……麗度の言っていたことは本当だったのか。頭良いんだな」
「もちろん。一年後期のテストで赤点が三つもあったキミとは比べ物にならないほどにね」
「余計なお世話だよ!」
というかなんでそんなことまで知っているんだ。姉すら知らないトップシークレットなのに。友達……はいなかったか。やかましいわ。
「何か面白い話はあるかい?」
一人で乗り突っ込みを心の中でしていると、本務が椅子にだらしなく背中を預けて聞いてきた。
「……そういえば、青林学校の生徒が幽霊見たってさ」
「ほう」
「なんでも、駅のコインロッカーで赤ちゃんの泣き声が聞こえて、開けてみても空だったんだって」
「よくある都市伝説の類だね」
ほらな麗度。本務ですらこう言うぐらい胡散臭いんだよ。けして僕が冷めているとかノリが悪いとかじゃないはずだ。
「だが面白い話だね」
「え?」
「今日のところは帰りたまえ。きっと近々事件が舞い込んでくることだろう」
「どうしてそう思うんだ?」
「探偵としての勘だよ」
何が本務の琴線に触れたのか分からなかったが、ありがたく帰らせてもらうことにした僕は「また明日」と告げると、玄関へと向かう。
靴を履き替えた僕は、校門が騒がしいことに気づいた。どうやら何人かが集まって誰かを囲んでいるようだが、特に気にしなかった僕はさっさと通ることにしたのだが――。
「あー! アンタ!」
どうしても気になってしまって目を向けたのが間違いだった。
囲まれているのはどうも他校の女子生徒だったようで、視線があってしまった僕に真っすぐ向かってきてしまう。どうしたものかと悩んでいるうちに、女子生徒は目の前まで来てネクタイを引っ張る。苦しいからやめて欲しい。
「な、なに?」
「渡須 仁ってヤツを探してるんだけど?」
ああ、これは厄介ごとの匂いがする。諦めて空を見上げてしまう僕だった。