恐怖と罪悪感
影踏み鬼は順調に進み、僕は子供たちを捕まえたり、逆に捕まえられたりしながら走り回っていたが、やはり子供の無尽蔵な体力に普段からまともな運動は体育ですらしていなかった僕は、あっという間に子供たちを捕まえられなくなっていた。何とか誰かを見つけても、縦横無尽に逃げ回る子供をヒイヒイ言いながら追いかけ、そして逃げ切られるという、僕が今の倍の年齢になれば通報待ったなしの光景があちこちで見られたことだろう。
ただ、一つ不思議だったのは、これだけ走り回っているのにも関わらず、本務の姿は一度も見つけることは無かった。運がないのか、上手く隠れているのか。後者だとしたら是非とも僕に伝授してほしいものだ。
やがて、子供を見つけるまでは歩くことにした僕は、携帯を取り出して時間を見てみると夕方のチャイムが鳴り響くまで五分もないことに気づいた。誰かを見つけて影を踏まないと、鬼のまま僕は負けてしまう。それは僅かに存在するはずのプライドが許さなかったため、誰かを見つけたら全力を出すことにする。
――走る、という行為は人を盲目白痴にするようで、それは朝あんな出来事があった僕も例外ではなく、このときの僕は本来の目的を完全に忘れてしまっていた。だからこそだろう、夕焼けによって長く伸びた子供の影が、通りの角から伸びているのに気づいて喜び勇んで踏みに行ってしまったのは。
子供たちは無知かもしれないが、けして馬鹿ではない。遊びに関しては真面目な彼らがこんなミスを犯すはずがないのだが、走り続けた疲労と、近づいている刻限の焦りから、そのことは完全に頭から吹き飛んでいた。
「影、ふーんだ!」
満面の笑みで影を踏んだ僕が、どうだとばかりに通りの角にいるはずの子供に顔を向ける。そして固まった。
黒い影が僕を見下ろしていた。
奥行きを感じさせない黒い影の頭からはいくつもの角が伸びており、見下ろすほど高い背丈は背後にあるはずの夕日を完全に遮断していた。ソイツの顔らしき場所には目鼻口といったパーツはなかったけれど、何故かニタリと笑ったような気がした。
「何をしている! こっちだ!」
完全に固まっていた僕は、その声の方へ反射的に走り出す。背後では何かが空を切る気配を感じた。
「早く! こっちだ!」
もう一度聞こえた声に、定まらなかった焦点が合うと、そこではリレーの選手のように後ろを向いて、手招きをしながら小走りしている本務が待っていた。あれだけ探しても見つからなかったのに、どうやって僕を見つけたのか知りたくなったが、後ろから巨大な気配が追ってきているのを感じた僕は、彼女に向かって必死に走った。
本務は僕が見失わない程度の距離まで来るのを確認すると、自身も走り始める。後ろからは足音こそ聞こえないものの、確実に追いかけてきている気配を感じながらも、徐々に距離を離されていく本務に食らいつくべく、小一時間走り回ってパンパンになっている足を動かす。
一体いくつの角を曲がったのか分からなかったが、確実に住宅街から離れ、周囲が寂しくなり始めたころになると僕は限界だった。すでに夕方のチャイムは鳴り終わっており、本務の背中もかなり遠い。僕の人生もここまでか、なんて事が頭によぎっていると、どこかの民家の前で手招きしているのが見えた。
「ここだ! ここに来たまえ!」
あそこで籠城でもするつもりだろうか。明らかに悪手なはずだが、いつ足に限界が来て転んでもおかしくない状態だった僕は、本務が開けておいてくれた扉に飛び込む。
中ではさらに地下室らしき扉を開いた本務がいたので、そこに体を滑り込ませた。
その瞬間、扉はバタンと扉は閉じられ、ガチャリと鍵が閉められたらしき音が聞こえた。
「ほ、本務……? ここで、どうする、んだ」
体を滑り込ませたときに強く体を打ち付けたのか、右半身が痛んだが、僅かな間でもあの影から身を隠せたことや限界だった体を休ませることが出来る安堵から、荒い息の中、僕は本務に話しかける。しかし、いくら待っても本務が答えることはなかった。
「……本務?」
いくらか息が整ったところで、理科準備室のように僅かな光すら差し込まない暗闇に向かって話しかけるが、やはり答えは無かった。携帯を出して周囲を照らそうとしたが、一瞬だけ画面が光ったと思うと、すぐに消えてしまい、その後はうんともすんとも反応しない。電池が切れたわけではないだろうから、体を打ち付けた拍子に壊れてしまったのだろう。加えて、自分の近くに誰かの気配は感じなかった。
考えるまでもなかった。僕は本務に閉じ込められたのだ。
慌てて、入ってきたはずの扉の辺りを手探りで探してみたが、暗闇の中見つけた鉄の扉は、押しても引いても開くことはなかった。
「クソッ! ふざけんなよ!」
その後しばらく、扉を叩いたり、蹴ったりしてみたが、一向に扉が開く気配はなく、僕の手足が痛むばかりで、最終的には毒づく気力も失くした僕は冷たい床に膝を抱え込んで座り込んでしまった。
このままここで死ぬのだろうか。姉は悲しんでくれるだろうか。自分の手足が本当にあるのか疑わしくなってくる暗闇の中、そんなことを考えながらどれだけの時間が経ったのか分からなくなり始めたころ、突如扉を強く叩く音によって、僕の意識は鮮明になった。
ガン! ゴン! ガガン!
激しく鳴り響く重い音に、僕は耳を塞いで縮こまるしかなく、「やめてくれ!」と叫びながら目を閉じて体を震わせていた。
叫び続けたせいで声が掠れて、もはや何を言っているのかも分からなくなってきた。それでも鉄の扉を叩く音は止まない。いつしか、恐怖が臨海に達したのか僕は意識を手放した――。
「――まえ。しっかりしたまえ! 渡須くん!」
頬を叩きながら自分を呼ぶ声に、意識を取り戻した僕は、随分と久しぶりに見るように感じる光に開いた目を細めた。
「よかった。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思ったよ」
「本務……?」
ようやく光に目が慣れた僕が見たのは、ホッとしたような表情をした本務が、懐中電灯の光を僕に向けている姿だった。
「怖い目に合わせてしまったのはすまない。だが、全部――」
「お前ええぇぇぇ!!」
本務が言い終わる前に掴みかかった僕は、勢いのまま押し倒した。
「お前のせいでどんな目にあったと思ってるんだ! ふざけやがって!」
「……それに関しては本当にすまなかった。キミは隠れているだけでよかったはずなのだが、予定が狂ってしまった」
「なんだと!」
「キミのから影を失くすことで、影からキミを守ろうとしたんだ。現に影は一時的にキミを見失って代わりにボクを追いかけてきた」
「な……」
「だが、影のキミに対する執念は、もう少しで日が完全に落ちるというところで地下室に隠れるキミを見つけてしまったんだ」
「……」
「ボクも意識をこちらに向けさせようとしたのだが、無理だった。何度も殴り飛ばされたよ」
本務の説明を聞くにつれて、頭に上っていた血が段々と下りていくのを感じた。冷静になって本務をよくよく見てみれば、制服は所々破れて薄汚れており、破れた個所からは擦りむいたような傷や痣が見えた。
「落ち着いたかい?」
「……ああ、ごめん」
こんなになるまで、必死に僕を助けてくれようとしていたのに、僕は彼女になんてことをしてしまったのだろう。罪悪感と自己嫌悪から、目元に涙が滲んできたのがわかる。
「それは良かった。よければボクの上からどいてくれないかな」
「え?」
本務に言われ、僕は冷静に今の状況を見る。破れた制服の女の子を押さえつけ、上に跨る男子。これではまるで――。
「ご、ごめん!」
慌てて飛びのいた僕はついでに目も逸らす。破れた個所から見える別の布地が、これ以上彼女を見るなと僕の脳に訴えかけてきたのだ。
「落ち着いたようだし、帰ろうか」
「……うちで手当てさせてくれ。せめてものお詫びに。それに聞きたいこともあるし」
「もちろん。帰る道すがら、キミに説明させてもらうよ。探偵は最後にすべてを話さなければいけないからね」
僕はなるべく、本務の方を見ないように家への道を歩くことにした。彼女には僕の学ランを貸しているが、怪我をしている女の子を押し倒したという罪悪感と、学ランでは隠し切れないスカートの破れた部分から除く、白い布地をこれ以上見ないようにするためだった。