追う側と追われる側
急いで学校へと来たせいか、いつもより随分早い時間の校舎はとても静かだった。グラウンドで朝練をしている生徒達の掛け声が聞こえるぐらいだ。
靴を履き替えて理科準備室へと向かう僕は、はたと気づく。本務は「放課後に来い」と言っていた。今行ってもいないのではないだろうか。だが、今更であり、他に出来ることもない。仕方なく向かうことにした。
理科準備室の扉に手を掛けてみると、僕の心配は杞憂だったことが分かる。昨日のように鍵が掛かっておらず、すんなりと開いた。
「やあ、おはよう。放課後まで待てなくてボクに会いに来てしまったのかい?」
中ではやはり、昨日と同じように机の上で胡坐をかいた本務が僕を出迎えた。椅子があるのにわざわざ机に座るのは、何か理由があるのだろうか。しかし、そんな事に突っ込む余裕のない僕は、軽口を叩く本務の挨拶を無視して本題に入ることにした。
「本務、夢で影に腕を掴まれた」
そう言って袖を捲り上げる。肘の辺りに出来た手の痕は、朝見た時よりも濃くなっていた。
それを見た本務は眉を顰めると、机から降りて僕に近づいてくる。春先だからなのか、少し冷たい指先で腕を触ってくる本務から、こんな時だというのに金木犀にも似た甘い香りが漂ってきて不覚にもドキリとした。
「ふむ。そうとうヤツに侵食されてきているのだろうね。むしろこれまでキミに物理的な被害が無かったのが不思議なくらいだよ」
「そんな悠長な……」
本務が呑気なことを言っているため、食って掛かろうとした僕は、顔を上げた本務の笑顔に毒気を抜かれてしまって二の句が告げられなかった。初めて見た本務の笑顔だったが、それはとても優し気で、なんだか安心してしまったのだ。
「大丈夫。何度でも言うが、ボクがキミを助けてあげるさ」
「……具体的にはどんな方法で?」
「それは放課後までのお楽しみさ」
踵を返して机の元へと戻って行ってしまった本務に、僕は聞いてみたが、彼女はこちらに顔も向けずに答えた。不安もあったが、本務なら何とかしてくれるかもしれないという、根拠のない安心感から深く追求できなくなってしまった。けして、僕がチキンだからだとか本務の笑顔で骨抜きにされてしまったわけではない……と思う。
「……どうして、今回みたいなことが初めてだってわかったんだ?」
不安感から本務の元へ来てしまったものの、彼女の声と笑顔で安心して話題のなくなってしまった僕が取れる行動は、話題を変えることだけだった。ここで素直に部屋を出て行ってしまうのは、なんだか負けたような気がするし、そんな簡単な男だと何故か本務に思われたくない。
振り向いた彼女の顔から笑顔は消えており、いつもの無表情が浮かんでいた
「キミの慌てようと、放課後まで待てず理科準備室に来たこと、それに入ってきたキミがボクの軽口すら無視した余裕の無さから推理しただけだよ」
「もしかしたら、前にもあったけど一応報告しに来ただけかもしれないだろ」
もはや屁理屈だとか難癖に近いような反論だったが、尚も噛みついてくる僕に本務の表情は溜め息すらつきそうな雰囲気だ。無表情に変わりないのだが、何となくそう思う。
「それなら放課後にでもすればいいさ」
もはや口では勝てそうにもないと悟った僕は、放課後にまた来ると言い残すとすごすごと教室に戻ることにした。
その日はいつも通り勉強に集中できなかったのだが、考えることは自分の影ではなく本務のことだった。急に転校してきて、僕の影の事を見抜き、なおかつその解決を申し出てきた授業も受けずに理科準備室に引きこもり、探偵を名乗る謎の少女。
「よう、相変わらず暗い顔してんな。今日のお悩みは昼飯か? それともテストのことか?」
ボウっとしていると前の席の麗度が、いつものように馴れ馴れしく話しかけてきた。教室に掛けられている時計を見てみると、いつの間にやら授業が終わり、昼休みに入っていたようだ。鞄を漁ってみると、いつもなら自分で作った弁当が入っているはずなのだが無い。よくよく思えば今朝は慌てて学校に来たのだから、用意している暇が無かった。
「なんだ、今日は弁当無しなのか。じゃあ売店に行こうぜ」
僕が弁当を出さず立ち上がると、麗度も立ち上がった。一緒に食べることも無いのに何で僕がいつも弁当なのを知っているんだコイツは。
「そりゃ勿論、俺が学校の事情通だからさ」
どうやら心の声が口から漏れていたようで、麗度は得意げに答えてきた。
「で、何を悩んでるんだ?」
「どうして悩んでるとわかる?」
売店へ向かう道すがら、しつこく尋ねてくる麗度に負けた僕は逆に質問する。すると大笑いしながら麗度は答えた。
「そりゃあお前。自分の顔を見てみろよ、丸わかりだぜそんなん」
どうやら僕は、僕が思っている以上に顔に出るタイプのようだった。仕方がないので、麗度に本務の事を聞いてみることにしたのだが、自称学校の事情通は想像してたのと違う答えをしてくる。
「本務かぁ……昨日の今日でイマイチよく分かってねーんだよな、彼女。分かってんのは特待生としてこの学校に来たってことぐらい」
「特待生?」
売店に着いた僕は、菓子パンをいくつか買いながら聞き返す。
「だって授業受けに来ねーだろ?」
ああ、なるほどね。というか、この学校の特待生制度はそんな風になっていたのか。それで良いのか教育委員会。
「もしかして本務に惚れちまったか? 確かに見た目は良いけど、ありゃぁ結構性格キツいぜ」
教室に戻りパンを食べている間も、麗度は的外れな事を言ってくる。余計なお世話だし、僕が本務に惚れているなんて見当外れもいいところだ。その後も何かを言ってきたような気がするが、適当な返事をしていたせいかよく覚えておらず、午後の授業も食後の眠気のせいで寝ていたら終わっていた。
放課後になり、理科準備室に向かうと、アルコールランプでヤカンを沸騰させ紅茶を入れている本務が本を読みながら僕を待っていた。勝手に備品を使うなんて、怒られても知らないぞ。というか、積み上げられた文庫本と、その紅茶セットは何処から持ち込んだんだ。
「やあ、キミも飲むかい? それとも本をご所望かな? これはボクが読んでいるから貸してあげられないけど、蔵書なら他にもあるよ」
違う、そうじゃない。
僕が呆れた表情で立っているのに気付いた本務が、あれこれと聞いてくるが、僕が聞きたいのはそうじゃないし、それが目的でここに来たわけでもない。
「……冗談が通じないなキミは。仕方ない、行こうか」
何も答えなかった僕に溜め息を吐いた本務は、本を閉じ、ランプの火を消すと、立ち上がった。
「それじゃあ、昨日言っていた子供の頃遊んだという公園に案内してくれたまえ」
「……わかった」
そうして僕らが向かったのは、子供の頃、影踏み鬼をよくしていた公園。到着すると、昔のように何人かの子供たちが無邪気に走り回っている。
「少し待っていてくれ」
そう言うと、本務は子供たちに向かって行き、何やら僕を指差したりしながら何かを話している。しばらくして戻ってきた本務の後ろには、先ほどまで走り回っていた子供たちが付いてきていた。
「兄ちゃん、その歳で影踏み鬼したいだなんてかわってんな」
「え」
「そうなんだよ。彼はまだまだ子供でね。このお兄さんが鬼になってくれるそうだから付き合ってあげてくれないか」
「しょうがないなー」
「では解散!」
本務の言葉と同時に、わっと蜘蛛の子を散らしたように子供たちが去っていく。僕が呆気に取られて立っていると、本務が手作りの可愛らしい鬼の面を渡してきた。
「というわけで、キミには影踏み鬼が好きな変わったお兄さんとして、最初の鬼になってもらう。ルールはキミが子供の頃やっていたものを伝えてある。では検討を祈る!」
言いたいことだけ言って、本務はさっさと逃げてしまった。アイツ、足速いんだな……いや、そうじゃなくて。確かに鬼を見つけるには影踏み鬼をすると言っていたけども、まさか自分より幼い子とやるとは聞いてない。だが、何を言ってもすでに走り去った本務には聞こえないし、覚悟を決めた僕は鬼の面を被って子供たちを追いかけることにした。
……これで鬼の面をした学生服の不審者が出るとか、子供たちに影踏みお兄さんとか呼ばれるようになったら一生、本務のことを恨んでやると決めた。




