呪いの正体
多田村はダンベルをそっと床に置くと、尻餅をついているお兄さんの元へ歩み寄る。どうやら彼は、気が抜けてしまったようで肩を貸して貰いながら立ち上がっていた。
「渡須くん!」
「来るな本務!」
駆け寄って来ようとする本務を咄嗟に止めた。本務は眉を顰めるが、ボクの足元を見ると、納得したように下がっていく。僕は割れた鏡を踏まないように、ゆっくりと本務の元へ近づく。
奇妙なことに鏡の破片は、どれも鏡面に紫色のペンキでも塗られたかのようで、何も映してはいなかった。
「大丈夫かい? ケガは?」
「ああ、大丈夫だ。それと、ゴメン。鏡が予想以上に堅くて」
「いや、キミは気付いていなかったようだけれど、ヒビは入っていた。時間の問題だったんだ」
本務に謝ると、彼女は僕の体を隅々まで見ながら応える。
しかし、あれだけ叩いてヒビとは。鏡が本当に堅かったのか、それとも僕の力が本当にないのか。
「兄貴の声を聞いて来てみたら、これはどういうことッスか」
僕が自分の非力さを、心の中で嘆いていると、兄をソファに座らせた多田村が改めて聞いてくる。その声には少しの困惑と、確かな怒りが含まれているように感じる。本当に兄思いの奴だ。
「キミの兄に取り憑いていたのは紫鏡と呼ばれる、呪いの類だ。けれど、もう心配はいらない。本体は割れた」
「おい本務、いいのか? 多田村にも伝染するんじゃないのか」
多田村の方を見ようともしない本務が答えるが、手に握っていたハンマーをテーブルに置いた僕は、そっと本務に尋ねる。伝染するかもしれないと言われていたから、多田村にその単語を聞かせないようにしていたからだ。
僕の問いに、本務は頷く。
「大丈夫。本体は割ったから、紫鏡の脅威が出ることは少なくとも数十年は先だろう。その頃には彼もすでに大人だ」
本務は、ようやくら多田村に向き直ると、言葉を続けた。
「先程も言った通り、キミの兄に憑いていたのは紫鏡。伝染する呪いで、その単語を聞くだけで呪われてしまう。だからキミの兄は、キミに何も話さなかったし、ボクらも何も教えなかった。そして今日、キミが本体にトドメを刺し、呪いは消滅。めでたしめでたしというわけだ」
矢継ぎ早に言われて、多田村は訳が分からないような表情をしている。まあ、いきなり兄が呪われていて、それが鏡で、今日割ったから安心しろと言われても、意味不明だろう。
「……詳しい話はキミの兄から聞くといい。それじゃあ、ボクらはお暇するとするよ」
本務は説明が面倒くさくなったのか、全てをお兄さんに投げる。
「行こう、渡須クン」
「あ、おい、待てよ」
「待ってくれ」
いつも通りの口調に戻った本務は、そのまま扉へと歩いて行ってしまう。それを僕が慌てて追いかけようとすると、背後からお兄さんが呼び止めてきた。
振り返ると、お兄さんがスッキリとした笑顔で僕らを見ていた。
「ありがとう。何て言えばいいのか……」
「あー、いや、お礼なら本務に」
僕がそう言って、再度本務の方を見るが、彼女は背を向けたまま答える。
「謝礼を忘れないようにしてくれたまえ」
そう言って、今度こそ部屋から出て行ってしまう。
僕は慌てて二人に挨拶をすると、本務のあとを追いかけた。
外は、西の空が微かに赤くなっているだけで、もう半分以上が夜になっていた。
目の前を歩く、本務の足取りは軽い。その内、鼻歌でも歌い出しそうだ。
僕は彼女の隣に並ぶと、話を切り出す。
「あー、それで、教えてくれるよな」
「何をだい?」
「今回の事件のことさ」
喋るたびに口から漏れる吐息は僅かに白く、春とはいえ夕方の肌寒さを教えてくれるが、事件を終えた高揚感であまり感じなかった。
チラリと本務を見やるが、横顔からは、彼女が微かに笑っていることぐらいしか読み取れない。
「そうだね、渡須クンは"紫"と言われて何を思い浮かべる?」
「え? うーん、そうだな……朝顔とか?」
突然の問いに、僕は脳裏に浮かんだ答えを咄嗟に口に出すが、本務はお気に召さなかったようで大きな溜め息を漏らす。
「少しは頭を使いたまえ。何も考えずに受け答えしてしまうのは動物だけにしてほしいね」
「悪かったな」
もしかしたら、動物だって考えながら話せるかもしれないだろうと言いかけて、やめた。言ったとしても、『ならキミは動物以下の存在ということになるね』とか言われて、僕の地位がさらに落ちるだけだ。
代わりに、本務の話の続きを促す。
「それで?」
「"紫色"というのは、古来より位の高い人物にのみ与えられるとされた、崇高な色なんだ。日本での起源は、冠位十二階だね。それは後に、七色十三階冠として生まれ変わるが、そこでも紫色が最も位が高いとされている」
「歴史の教科書で読んだことがあるな。聖徳太子が作った階級制度だろ? でもそれが今回の事件と、どんな関係があるんだ」
「いいかい、"紫鏡"はあくまでも、ヒトが生み出した怪談話に過ぎない。けれど、"紫色"には位の崇高な力が宿っている。そして、崇高な人物が使う鏡と言えば、"浄玻璃鏡"だ」
本務の言葉に、僕の頭はますます混乱した。
"浄玻璃鏡"と言えば、閻魔大王が死者を天国か地獄のどちらかに送るときの裁判に使われるという、死者の罪を映すとされる鏡のことで、死者の生前を全て映し出せるおかげで、死者は嘘を吐けず、公平な裁判を行えるといった代物だ。
「でもおかしくないか? 確かに閻魔大王は偉いし、鏡も使うけど、彼は紫色の何かを着けているという確かな記述は知らないし、浄玻璃鏡も使い方が違う」
僕が疑問を投げかけるが、本務は含み笑いをしながら首を振って答える。
「そんなことはどうでもいいのさ。ただ単に、"紫という位の高さ"と"鏡"が合わさり、偶然にそこへ繋がってしまっただけなのだろうからね。紫鏡は浄玻璃鏡の、いわば偽物さ」
「でも、閻魔は人間じゃないだろ」
「いいや、それは日本だけの思想だよ。中国では徳の高い生者が、何百年という任期で入れ替わるらしいしね」
よくもまあ、紫鏡という単語だけで、そこまで思いつけるものだと感心してしまう。
「それじゃあ、鏡面が紫色になるのって」
「そこは紫鏡の都市伝説に忠実なのだろう。本体が乗り移った鏡は、鏡面が紫色に変色するのさ」
本務の口調は軽く、説明がスラスラと出てくる。アナウンサーにでもなったらどうだろうか。
しかし、あれだけ得意げに話していた本務の足取りが、不意に重くなる。
「どうした?」
「けれど、ボクが分かったのはここまでだったんだ。呪いを解く方法を思いついたのは、キミがいてくれたおかげだよ」
本務は立ち止まり、僕と向き合う。その表情はとても優し気で、少し悔しそうだった。
「今回の事件は、キミを危険に晒してしまった。でも、キミが鏡が同じモノだと教えてくれたから解決できたんだ。だから、ありがとう」
「あー、でも僕は鏡を割れなかったし、本務の力があってこそだと思うよ」
本務の目は、真っすぐに僕の目を見つめていて、同じ年頃の女の子と話慣れていない僕はドギマギしてしまい、おかしな事を口走るが、本務は静かにクスリと笑っただけで、その笑顔を僕に向ける。
「いや、浄玻璃鏡は水晶で出来ているとされているんだ。堅くて当然なんだよ」
「……ああ、だから紫鏡には水晶が効くのか」
「そう。共鳴し合って、呪いを打ち消してしまうのさ」
なんというか、ただの都市伝説とは言っても、上手い事繋がるものなんだな。
僕がそんな下らないことを考えていると、本務が手を握ってきた。
指先を掴まれているだけだけど、彼女の手は柔らかくて、そして温かくて、ほんの少しでも感じていた肌寒さが一気になくなってしまったような気分だった。
「ほ、本務?」
「キミが助手になってくれて、本当に良かった」
本務があまりにも直球の言葉を投げてくるので、恥ずかしさのあまり僕はついつい視線を逸らしてしまう。
「そう思ってくれてるなら、僕も嬉しいよ」
本務はもう一度静かに笑うと、手を握ったままゆっくりと歩き出す。それにつられて、僕も後に続いた。
しばらく、僕らは一言も発さずにいたけれど、沈黙に耐え切れなくなった僕は口を開く。
「そういえば、よく鏡を騙せたよな。時計とカレンダーを弄っただけで」
「ああ、あれは何の意味もないさ。少しでも紫鏡を呼び寄せやすくしただけで、本当に来るかどうかは分からなかった」
「え?」
本務の予想外の答えに、僕は気の抜けた答えをしてしまう。
「待て待て、それじゃあ紫鏡の本体が来たのは?」
「ただの偶然。来なければ毎日通うつもりだったけれど、初日で来てくれたのは運がいい」
「だって人間が決めたもので、一番正確で曖昧なものは時間だとか何とか言ってたじゃないか」
「あんなのは彼を説得するための出任せさ。少しでも確率が上がってくれれば御の字だったからね」
僕の手を引っ張りながら、前を歩く本務の表情は見えなかったけれど、口調はいつもの面白がっているものに戻っている。
「マジかよ……人の賭け金で賭博をするなんて良い度胸じゃないか」
「それはどうも」
「褒めてねぇよ!」
僕が叫ぶと、本務は声を上げて笑った。本当にいい性格してやがる。
けれど、彼女の楽しそうな笑いに、僕もついつい苦笑いを浮かべてしまうのだった。
「今日は祝杯だ。キミの家に食べ物を買って祝杯を上げようじゃないか」
「……それはいいな。何が食べたい?」
「それは店を見ながら決めるとしようじゃないか」
僕は本務に手を引かれたまま、商店街へと歩く。進む方向は彼女任せになってしまうけれど、それもまあ、悪くないかなと思ってしまったのだった。




