全てを持っていく
本務は何でもないかのように告げたが、お兄さんは大きな溜め息とともに、またもや頭を抱え込んで顔を伏せてしまう。
「おい……ふざけるなよ。あれだけの思いをしておきながら、また死にかけるってのか。冗談じゃない」
大声で叫んだわけではなかったが、その声には静かな怒りと、確かな恐怖が滲んでいた。
それでも本務は、まるでお兄さんの感情を理解していないかのように、淡々と答える。
「何をそんなに怖がっているんだい。所詮は鏡だよ?」
「俺は、その鏡の分身とやらを叩き割って、一度死にかけてるんだぞ」
「けれど生きている。やらなければ本当に死ぬだけだ」
その言葉はもっともだった。立ち向かわなければ、死ぬ。逃げることは出来ない。
だが、お兄さんは頭を抱えたまま、何も言わずに座ったままだった。無理もない。本務の言葉に従い、解決方法だと言われ、実行したのは良いものの、恐ろしい目に遭い、さらには失敗したと告げられたのだ。
おそらく、何も信じる気にはなれないのだろう。
しかし本務は、そんなお兄さんの元へゆっくりと近づくと、しゃがみ込んで顔を上げさせる。
そして、その目を見つめながら言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「いいかい? 相手は所詮、長い月日を掛けて対象の力を衰えさせなければ、殺すことも出来ない、ただの鏡だ」
「……だが、俺の先輩は死んだ」
「それは対処方法を知らなかったからだ。けれど、今回は違う。ボクらがいる。キミは助かる道をわざわざ避けて通るのかい」
沈黙が部屋に漂う。本務はお兄さんの目を見つめたまま、お兄さんは本務の目を見つめたまま、一言も発さず、互いの心の奥底にある思惑を見通すかのようにしている。
僕は、そんな二人を見守ることしか出来なかった。
「……わかった。もうどうにでもしてくれ」
しばらくの後に、お兄さんは諦めたような声音で小さく呟いた。
本務はその言葉を聞き届けると立ち上がる。
「依頼人の言質は取った。渡須クン、モタモタしてないで姿見を早く持ってきてくれたまえ」
「わ、わかった」
その言葉で我に返った僕は、二階へと駆け上がりお兄さんの部屋へと飛び込む。
姿見は扉のすぐ傍にあり、壁にしっかりと固定されていた。
僕は鏡に指を掛け、ゆっくりと剥がそうとするが、壁が悲鳴を上げるだけで鏡は剝がれようとしない。
「なんの音ッスか!?」
壁の音を聞きつけたのか、多田村が部屋に入ってくる。
「な、なにやってるんスか」
「丁度いい。多田村、手伝ってくれ。コレをリビングまで運ばないとお兄さんが死ぬ」
「はぁ?」
多田村は僕の言葉を理解してはいないようだったが、それでも鏡に指を掛けて、剥がすのを手伝ってくれる。どこまで良い奴なんだコイツは。
「あとで説明してくれるッスよね!」
「もちろんだ」
頷いた瞬間、鏡が大きな音を立てて壁から離れた。力一杯に踏ん張っていた僕らが、思わず尻餅をついてしまうほどに。
鏡があった壁紙は、鏡と一緒に剥がれており、酷い有り様だった。
「いいか、多田村。誰かが呼びに行くまで、絶対に部屋を出るなよ」
僕は、尻を擦って痛みを抑えている多田村に声を掛けると、姿見を持ってリビングへと戻った。後ろから声を掛けられた気がするけど、答えている余裕は今の僕にない。姿見はかなり重かったからだ。
「本務、持ってきたぞ」
「ふむ、なかなか大きいね。どこかの壁に掛けてくれたまえ。けして倒れないようにしてくれよ」
リビングでは、お兄さんが日付カレンダーを何枚も破り、本務は全ての時計の時刻を弄っているところだったが、正直その光景は狂気を感じさせるものだ。
やがて、本務が最後の時計を置き、僕が姿見を固定し、お兄さんがカレンダーを破り終えたのだが、リビングは酷い有り様だった。
「これからどうするんだ」
お兄さんが座っている本務に問いかける。
「待つ」
「何を?」
「紫鏡を、だよ。この部屋は現在、六月二日の二十三時四十九分。キミの誕生日がもうすぐ終わってしまう。ならば、残りの十分前後で、紫鏡はキミを殺しに来るはずだ」
「来たらどうするんだ」
「それはこちらでやる。キミは座って鏡を眺めているといい。鏡が紫色になり始めたら教えてくれたまえ」
本務はそれだけ言うと、椅子に体を預け、目を閉じてしまう。お兄さんは何かを言いたそうに口を開いたが、結局何も言わずに椅子を鏡の前に置き、そこに座った。ただ、鏡を見つめて。
きっと、何が起きるのかを正確に知っているのは本務だけだが、彼女がそれを教えないということは、知っていても意味のない事なのだろう。僕は洗面所に落ちていたハンマーを握りしめると、壁に背を預ける。
一体、何が起きるというのか。本務の言っていた、鏡が紫色になるというのは、どういうことなのか。
リビングには、時計の秒針が動く、酷く機械的な音だけが響いている。
やがて、お兄さんが驚いたように立ち上がる。
「……なんだ?」
眉を顰め、鏡を見つめたまま小さく呟くが、僕には何も変化しているようには見えない。立ち上がったお兄さんが映っているだけだ。
「お、おい、鏡が紫に……」
その言葉に、本務は目を開いて立ち上がると、焦っているお兄さんに近づく。
「確かかい?」
「そうだ、見えないのか?」
「キミにしか見えない」
「何が起きてるんだ!」
お兄さんの問いかけを、本務は無視して僕に近づいてくる。そして、僕にしか聞こえないような小声で指示を出してきた。
「渡須クン、ボクが割れと言ったら姿見を割るんだ。出来るね」
「もちろん」
何がなんだか分からなかったが、僕が頷くと、本務はお兄さんに向かって声を掛ける。
「何が見える?」
「紫色だ! なあ、何が起きてるんだ!」
「そうじゃない! 鏡はまだキミ以外を映しているのかと聞いているんだ!」
「た、助けてくれ……」
お兄さんは本務の問いかけには答えず、後ずさる。その時に椅子を倒してしまうが、そのことを気にした様子はない。ただ、鏡を見て怯えている。
それでも本務は、ただ同じ質問を繰り返す。
「鏡にキミ以外は映っているのか!」
「動けない! 鏡の中の俺が近づいてくる! 何で俺しかいないんだ!」
「割れ! 割るんだ!」
本務の声と同時に、僕は鏡に近づいてハンマーを振り下ろす。しかし、鏡は鈍い音を立てるだけでヒビすら入らない。
「くるなぁああ! 来ないでくれぇえええ!」
お兄さんは完全にパニックになっていた。鏡の中の自分が近づいてくると言っていたが、今はあり得ない。僕が彼と鏡の間に立っているのだから。
それでも、お兄さんは僕を通して鏡を見ているかのように、鏡を見つめたまま動かない。いや、動けないのだ。見れば、必死に体を動かそうとしているが、僅かに震えるだけで、その足は一歩も動いていない。
「渡須くん!」
「クソッ!」
本務の声で我に返った僕は、鏡に向かってハンマーを振り下ろし続ける。しかし、まるで分厚い金属の板でも叩いているかのように鏡は固く、一向に割れる気配はない。
もはや何も考えず、ただ闇雲に鏡を叩き続ける。お兄さんの叫び声も、本務の声も、どこか遠くに感じた。僕に見えているのは、鏡に映る自分と、背後にある禍々しい鏡だけで、その鏡が段々と近づいてくるような気さえした。
いや、違う。
確かに近づいてきているのだ。
その鏡はゆっくりと、着実に背後から僕に近づいている。
僕は必死に腕を振り下ろし続けているが、ハンマーを握っているはずの手の感覚は無くなり始め、それが段々と全身に回ってきている。
僕も死ぬのだろうか。
もしも死んだとしたら、姉は悲しむだろうか。
そして――。
「うおおおおおらぁぁぁあああああああああッ!」
突如、耳元で聞こえた叫び声と共に、目の前の鏡が砕け散った。咄嗟に腕で顔を庇う。
そして、ゆっくりと腕から顔を出すと、目の前の姿見は確かに割れており、足元には破片が散らばっている。その破片は、紫色のペンキで塗られたかのようになっており、何も映してはいなかったが。
「何が、起きたんだ」
「さあ、説明してもらうッス」
その声に顔を上げると、肩で息をしながら、ダンベルを握りしめた多田村が立っていた。




