情報の価値
「ああ、いらっしゃい。来るって聞いてたから待ってたよ」
多田村の家に着くと、お兄さんが迎えてくれた。彼の顔色は、会ったときに比べれば随分と良くなり、表情も明るかった。
「何か飲むか?」
「いえ、僕はいりません」
「ボクはコーヒーを」
広めのリビングに通されると、お兄さんは僕らにソファーに座るよう促し、しばらくして湯気の立つカップを持って出てくる。
「それで、今日はどうした? 解決方法が見つかったのか?」
「いや、今日は聞きたいことがある」
向かいに座ったお兄さんが尋ねると、本務がコーヒーを一口飲んでから口を開いた。その表情は依頼人に見せる無表情とは違い、真剣な目付きであるように見える。
お兄さんもそれを感じ取ったのか、表情が強張った。
「わかった、何でも聞いてくれ」
「では遠慮なく。しかし、残念ながら質問があるのはボクではなく、助手である渡須クンなんだ」
本務が僕を指すと、お兄さんは驚いたような表情をした。
「へえ、助手なのか」
「ええ、まあ」
「それじゃあ、どんな質問なんだ」
「……お兄さんは、どんな紫鏡が見えているんですか」
大きく息を吸い込むと、告げる。すると、お兄さんの表情は驚き、そして恐怖の感情を映し出す。
「……どうしてそれを」
「見えているんです、僕にも。紫鏡が」
お兄さんの視線は定まらない。しかし、僕はその目をしっかりと見つめて答えを待った。
やがて、彼は丸めていた背中をゆっくりと背もたれに預け、両手で顔を覆う。その息は荒かったが、大きく息を吐き出してから口を開いた。
「そうか、見えてしまったか」
「ということは、貴方達にも見えていたんですね」
「え?」
「ボクらはキミ以外にも、もう一人紫鏡が見えていた人物を知っている。そして、彼が逃げ切れなかったことも」
本務が口を挟むと、お兄さんは口元を歪めて笑った。それは諦めにも似た乾いた笑いだったけれど、両手で隠れていた視線は、しっかりと僕達を見据えている。
「困ったな。今日はその事を聞かれると思っていたけど、それはお見通しのようだな」
「そうとも。キミらが何らかの拍子に紫鏡を見て、それを信じ、一般的な回避策である透明な水晶まで用意したけれど、片方は失敗して死に、キミはそれに恐怖して隠れて過ごしたこともね」
「はは、凄いな。そこまで知っているのか」
段々とお兄さんの笑いは落ち着いていったが、その肩は僅かに揺れ続けている。
「何がそんなに面白いんですか」
「いや、すまない。実のところ、あまり期待はしてなかったんだ。けど、そこまで知っているなら期待せざるを得なくなった。それが少し可笑しくて」
それもそうだ。自分より年下の男女が、弟の紹介とは言えいきなり訪ねて来て、自分が怯えているものから救ってくれるというのだ。普通の感覚なら、任せてはみても、きっと心の底から解決できるとは信じないだろう。
「それは良かった。ならば渡須クンの質問に答えてくれたまえ」
「ああ、そうだね。とは言っても、普通の鏡だ。五十cmくらいの楕円型。鏡の周りには炎か何かを模した装飾がされてて、色は赤。鏡面には紫色のペンキか何かが塗られてて何も映らない。鏡を通した時だけ見える。それだけ」
僕は紙とペンを取り出すと、聞いたままにペンを走らせる。そのまま返事をせずにいると、溜め息を吐いたお兄さんは席を立ち、しばらくしてから湯気の立つカップを二つ持って戻ってくると、その一つを僕の前に置いた。
「一体、何の質問だったんだ?」
「……お兄さんの見た鏡はコレですね?」
僕はページを破り取ると、それを目の前の机に置く。
二人が覗き込み、本務は驚愕の表情で僕を見つめ、お兄さんはそれを手に取りじっくりと眺めている。
「渡須クンの意外な特技を知ったよ」
「意外とは何だ。これでも絵は上手い方だと思うぞ」
本務の言葉に、僕は苦笑いを浮かべて答える。
自分で言うのも恥ずかしいが、一人で過ごす時間が多かった僕は、自ずと一人で出来る趣味に時間を費やした。それは読書であったり、ネットサーフィンだったりしたわけだけど、その中で唯一、姉に褒められたことがあるのが"絵"だ。
僕のすることは何でもダメ出ししてくる姉曰く、「絵だけはまともに見れる」とのこと。「人物画は見れたものじゃないけど」とも言われている。
「驚いた。まさに俺が見ている鏡ソックリだけど、どうして分かった?」
お兄さんが笑顔で紙を手渡して聞いてくる。
それに対し、僕はゆっくりと首を振った。
「いえ、僕が描いたのは僕が見たモノです」
二人の頭の上には、はてなマークが浮かんでいるような錯覚さえ覚えるほど、その表情は困惑していた。
「ま、待ってくれ、俺が見たものをキミも見たのか?」
「ええ、僕も見たと言ったでしょう?」
「それは、そうだけど、なぜ全く同じモノなんだ?」
「それが問題なんです」
お兄さんの困惑の色は濃くなる。しかし、僕は視線を切ると本務へ向き直った。
本務は顎に手をやって何事かを考えているが、僕が顔を向けるとニコリと笑う。
「なるほどね。キミが言っていた役に立つ情報とはこの事かい」
「そうだ。どうかな」
「素晴らしい。本当にキミは優秀だよ」
「ま、待ってくれ。俺には何が何だか分からない」
僕と本務のやり取りに、お兄さんは慌てている。本務はニヤリと笑うと、得意げに話し始めた。
「いいかい。紫鏡は、あくまで単語だ。単語だけでは、その姿形を想像することは出来ない。なのに、何故二人の見たという鏡の形や色まで一致しているのか」
「そんなの、ただの偶然だろ?」
「いいや、それはあり得ない。人間が単語を聞いて姿形を想像するとき、身近に見たことのあるものを手本にする。この家はともかく、渡須クンの家に丸い鏡は無い」
「どこかで見てるのかも、知れないし」
「いや、残念ながらこの地域の学校既定の鏡は、全て四角。そして、渡須クンはこの地域出身であり、家と学校以外の場所で鏡を見たとしても、まずそれを手本にすることはないだろう。さらに言えば、楕円の鏡の周りに炎の装飾だなんて趣味の悪いモノ、ボクは想像もつかない」
本務の得意げな解説をしてくれるが、お兄さんはイマイチよく分かっていないようだ。
「つまりは、何かがモデルになっているはずで、それが分かれば解決方法が分かるかもしれないってことです」
「ああ! なるほど!」
ようやくお兄さんの表情が、理解したとばかりに明るくなった。それを見た本務が眉を顰めて僕を睨んでくる。
「……どうしてボクの説明で分からず、キミの説明は理解できるのか不思議でならない」
「お前の説明は遠回り過ぎるんだよ」
本務の得心がいかないといった表情を見て、僕は勝手に勝利したような気分になり、得意げな表情を浮かべるが、それは絶対に本務に見えないようにした。ここでヘソを曲げられちゃ困るから。
僕は努めて真面目な表情を作ると、本務に問いかける。ここから先は彼女の領分だ。
「本務、今の情報は役に立ったか? いや、立ったと言ってくれ」
僕の言葉に、難しい表情をした本務は目を閉じ、何事かを呟いている。きっと情報を整理しているのだろう。
僕らは黙して、彼女の目が開かれるのを待った。
心配したお兄さんが小声で話しかけてくる。
「……なぁ、大丈夫かな」
「ええ、きっと大丈夫ですよ」
「ずいぶん信用してるんだな」
「もちろん、僕は彼女の助手ですから」
その言葉を言い終えた瞬間、本務の目が開かれる。その表情は、いつも通りの自信に満ち溢れていた。
「分かったか? 本務」
「もちろん」
本務は湯気が完全に消えてしまったコーヒーを飲み干すと、頷いた。




