恐怖の対象
「オス。約束通り、聞いてきたッス」
次の日、昼休みに来なかったため、やはりからかわれたのだろうと帰り支度をしながら本務の元へ向かおうとしていた僕のところに、多田村はやってきた。なんでも、昼休みは部活のミーティングのため、来られなかったそうだ。
「それで、昨日の話の続きなんスけど……」
「待って、その話は別のところでしよう。多田村に会いたいって人もいるんだ」
「オス」
本務の勘とやらも、案外バカに出来ないものだ。絶対に来ないと確信していた僕は、素早く帰り支度を済ませると、彼女の待つ理科準備室へと多田村を案内する。
扉の前まで来てから後ろを振り返る。
「先に言っておきたいことがあるんだ」
「オス」
「これから会わせる人は、ちょっと性格が悪い。不躾な質問をしたりするかもしれないけれど、知識は確か……だと思う。だから、広い心で接してあげて欲しい」
「オス。了解ッス」
一抹の不安を抱えながらも、扉を開く。
「やあ、ようこそ」
中では、いつだったか着ていた白衣を上から羽織った本務が、小説を片手にコーヒーを楽しんでいるところだった。とりあえず一安心する。このあいだの高知さんの時のように、高校生がごっこ遊びをしているようには見えないし、理科準備室でコーヒーを飲んでいることと、白衣を着ていることと、無表情で愛想の欠片もないことを除けば、概ねまともだと言えるだろう。
「多田村、コイツは本務だ。本務、こっちが昨日話した多田村だよ」
「オス、よろしくお願いするッス。兄貴を助けて欲しいッス」
「話はそこにいる渡須クンから聞いているよ。それで、キミの兄は何が怖いんだって?」
無遠慮に本務は話を進めてくるが、多田村が気にしている様子はない。きっと心が広いのだろう。
多田村は少しためらうと、おずおずと呟くように言った。
「それが……"鏡"だそうッス」
「鏡?」
思わず聞き返してしまったが、オカルトに鏡が関係してくる話は少なくない。それでも聞き返さざるを得なかったのは、逆に鏡に関する話が多すぎるからだ。
「なるほど、鏡か」
見れば、本務もどうやら困惑しているようだった。無理もない。
「どうして、鏡が怖いと?」
「それが、どうも話してくれないんス。お前にも危険が及ぶからって」
「それは……困ったね」
「なんでッスか?」
多田村が聞き返すが、本務は何かを考え込んだまま、答えようとしないため、代わりに僕が答えることにする。
「"鏡"という単語だけじゃ、どんなオカルトに関係してるのか分からないんだよ。昔から"鏡"に関する怪異現象やらの話は多いから」
「それは、申し訳ないッス。オレも聞き出そうとしたんスけど」
「いや、多田村のせいじゃないさ」
目に見えて多田村が落ち込む様子を見て、慌ててフォローを入れるが、彼は頷くだけで肩は落としたままだった。麗度の言っていた通り、真面目な性格なのだろう。
「キミの兄は、今どうしてるんだい?」
「オス。兄貴は大学生なんスけど、最近は怖がって外に出ようとしないッス」
「それは、いつから?」
「この春からッス」
「ふむ……」
質問を終えると、本務はまた黙り込んで、何かを考え込んでしまう。
しばらく気まずい沈黙が流れた。
「とりあえず、座ろうか。何か飲む?」
「いや、オレはいいッス」
雰囲気に耐えられなかった僕は、何とか明るくしようと着席を促す。飲み物は断られてしまったので、自分の分のコーヒーを入れて、僕も座った。
「お兄さんは今、何歳?」
「十九ッス。もうすぐ二十歳になるッス」
「じゃあ、大学二年生?」
「そうッス」
「ふーん」
何気ない会話をしながら、本務が何かしらの答えを出すのを待つ。
しかし、こちとら随分と友達と会話なんてしてないため、今にも話題が尽きそうだ。早くしてくれ、本務。
「……キミの兄は、今も在宅かい?」
話題が逸れに逸れて、多田村が今の部活に入ったのは、高校時代の兄の姿に憧れて~みたいな話を聞かされていたところで、本務がようやく口を開いた。
「いると思うッスけど」
「そうか、ならば行こう」
「行くって、どこにッスか?」
「キミの兄の元に決まっているじゃないか」
「えっ」
突然言われて、多田村は目を白黒させている。そりゃあ、突然、自分の家に来たいなんて言われたら、誰でも焦るだろう。彼は慌てて本務を止める。
「む、無理ッス。今日はオレ、部活もあるんス」
「キミは兄と部活、どっちが大事なんだい」
「そんな無茶苦茶な」
「ならば、キミの家の住所を教えてくれたまえ。こちらで勝手に向かわせてもらう」
「そ、それはもっと困るッス……」
本務のトンでもな要求に、多田村はしばらく考え込んでいたが、やがて腹を決めたのか、大きく頷いた。
「案内……するッス……」
「ならば行こうか」
哀れなスポーツマンは、本務の無茶苦茶な要求に応じることにしたようだ。頑張れ多田村。
僕は、コーヒーのお代わりでも飲みながら待ってることにしよう。
「何をしているんだい渡須クン。キミも来るのだよ」
「……知ってた」
行かなくてもいいんじゃないかという淡い幻想は、脆くも砕け散った。
そうして、僕らが辿り着いたのは、住宅街にある戸建ての一軒家だった。ここまで来る道すがら聞いたのだが、両親は仕事でいないらしく、家にいるのはお兄さんだけとのこと。
「さて、キミの兄の部屋はどこだい?」
「こっちッス」
招かれるがままにズカズカと上がり込んだ本務は、その足で二階へと上がっていく。
「兄貴、友達を連れてきたッス」
「……ああ、おかえり」
多田村が扉をノックし、声を掛けると、中から疲れ切ったような男性の声が聞こえる。しかし、出てくる様子はない。どうやら、本当に何かに怯えているような雰囲気だ。
「キミは下の階で待っていてくれたまえ」
「え? でも」
「待っていてくれたまえ」
「……了解ッス」
多田村が下に降りて行ったことを確認すると、本務は壁にもたれかかる。僕も多田村と一緒に行こうとしたのだけれど、何故か残された。謎だ。
「……ボクは本務という。キミが鏡を怖がっているとキミの弟に相談された」
敬語も使わず、本務は切り出す。コイツにとって年功序列という概念は無いのだろうか。
「……驚いたな。アイツに女友達がいるなんて」
しばらくして、部屋の中から、少し生気の戻った声が聞こえる。
それにしても、たしかに彼女はいないかもしれないけれど、女友達くらいはいるかもしれないだろう。そんな風に見られている弟が哀れだ。少し前まで友達もいなかった僕が言えた義理ではないが。
「けど、鏡に関しては教えられない。君たちにも害が及ぶかもしれないんだ。俺のことは放っておいてくれ」
「そうもいかない。彼から兄を助けてくれと言われているし、それにボクのことは心配いらない。キミが何故鏡に怯えているかの予想もついている」
お兄さんは後半は強い口調で、僕らを返そうとするが、本務は肩を竦めただけで気にしていない様子だった。僕なんかは年上の強い口調ってだけでビクついてしまうのに、大したものだ。
「キミが鏡を怖がる原因、それは……」
お兄さんが答えようとしないため、本務はさらに言葉を続ける。そしてたっぷりと間を取ってから、その単語を口にした。
「"紫鏡"だろう?」




