探偵と助手の信頼関係
我らが県立遠縁高等学校は、土曜日も午前中だけ授業があるのだけど、今日ほど土曜日も学校があることを疎ましく思ったことは無い。
「ああ、面倒くさいことにならなければいいけど……」
すべての授業を終え、麗度からの遊びの誘いを断った僕は、重い足を理科準備室へと動かしていた。
朝から本務の小言を聞くのは御免だったので、放課後に行くことにしたのは良いのだが、それはただの問題の先送りでしかないことに授業中気づいてしまい、今日は一日勉強に集中出来なかった。
「ちょっと怒るくらいで許してくれないかな」
そう言って僕は理科準備室の扉を開ける。
部屋の中はコーヒーの香りが充満していた。至る所にコーヒーフィルターが散らばっている。その中心で、本務は静かに寝息を立てていたのだった。
「なんだ、寝てるのか」
ひとまず安心した僕は、起こさないようにそっと扉を閉めると、散乱しているフィルターを広い集めるために屈みこみ、そして気づいた。
ほぼ全てのフィルターが乾ききっているのだ。
コーヒー粉をろ過するためのフィルターは、お湯に濡れた粉が長い間湿り続けるため、そう簡単に乾くことはない。それが乾いているということは少なくとも一晩は放置されていたはず。そして、普段からこういったゴミを本務はそのままにしておくことがない。
「まさか、ね」
本務は、放課後に必ず僕がここに来ると信じて、ここで待ち続けたのではないだろうか。
突拍子の無い考えだということは分かっている。
どうやって学校に泊まり込んだのだとか、家に帰らなくて平気なのかとか、色々おかしな点はあるが、それらをやってのけてしまうかもしれない、という思いが僕の中で騒いでいる。僕が来ないことを知らないばかりに、日が暮れ、夜になっても、眠気をコーヒーで追い出しながら目を擦って、僕を待ち続けたのではないのかと。
「……いや、夢見すぎだろ、僕」
部屋を片付けながら、頭の中をよぎる創作の中でしかないような物語を否定した、自嘲気味な言葉を呟いた。
すると、本務がモゾリと動いて、体を起こした。
「お、おはよう。本務」
「……」
本務は寝ぼけ眼を擦りながら、まるで自分がどこにいるのか分からない様子で、ゆっくりと部屋の中を見渡した。そして、大きく伸びをすると、ようやく口を開く。
「……やあ、おはよう」
何事も無かったように挨拶を返してくるのだが、その声にはどこか疲れがあるようにも感じた僕の心臓はドキリと跳ね上がった。
「き、昨日は来なくて悪かったな」
「そうだね、来ないときは一報してくれると助かるよ」
「……あのさ、もしかして、昨日から、ずっと待ってた?」
僕が恐る恐る切り出すと、本務は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、そしてゆっくりと微笑んだ。
「ボクはキミの探偵だからね」
まさか、とは思っっていたのだけど、この一言ですべてを理解した。
彼女は、来ない僕を一晩待ち続けたのだろうと。
一体どうやって? なんて疑問はいくつも浮かぶ。しかし、僕がするべきは、そんなくだらない疑問を彼女にぶつけることではない。
「ごめん」
僕はゆっくりと腰を折り、頭を下げた。
たぶん、僕が今まで生きてきた中で最も誠実な「ごめん」だったと思う。
誰かに怒られたときや、悲しませてしまったときではなく、微笑まれたときにした今回の謝罪が強く、強く心に刺さる。正直、自分で自分を殴り飛ばしてやりたい。
「いいのさ。助手を待つのは、いつだって探偵の仕事の一つだからね」
そんな僕の頭に手を乗せ、ぎこちなく撫でてくれる本務が優しく言う。その手は、優しく、柔らかかった。そして、その手を離しながら続けた。
「それに、きっとキミなら新たな情報を掴んできたのだろうと僕は思っているのだけど?」
「……ああ、とっておきの情報があるよ」
頭を上げた僕の視界に映る彼女の表情は、いつもの自信に満ちた微笑へと変わっていた。
「――というわけらしいんだ」
「なるほどね」
僕が昨日聞いたばかりの、死んだという先輩と高知さんの関係、そして、その先輩のSNSアカウントの事を話し終えると、本務は顎に右手をやって何かを考え込んでいる。
僕は、すでに何杯目かも分からないコーヒーを、さりげなく本務のそばに置く。よほど眠いのだろう、目の下には薄っすらと隈が出来ており、それが僕の罪悪感を加速させた。
「実はね、その人身事故で亡くなったという生徒のことは、すでに知っていたんだ」
「え?」
「この間、ロッカーを調べに行ったときに聞いたのさ」
思いもよらぬ本務の発言に、僕は一瞬固まってしまう。しかし、続く本務の言葉に、その硬直はすぐに解ける。
「けれど、それが女生徒であること、依頼人と繋がっていることは知らなかった。お手柄だよ、さすがボクの助手だね」
「あ、ありがとう」
本務の手放しの賞賛に、褒められ慣れていない僕は少し照れてしまう。
「それで、その生徒が二年ほど前からSNSの更新が鈍っていたという話だけど、具体的にはどのくらい前なんだい?」
「えっと……一年九ヶ月半前だったと思う」
「ふむ、これですべて分かった気がするよ」
「ホントか!」
本務の言葉に、つい喜んでしまったが、その表情があまり明るくないことに僕は気付く。
「どうした……?」
「依頼人は、捨てられた赤ん坊が自分の子だと言っていた……けれど、それは嘘だ」
「どういう意味だ? だって、自分が捨てたって言ってたじゃないか」
言葉の意味がわからず、僕は聞き返すが、本務は首を振るだけだった。
「それも含めて、彼女がいるところで話そう。今日の夜、持仲駅に彼女を呼び出してくれたまえ」
「それはいいけど、なんで夜?」
「幽霊というのは、夜に出やすいのだよ。常識だよ? 渡須クン」
いたずらっぽくウインクをしてきた本務に、不覚にも僕の胸はドキリとしてしまう。
「それじゃ……」
「ああ。赤子の霊を祓ってやろうじゃないか」
本務は自信満々に言う。
しかし、僕にはその自身が何処から来るのか分からない。
今回は所謂「水子」と呼ばれる赤子の霊的現象であり、それを供養するためには長い年月が必要とされるのだ。前回の僕の時のように、即日で終わらせることは、酷く難しいと思う。
そんな僕の心配を感じ取ったのか、本務は言った。
「大丈夫さ。今回、ボクには秘密兵器がある」
「秘密兵器?」
「あれさ」
そう言って本務が指さしたのは、部屋の隅に綺麗に畳まれて置かれた黒のセーターだった。
「あれって、このあいだ僕が投げつけられた高知さんの?」
「そうさ。アレさえあれば何とか出来るだろう」
そう言われてもどうも不安で、僕が首を捻っていると、彼女は真剣な面持ちで僕の目を見つめてくる。
「大丈夫。ボクを信じてくれ」
……そうだ。本務は、僕が何気なく約束したことを信じ、一晩待ってくれていたじゃないか。今度は僕が信じなければいけない番なのだ。
「わかった」
腹をくくった僕が答えると、本務は静かに頷くのだった。




