第5話
1934年3月1日。愛新覚羅溥儀は、執政を改め、満州国皇帝となり、自身を康徳帝と称した。
靖と王杰は、よく言い合いとなり、喧嘩をしていたが、いつも決まって取っ組み合いをして勝っていたのは、ひと廻り、体の大きい靖の方だった。そんな時、王杰は多くの擦り傷を作るものの、負けず嫌いの言葉で
「絶対に勝ってやる」
そう言って、涙ひとつ流さなかった。どんなに痛くても、涙したなら、負けだということを思っていたのである。
君子は、そんな王杰を気にかけて優しく布切れを差し出した。
「どうして、君の、お兄さんの敵に優しくするんだ?」
君子は黙って首を振り、その布を王杰に渡すと、靖の後を追いかけて、帰っていった。その後ろ姿が、とても優しく思えた。
「チッ、何を馬鹿な。彼女も僕の弱さを馬鹿にしてるんだ」
そんな中、1936年から満州国は飛躍期、繁栄期に入っていくのだった。鉄鋼、石炭はもちろんのこと、この地は人間の安住の地、天国だという思いで、日本からの移民はおろか、満州近辺の中華民国、日本統治下の朝鮮からも人はここを目指した。
そういったことが、少しずつ、いや、少なくても子供たちの思いを変えていったのである。
「今、満州は皆の憧れの地だ。それもこれも、僕たちの親が頑張ってきた証。いつまでも、仲違いなことばかり言ってても、この街の発展を損なうだけじゃないか?」
靖も王杰も親元を離れて、炭鉱で一緒に汗を流していた。
昨日の敵は今日の友である。
「僕たちも子供だったんだ。人は貧しかったら、誰かのせいにして逃げだしたくなる。そんなもんさ」
王杰はそう言って、黒く炭がついた顔の汗を手で拭った。
「でも、周りの国々のあまり良い噂は聞かないよ。いつ、どこで戦争が起きても可笑しくないらしいよ」
「日本人と満州の人々が巻き込まれなければ、良いけど」
「僕たちが敵対することはないだろう?」
「そうだな。そうだといいけど」
君子はこの土地で生まれた年の離れた弟二人の面倒を見ながら、親元で農業を手伝っていた。親元と言っても1年前に他界した重蔵の残した土地を母と、近所の日本人、中国人の小作人たちが共同で働いている土地だ。
重蔵が亡くなってからというもの、収穫高は半分近くまで落ち込み、やっと家族が暮らせるだけのものでしかなかった。
ただ、まだ幼い弟達にひもじい思いはさせまいと、懸命の姿だった。だから、兄達は出稼ぎに行き、仕送りをする生活を選ばざるを得なかった。
「お兄ちゃんも頑張ってるけんね、私達も迷惑かけんとこね」
君子は色が白く、気立ての良い女の子に育っていた。
王杰は、そんな君子に恋心をいつしか持っていた。
「君子はお前にはやらんぞ」
それが兄、靖の口癖となっていた。
「また、それですか」
王杰はもう、聞き飽きたという表情で靖に苦笑いを見せていた。
それでも時は無情にも止まることを知らない深みへと、全ての人を飲み込んでいくのである。
まだそれを誰も知らない。