第9話 世間体と結婚観
妊娠して仕事を辞めるどころか、創作意欲満々の美実は、その日、担当編集者と電話で打ち合わせを進めていた。
「それでは紫堂先生、今確認した内容で、次回作のプロット作成を進めて下さい。今度社に出向いて貰った時に、原稿データのチェックをしながら、次回作の詳細を詰めましょう」
「分かりました。あの…、木原さん。ちょっと個人的な話があるんですが」
「はい、何でしょうか?」
一通り打ち合わせを済ませてから、恐縮気味に美実が呼びかけると、相手の木原は不思議そうに問い返してきた。そんな彼女に、美実は思い切って告げる。
「実は、子供ができまして。今三ヶ月目なんです」
それを聞いた木原は一瞬黙り込んでから、明るい声で祝いの言葉を述べてきた。
「本当ですか!? それはおめでとうございます!」
「ありがとうございます。それで出産までは執筆にそれほど影響は出ないと思いますが、出産後暫くは難しいと思いますので、ご了解頂きたいのですが」
「そうですよね。じゃあそれを考慮して、スケジュールの前倒しや先延ばしの処置を取りましょう」
「すみません。宜しくお願いします」
すぐに仕事の口調に戻って、早くも頭の中で今後の予定を組み直し始めたらしい相手に、美実は電話越しに深々と頭を下げた。すると木原は、すぐに気安い口調に戻って話を続ける。
「いえいえ、これ位当然ですよ。まだ三ヶ月目ですから、時期的に余裕がありますし。ところで先生、いつご結婚なさるんですか?」
「え?」
唐突に繰り出された質問に、美実が咄嗟に応じれずにいると、木原が何気ない口調で続ける。
「今はデキ婚なんて、珍しくありませんしね。あ、ひょっとして、もう入籍だけ済ませちゃいました? 披露宴とかに合わせて、編集部から祝電を送りたいんですが」
「ええと……、当面入籍とかの予定はありませんので、お気遣いなく」
控え目に断りを入れた美実だったが、木原はちょっと考えてから明るく続けた。
「そうなると……、今流行りの事実婚って奴ですか? さっすが紫堂先生、時代の最先端をいってますよね。それなら私が個人的に、ささやかなお祝いを贈ります」
「いえ、事実婚とかの形でもなくて、この機会に子供の父親とは別れる事に……」
「…………え?」
言いにくそうに美実が告げると、電話の向こうで木原が困惑した声を上げた。そのまま電話を挟んだ双方で、気まずい沈黙が十秒程続いてから、木原が何事も無かった様に話を終わらせる。
「先生の事情は了解しました。それでは失礼します」
「宜しくお願いします」
何とか無事に打ち合わせの通話を終わらせた美実は、携帯を閉じながら溜め息を吐いた。
「何だか、変に気を遣わせちゃったわね」
そして椅子から立ち上がって自分のベッドにごろりと横たわってから、しみじみとした口調で呟く。
「でも木原さんの様な反応が、世間一般的な反応なんだろうな。そう考えると、うちって寛容って言うか豪胆って言うか……。揉めて以来、時々物言いたげな視線は受けるけど、口に出して五月蝿く言ったりしないものね」
自分の家族をそんな風に冷静に評しながら、美実はそのまま暫く自室の天井を見上げて、難しい顔で考え込んでいた。
その翌日。美実にとっては義兄に当たる谷垣康太が帰国したのが日曜だった為、彼が空港から直行して藤宮家に顔を出した時、一家全員揃って、美樹の誕生日の祝いをしていた。
「お久しぶりです。お邪魔します」
「いらっしゃいませ、谷垣さん」
玄関を開けた美野に先導されて康太が座敷に顔を出し、室内の面々に立ったまま神妙に挨拶すると、美樹が嬉しそうに駆け寄って来た。
「くま~!」
「こんにちは、美樹ちゃん。また随分と大きくなったなぁ」
愛想良く笑顔を振りまきながら美樹の頭を撫でた康太は、数歩足を進めて美子の前に座り、再度頭を下げた。
「この度は、美恵と安曇の世話をして頂きまして、ありがとうございます」
「大した事ではありませんから、お気遣いなく」
そんな社交辞令を交わしてから、康太は思い出した様に背負っていた大きなナップザックを下ろしながら、側にいた美樹に声をかけた。
「あ、そうだ。今日が美樹ちゃんの誕生日って美恵から聞いて、ちょうど良いと思ってプレゼントを持って来たんだ」
「くま?」
「お祝いを頂けるみたいよ? ちゃんとお礼を言いなさいね?」
「うん!」
ごそごそとナップザックの中を漁っている康太を見て、美樹は不思議そうな顔になったが、美子の台詞で何やら貰えるらしいと見当がついたのか、美樹はにこにこしながら待った。そんな彼女の前に、康太がある物を差し出す。
「ほい! 美樹ちゃん。今回の旅行先の地元民に長年伝わっている、魔除けの御守りなんだ」
「すご~! ありがと~!」
「どういたしまして」
木彫りのトーテムポールに良く似た感じのそれは、一応人型を模しているらしいが、上部の顔は能面っぽい上、全体に意味不明な紋様が極彩色で描かれている不気味な物で、とても子供に対する一般的な土産物とは思えなかった。それを無言で凝視している美子に、昌典が控え目に声をかける。
「……美子」
「何? お父さん」
「顔が引き攣っているぞ?」
「気のせいよ」
きっぱり言い切られて昌典が口を噤むと、義父とは反対側から秀明も美子に囁いた。
「確かに魔除けと言うより、寧ろ呪われそうだが、谷垣さんに悪気は無いんだからな?」
そう言われた美子は、若干不愉快そうに夫に向き直って言い返した。
「何を言ってるの、あなた。そんな失礼な事は考えていないわ」
「そうかもしれんが、変な病原菌とか付いていそうだから、アルコール消毒位はしたいとか思ってはいるよな?」
「…………」
どうやら図星だったらしく、美子は無言のまま視線を逸らした。それを見て昌典と秀明が小さく溜め息を吐く中、美実は久し振りに目にする義兄の底知れなさに感嘆する。
(さすが谷垣さん。大概の事では動じない美子姉さんを、容易に呆れさせたり苛立たせるなんて。あの秀明義兄さんがフォロー役って光景は、滅多に見られないわ)
そんな中、インターフォンの呼び出し音が鳴り、美子が腰を浮かせた。
「あら、誰かしら?」
「私が見て来るわ」
「そう? お願い」
まめな美野が素早く立ち上がり、来客に応対するべく座敷を出て行ったが、ものの数分で困惑顔で戻って来た。
「美子姉さん。美樹ちゃんに、小早川さんから宅配便でプレゼントが届いたんだけど……」
「…………」
襖を開けながら慎重にお伺いを立ててきた美野に、美子は無言で視線を向けた。そして何となく座敷内が静まり返る中、美野が少し怯えつつ再度確認を入れる。
「ここに、持って来ても良いかしら?」
「取り敢えず、持って来なさい」
「はい」
そして開け放した襖の向こうに姿を消した美野だったが、問題の物は廊下に持って来ていたらしく、すぐにそれを抱えて中に入って来た。
「え?」
美子を初め、大人達の目が点になる中、身長1メートルに満たない美樹が横になった時よりも大きく見える明るい茶色のクマ型のぬいぐるみが、彼女の目の前に置かれる。
「はい、美樹ちゃん。小早川さんからの、お誕生日のプレゼントよ」
「りあっくま~!!」
「お、凄いの貰ったな美樹ちゃん」
透明なビニールで包装されたそれを、美樹にせがまれて美野がリボンを外し、ビニールから取り出している光景を見た美子は、若干冷たい視線を夫に向けた。
「……あなた?」
その問いかけに、秀明が弁解がましく口にする。
「確かに『美樹ちゃんからの手紙のお礼に、誕生日にプレゼントを贈りたいから、彼女が好きな物を教えてくれ』と言われて教えたが。俺は、こんな大きな物を要求してはいないぞ?」
「手紙って、何?」
「さあ……、詳しくは聞かなかったが」
怪訝な顔を夫婦で見合わせた時、美実が恐る恐る二人の会話に割り込んだ。
「あの……、それは多分、私が淳に書いた手紙に、同封した物の事だと思うんだけど」
それを聞いた美子は、ちょっと驚いた顔になった。
「手紙を書いたの?」
「貰ったので、一応返事を」
「ふぅん? そうなの」
(別に責められてる感じとは違うんだけど、何? この居心地の悪さ)
そこで義兄からは薄笑いを、美子からは探る様な笑みを向けられた美実は、その場を離れるきっかけを掴めずに若干気まずい思いをしていると、至近距離で姉妹達が囁き合っている内容が聞こえて来た。
「同封されたメッセージカードには『お誕生日おめでとう、美樹ちゃん。いつまでも優しい君でいてくれ』って書いてあるんだけど……」
「小早川さん、去年の美樹ちゃんの誕生日には、特にプレゼントはくれなかったよね?」
「そりゃあ友人の子供の誕生日だからって、一々プレゼントを贈っていたら、お金が幾らあっても足りないわよ」
「まさか美樹ちゃん……。小早川さんが精神的に落ち込んでいる上、自分の誕生日が近いこの時期に、ちょっと優しい言葉を書いて送ったら、プレゼントを奮発してくれるとか、考えたりはしていないわよね?」
「…………」
美野が疑わしげにそう口にした途端、一斉に三人が美樹に視線を向けて押し黙った。しかしすぐに、美恵と美幸がこぞって否定してくる。
「ちょっと、美野。それ、どう考えても考え過ぎだから」
「そうよ。二歳児がそんなに計算高い筈無いって! 本当にそうだったら怖すぎるから!」
「そ、そうよね?」
そして三人で「あはは」と笑い合っていたが、その笑顔が微妙に引き攣っているのが、美実には分かった。
「くま、ごろ~ん!」
「良かったなぁ、美樹ちゃん」
「うん!」
(でも、美子姉さんと秀明義兄さんの子供だし……。本当に、偶々?)
そして貰ったぬいぐるみに早速抱き付きながら、畳の上に転がっている美樹を見て、美実は密かに頭を悩ませる事になった。
美樹の誕生日祝いと、康太の帰国祝いの席は最後まで賑やかに続き、その後は各自自室に籠ったり、寝支度を済ませたりして、夜を過ごしていた。そして夜の九時過ぎに「お茶でも飲もうかな」と独り言を呟きながら一階に下りた美実は、台所でお茶を淹れてマグカップ片手に居間に出向くと、珍しく康太が一人だけの場面に遭遇した。
「谷垣さん」
「やあ、今晩は、美実ちゃん」
「ご一緒しても、構いませんか?」
読んでいた新聞から顔を上げて挨拶してきた相手に断りを入れると、康太は笑って了承してくる。
「それを聞くのは、目下居候中の俺の方だと思うんだけどな。勿論構わないよ?」
「失礼します」
そして向かい側のソファーに座ってお茶を少しずつ飲みながら、他に家族がいないこの機会に、ある事を目の前の相手に聞いてみるべく、密かに考えを巡らせた。
(う~んと。何て切り出せば良いかな?)
そして少し悩んで、カップの中身を半分ほど飲み終えてから、美実は徐に口を開いた。
「あの……」
「何かな?」
「新聞に、そんなに面白い記事が載ってますか?」
会話の糸口にしたくてそんな話題を振ってみると、谷垣は笑って応じた。
「いや? 面白いと言うか、前後左右に日本語が氾濫している空間に、久しぶりに帰って来たものだから、ちょっと嬉しくて」
「はぁ……」
「何? 俺が新聞を読むなんて、予想外?」
曖昧に頷いた美実、康太が苦笑いした為、美実は気を悪くさせたかと慌てて手を振った。
「いえ、決してそういうわけじゃ!」
「いいって。一緒に暮らし始めた時、美恵にも派手に驚かれたから。『どうしてあんたが、新聞の定期購読なんてしてるのよ』って」
(美恵姉さん……。幾らなんでも失礼よ。でも定期購読、してるんだ)
姉の傲岸不遜さに項垂れつつ、自分も結構失礼な事を考えていると、康太は読んでいた新聞を畳みながら、真顔で言ってくる。
「確かに、浮世離れした生活を送っているからね。その分国内に居る時位、きちんと時節の話や時事問題位、頭に入れておく事にしているんだ。常識と話の通じない相手に、金を出そうなんて酔狂な人間は皆無だし」
「はぁ、なるほど。そういう物ですか」
「それで? 何か俺に話したい事があるんじゃない?」
新聞を自分の横に置きながら、さり気なく核心を突いてきた康太に、美実は一気に緊張しながら、慎重に話を切り出した。
「話したい事と言うか……。姉さん達から聞いていませんか?」
「何を?」
「その……。私、子供ができたんです」
美実がそう告げると、康太は本当に何も聞かされていなかったらしく、軽く目を見張ってから、笑顔で祝いの言葉を口にした。
「本当かい? それはおめでとう。今何週目なんだい?」
「十週目です」
「そうか。う~んとそうなると、安定期に入るまでもう少しかかるかな? つわりとかは大丈夫?」
「はい、今のところは。でも意外です。随分詳しいですね」
「はは……。お義姉さんから『どうせ暫く国外に行きっぱなしなんだから、居る間はしっかり美恵の面倒を見なさい』と厳命されて、付箋付きの資料を山ほど渡されたから」
「探検の準備で忙しかった時期に……。大変でしたね」
「美恵の大変さに比べたら、どうって事ないさ」
そこで明るく康太が笑い飛ばしてから会話が途切れた為、美実が話を続けた。
「その……」
「どうしたの?」
「私に、何か聞きたい事とか、ありませんか?」
その問いかけに康太は怪訝な顔になって考え込んだが、すぐに自分の掌と拳を打ち合わせて、満面の笑みで尋ね返した。
「ああ、そうか。気が利かなくて悪いね。出産予定日を教えて欲しいな。それと、出産祝いは何が良い?」
「いえ、あの! 決してお祝いを強要するつもりで、こんな事を口にしたんじゃないんですが!?」
「ええと……。そうすると、俺は何を聞かなきゃいけないのかな?」
(やっぱり谷垣さんって、浮世離れしてるわ)
再び困惑顔になった彼を見ながら、美実は思わず溜め息を吐いた。しかしこのままだと話が続かない為、言い難そうに付け加える。
「その、『お腹の子供の父親が誰なのか』とか、『結婚したのか』とか、普通尋ねるのではないかと……」
「でも美実ちゃんの子供なら、美恵の実の姪で俺の義理の姪である事は確かだし。……あ、悪い。いや~、本当に気が利かなくてごめんな?」
「え? どうかしましたか?」
ここでいきなり申し訳なさそうな顔で謝られた為、美実が面食らうと、康太が真顔で推測を述べてきた。
「だって、子供の父親がよほどイケメンで金持ちで頭が切れる男なのを、俺に自慢したかったんだろう? 分かった。さあ、遠慮無く、お義兄さんに惚気て良いぞ?」
そんな事を胸を叩きながら宣言してきた康太に、美実は頭痛を覚えながら言い返した。
「確かにイケメンで稼ぎが良くて頭は切れるタイプですが、自慢したい訳じゃ無いんです! その人と結婚しないで、子供を産もうかと思ってまして!」
「うん、それで?」
勢いに任せて叫んでも、康太が平然としながら話の先を促してきた為、美実は完全に拍子抜けしてしまった。
「あの……、それだけ、ですか?」
「『それだけ』って、何が?」
(何だか、話が噛み合わない……。私の話の持って行き方が、そんなに悪いの?)
密かに美実が悩み始めていると、何やら考え込んだ康太が、確認を入れてきた。
「ええと……、つまり? 美実ちゃんは、自分の事例が、入籍して出産する一般的なパターンとは異なる事に対しての、俺のコメントを求めてるいるわけかな?」
「そうなんです。家族の反応は、どうしても私を気遣って悪し様に言う様な事はしないので、谷垣さんなら比較的冷静な、第三者的なコメントができるかと思いまして」
「それは分かったけど、それなら美実ちゃんさえ良ければ、もう少し詳しい事情を聞かせて貰えないかな? 幾らなんでも情報が少なすぎるから」
「分かりました」
谷垣の申し出は尤もだと思った為、美実は淳とのあれこれを簡潔に語って聞かせた。それを黙って聞き終えてから、康太が感心した様に頷く。
「なるほどね……。しかし、美実ちゃんは真面目だなぁ」
「はい? 私のどこが真面目だと?」
予想外のコメントに美実が目を丸くすると、康太が淡々と指摘してくる。
「だって、結婚生活が想像できないから、結婚しないわけだろう?」
「はぁ……、確かにそうですが」
「大体結婚なんて物は、勢い一割、錯覚二割、打算三割、何となく四割でしちまうもんじゃないのか? 真っ当に考えたら、俺みたいな男が結婚できる筈も無いし」
「……身も蓋も無いですね」
ヒクッと顔を引き攣らせた美実を見て、康太は何を思ったか、ソファーから軽く身を乗り出しながら、真顔で懇願してきた。
「これからする話は、お義父さんとお義姉さんには、絶対内緒にして欲しいんだが」
「勿論約束しますが、何ですか?」
「実は、結婚前に実家に美恵を連れて行った時、両親に離婚届の証人欄にも署名して貰ったんだ」
「はあぁ!? なんですか、それはっ!?」
自分も思わず身を乗り出しながら聞いた話の内容に、美実は完全に声を裏返らせた。しかし康太は真顔で話を続ける。
「だってさ、結婚するのは赤の他人だろ? 世の中血の繋がった家族や親戚同士だって、いがみ合ったり憎み合ったりする事があるのに、赤の他人が死ぬまで夫婦仲良くって、それだけで奇跡だと思わないか?」
「言われてみれば、そう言えない事も無いですが」
(親戚関係……。あと義兄さんの所とか、特にね)
思わず該当する内容を脳裏に思い描き、美実が遠い目をしていると、冷静な康太の話が続いた。
「美恵の奴は、あれもこれもと欲張りな上に、変にプライド高い奴だから。結婚したら仕事も家庭もって、無意識にテンパるんじゃ無いかと思ったんだ。俺が気が利く男だったらそこら辺は上手くフォローできるだろうが、自慢じゃないが年がら年中フラフラしている甲斐性なしだし」
「はぁ……」
(もう何てコメントすれば良いのか、判断できない)
言葉が無い美実だったが、康太は相手の反応を気にする事無く話し続ける。
「だから『俺達が上手くいかなかったら、全面的に俺のせいだから、そこんとこ了解して署名してくれ』って、両親の目の前で用紙を広げつつ頼んだら、両親は勿論、美恵も目を見開いて固まってたな」
「美恵姉さんも、その事は知らなかったんですか?」
「ああ。『結婚前に離婚の話って何事よ』とぶちぶち文句を言ったが、そんなあいつに両親と妹夫婦が『こんな非常識な男ですが、できれば見捨てないでやって下さい』と揃って頭を下げたから、仏頂面もできずに相手を宥めていたが」
思わずその光景を想像してしまった美実は、破天荒な息子や兄を持ってしまった、康太の実家の面々に憐憫の情を覚えた。
「今もの凄く、谷垣さんの実家の方達に同情しました」
「だろう? 俺って本当に困った男だよな~」
「笑い事じゃ無いですよ。それで? 結局、その離婚届は後から廃棄したんですよね?」
「いや。美恵が『無くしたり火事で燃えたりしたら大変』と言って、銀行の貸金庫に預けてる」
「美恵姉さん……。そこは『何馬鹿な事ほざいてんのよ』って、破り捨てる所じゃないの?」
独り言の様に、姉に対する苦言を呈した美実に、康太は小さく笑った。
「頭の固い連中からすると『別れるの前提で結婚するなんて不謹慎だ』とか言われるかもしれないが、俺達夫婦にとってはあれが保険みたいな物だから。俺に徹底的に愛想を尽かしたら、いつでも別れると思ってるから、美恵はあれほど寛容なんだろうし」
そこで美実は、康太を庇う発言をした。
「でも谷垣さんだって、今回美恵姉さんと安曇ちゃんの為に、英断をしているじゃないですか。今後一年は仕事をしないで、専業主夫をするんでしょう?」
「それ位はしないと、本気で捨てられるからね。それに育児は俺にとっては非日常だし、十分挑戦する価値がある」
「確かに、挑戦しがいはある事だとは思いますが……。一年仕事から遠ざかって、ちゃんと仕事に復帰できるかどうか、不安じゃないですか?」
「それは確かにそうだが、これまでだって自然に仕事が舞い込んで来てたわけじゃ無いからな。どうしようも無くなったら、体力があるうちは工事現場ででも働いて、老後は美恵に養って貰う。だから美恵の仕事が頓挫したら、俺的にも非常に困るんだ」
「堂々と、扶養家族宣言ですか……」
真顔で言い切られてしまった美実は、姉の夫がこれってどうなんだろうと少し悩んでしまったが、ここで康太が苦笑いで話を纏めにかかった。
「そんな男に、世間一般のコメントを求めても無理だろうな。やっぱり美実ちゃん、ちょっと体調が本調子じゃないんじゃないか?」
「そうかもしれません」
「だからまあ、取り敢えず今の俺に言えるのは、無事に元気な赤ちゃんを産めるように頑張れって事と、その子と安曇の年が違わないから、時々纏めて面倒見てくれって事かな?」
笑いながらそんな事を言われてしまった為、美実はもう苦笑する事しかできなかった。
「うわ……、さり気なく子守依頼宣言まで。でも清々し過ぎて、反感の持ちようがありませんね」
「夫婦の形なんて色々だし、部外者の反応なんて一々気にしなくても良いだろ。もう少し体調も気分も落ち着いたら、相手と話してみたら良いさ。一番大事なのは、その結果を子供にどう伝えるかって事だろうし。美実ちゃんなら大丈夫だって」
これまで似た様な事を家族に言われた時には、その度に微妙な反感を覚えていた美実だったが、若干付き合いの浅い康太に言われたその台詞は、些か無責任な響きがあったものの、それほど変な反感を持たずに素直に聞き入れる事ができた。
「そうですね。そうします」
「それで、美実ちゃん。さっきの話はくれぐれも」
「分かってます。漏らしません。美子姉さんの雷が落ちるのは確実ですからね」
「うん。凄く頼りになるけど、時々お義姉さんの笑顔が、もの凄くおっかないんだよな……。安曇の世話を一通り叩き込んでからこの家を出て行って貰うと言われてるけど、どうなる事やら」
大きな身体を若干小さくしながら、戦々恐々と語った康太を見て、美実は我慢できずに噴き出してしまった。
「谷垣さんも、美子姉さんが怖いんですね」
「マジで、大蛇や虎に遭遇した時より怖い」
真剣極まりない義兄の表情を見て美実は再び盛大に笑い出し、ここ数日の鬱屈した気持ちも、それと同時に綺麗に吹き飛んでしまったのだった。