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第40話 ○○の中心で○○への愛を叫ぶ

「すみません、凄く助かりました。まさか裏からあっさり入れて貰えるとは、思っていなかったです」

 軽く見上げながら嬉しそうに礼を述べてきた美実に、飯島は引き攣り気味の笑顔で応じた。


「はあ……、上がどことどう話を付けたのか、私共にも詳細な所は分かりませんが……」

「妊婦ですし、まさか長時間待たせられませんよ。でも今年はこの時期で良かったですね」

「そうですね。普通だと三月の下旬開催だから、それだと完全に三十六週目に入ってしまうもの。そうなると、流石に主治医の先生も、人出の多い所への外出には良い顔をしなかったと思うし」

 にこやかに語り合いながら、会場内を歩いていく女性二人の一歩後を歩いていた飯島は、密かに心の中で呻いた。


(いや、今でもこういう場所に来ると分かってたら、止めたんじゃ無いだろうか?)

 しかしそんな心中など察する気配もない真紀は、くるりと背後を振り返って、彼に声をかけた。


「飯島先輩、次はあそこです。行きますよ」

「すみません、人寄せパンダならぬ人避けパンダっぽい役割をして頂く事になって……」

「いえ……、お役に立てて光栄です」

 ただでさえ、かなりお腹の目立つ美実と、スーツ姿の真紀と飯島の組み合わせは明らかに異端であり、会場に入った直後から遠巻きにされていた。そして飯島が眼光鋭く周囲を睥睨すると、その視線を避ける様に、忽ち人垣が左右に分かれる。


(もう余計な事は考えずに、さっさと終わらせよう)

 色々諦めた飯島は、目的のスペースまでの道が開けた事を確認して、美実達を促した。


「それでは藤宮様、どうぞ」

「ありがとうございます。手早く終わらせますね」

 美実も周囲の迷惑は認識しており、すぐに次の行動に移った。その背中を眺めながら、飯島はタイピン型のイヤホンマイクに囁く。


「移動、左十時方向十メートル、確認」

「……了解。それから会長がそちらに接近中」

「は?」

 しかし型通りの報告に、予想外の報告が返って来た為、飯島は一瞬、己の耳を疑った。


「ええと……、これとこれをお願いします」

 そして目的のブースで本を選んだ美実が会計をしていると、至近距離で交わされている会話の内容が聞こえてきた。


「ねえ、さっき会場に、着物姿の女の人が居たんだけど」

「はぁ? 何よそれ」

「ここはコスプレ禁止なのを知らなかったとか?」

「でも最近、着物姿のキャラっていたっけ?」

「覚えがないわ」

 そんな内容を耳にした美実は、ある可能性を考えて、僅かに顔を強張らせた。


(着物……。美子姉さん? まさかね。だってこれまでは、普通の格好で来てたし……)

 思わず足を止めて考え込んだところで、異常を察した真紀が声をかけてくる。


「美実さん、どうしましたか? どこか具合が悪いなら」

「ううん、ごめんなさい、何でもないの。次に行きましょうか」

 そこで飯島が、控え目に声をかけてきた。


「あの……、藤宮様。あちらを……」

「え? あちらって何……、げっ!?」

 彼が指差した方向に目を向けた美実は、思わず上擦った声を上げた。

 美実達に加えて完全正装の美子まで揃っては、周囲の者達の興味を引かないわけにはいかず、徐々に人垣ができ始める。


「美子姉さん!? こんな所でそんな格好で、一体何をやってるのよ?」

「あなたを連れ戻しに来たのに、決まっているじゃない。それに荒事になるかもしれないと思ったから、きちんと勝負服を選んで来ただけよ」

(勝負服の意味について、二重三重に突っ込みを入れたい)

(まさか俺達が、会長相手に荒事に及ばないといけないのか?)

 慌てて問い質した美実だったが、周囲の人目もなんのその、美子は堂々と出向いた理由を述べた。それを聞いた真紀と飯島が、内心で色々思いながらも無言で顔を見合わせる中、その二人の前に立つ美実は、気圧されながらも美子に向かって訴えた。


「その……、美子姉さん。私、まだ色々と加積さん達に聞きたい事があって……」

「まだ、気が済まないと、そういうわけ」

「……はい」

 弱々しい口調ながらも、しっかりと意見を述べた妹に、美子は目つきを険しくしながらも、冷静に話を進めた。


「それならきちんとあなたの口から、直に聞きたかったんだけど」

「何を?」

「どうしてそんなに、加積さんの本を書きたいの? 作家として名前を売りたいため?」

 真っ正面から問われて、美実は一瞬口ごもったものの、すぐに真剣な表情で口を開いた。


「それはそうだけど……、認めて貰いたいの」

「誰に」

「淳のお母さんに」

「……帰るわよ」

 正直に美実が口にした途端、美子が吐き捨てる様に言いながら足を踏み出し、空いている手で素早く美実の腕を取った。それを見た真紀と飯島が、慌てて二人の間に身体を滑り込ませる。


「すみません、美子様」

「申し訳ありませんが、それは」

「まだ帰らないから! お母さんには私の書いた本を読んでもらう事が出来なかったから、その分も淳のお母さんには認めて貰いたいの! それに美子姉さんは、昔から私がどんなに下手でもヘマしても褒めてくれたから、本当に褒めて貰える本を書くんだから!」

 二人は美実の腕から美子の手を引き剥がそうとしたが、突然美実が大声で主張した為、驚いて動きを止めた。同様に美子も目を瞬かせたが、次の瞬間、いかにも不愉快そうな表情になって呟く。


「私が……、今の今まで義理と欲目だけで、あなたを褒めていたとでも言いたいの?」

「そうは言ってないけど! だけど!」

 自分でもどう言って良いか分からないもどかしさを感じながら、美実が尚も言い募ろうとするのを、美子は溜め息を吐きながら手振りで止めた。


「……分かったわ。護衛が二人や三人なら力づくで何とかしようかと思って、幾つか持ってみては来たけど、さすがにこの人出だから、それ以上の人間が配置されているみたいだしね。取り敢えず、気の済むまでやって来なさい」

「『力づくで』って、一体何を持って来たんですか?」

「乱闘騒ぎにならなくて良かった……」

 美子の発言を聞いて、真紀は彼女が手にしている大きめのハンドバッグの中身を想像して戦慄し、飯島は安堵の溜め息を吐いた。すると美子が、再度美実に向かって声をかける。


「だけど、それならそれで、私に直接言わないといけない事があるわよね?」

「ええと……、その……。ご心配おかけして、誠に申し訳ございません! それにこれからも、ご迷惑をおかけします!!」

「分かっているなら話は早いわ。それなら、これからあなたがしないといけない事を、私がいちいち口にしなくても良いわね?」

「……お付き合いします」

「宜しい。付いて来なさい」

「はい」

 勢い良く頭を下げた美実と、高圧的な美子との間で話がついたらしく、美実はおとなしく美子の後に付いて歩き始めた。当然、真紀と飯島もその後ろに付いて歩き出したが、前を気にしながら真紀が詳細を尋ねる。


「あの……、美実さん? どういう事ですか?」

 その問いに、美実は飯島にも聞こえる様に囁き返した。


「実は美子姉さんも、春コミ常連者なんです。夏と冬のコミケにも出向いてますけど」

「はい?」

「私とは違う作品のファンで……。これまでも良く二人で、他の家族には内緒で出向いて来てるんです」

「そうでしたか……」

「姉が妊娠中も付き添いで来ましたし、姪が産まれた後は私が家で子守をして、姉が帰って来たら入れ替わりに出向いてました」

 飯島は(それなら勝負服云々言ってないで、せめて普通の服で来て下さいよ)と心の中で泣き言を言いながら、懸念を口にした。


「それは分かりましたが、どうして美子様の後に付いて行くんですか? 美子様は先程黙認する発言をされましたが、奥様達にお伺いを立てる事態になると、少々拙いのですが……」

「このままどこか外に出るわけではありません。この間心配をかけたお詫びに、自分の欲しい同人誌ホンを買えと言う事です」

「それなら私達的には助かりますが……。それで宜しいんですか?」

「美子姉さんが何も言わないし、宜しいんじゃないでしょうか?」

「了解しました」

 この姉妹にはもう何も言うまいと飯島は心に決め、黙って進んでいくと、すぐに美子が立ち止まった。


「さあ、美実。手始めにあそこね?」

 指さされたスペースを確認した美実だったが、それ以上動こうとしない姉に、戸惑った視線を向けた。


「ええと、それは分かったけど、どの本を買えば良いの? 選んで貰わないと」

「あら、決まってるじゃない。あそこのサークルの出品物全部、一部ずつよ」

「全部……」

 ひくっと頬を引き攣らせた美実に構わず、美子は淡々と言いつけた。

「ほら、グズグズしない。ここが終わったらここと、ここと、ここもよ?」

 いつの間にかパンフレットをバッグから取り出し、既にラインマーカーで丸を付けてある配置図を差し出して見せながら美子が指示した為、真紀が慌てて駆け出そうとした。


「分かりました! 取り敢えず、私が行って来ます! 全種類一部ずつですね!?」

「それなら、このエコバッグを持って行きなさい」

「……お借りします」

 すかさず冷静にハンドバッグから畳み込まれたエコバッグを手渡され、真紀は(確かに会長も常連者だわ)と納得した。そして真紀を見送った美実が、財布の中をのぞき込みながら、涙目でうなだれる。


「うぅ……、ぐ、軍資金が……」

「藤宮様、大丈夫ですか? あの、ここは私が立て替えておきますから」

「すみません、飯島さん」

 さすがに不憫になった飯島が申し出ると、彼の肩を軽く美子が叩いた。


「それなら、これをあなたに渡しておくわ」

「え? 何をでしょう?」

「こういう所では当然カードは使えないし、お釣りの準備も大変だから、大きなお札だと嫌がられるのよ。この封筒には千円札二十枚と五百円硬貨十枚、こっちには百円玉五十枚が入っているわ。お釣りが無いように購入。それがここでの暗黙の了解なの」

 そう説明をされながら、膨らんだ封筒を二つ差し出された飯島は、財布から一万円札を三枚取り出し、それと引き換えに封筒を受け取った。


「……ありがとうございます。こちら三万です」

「はい、確かに頂きました」

 ずしりと重い封筒を手にしながら、飯島は(そう言えば美実さんも、さっきから釣銭無しで会計を済ませていたな)と遠い目をしてしまった。

 それから指定された場所を全て回り終え、美子は満足そうに背後の三人を振り返った。


「これで全部回ったわね。美実、今日はどうもありがとう。これからは、また好きな所を回って良いわよ?」

「ええと……、それなら遠慮なく、そうさせて貰います。お父さん達に、くれぐれもよろしく」

「美実!!」

 冷や汗を流しながら美子に別れの挨拶をしていた美実だったが、その場に鋭い自分に呼びかける声が響いた為、慌てて声がした方に向き直った。すると人波を掻き分けるようにして、淳が猛然と走って来るのを認める。


「え? ……淳!?」

「あら、面倒なのが。このタイミングで来なくても良いのに」

 驚く美実の横で、美子が小さく舌打ちし、真紀と飯島は素早く彼女達の斜め前に回り込んで、不測の事態に対処するべく身構えた。そんな緊迫した状況の中、会場中を走り回って来たらしい淳が、息を乱しながら彼女達の前にやって来て、足を止めて叫ぶ。


「そんな身体で、こんな所で何をやってる! さっさと帰るぞ!」

 問答無用の気配を醸し出しながら美実に手を伸ばした淳だったが、すかさず飯島がその腕を掴み、真紀が二人の間に身体を滑り込ませる。


「小早川様、それは困りますのでお引き取りを」

「美実さん、こちらに来てください」

「五月蠅い、お前らは引っ込んでろ! 邪魔する気なら、纏めて叩きのめすぞ!」

「淳、こんな所で騒ぎを起こすな!」

 背後から追い付いた秀明も一緒になって、一触即発の状態の淳と飯島を引き剥がそうとする混沌とした状況の中、美実は慌てて淳を宥めようとした。


「ちょっと待って、淳! 二人とも私の付き添いをしてくれてるのよ? 乱暴はしないで!」

 その主張に全く納得できなかった淳は、盛大に噛み付いた。


「なんだと? こいつらはどのみち誘拐犯の一味だろうが! どこに気遣う必要がある?」

「だから、どうして誘拐犯なんて言うのよ!」

「現に、お前が帰って来ないだろうが!」

「だって加積さんへの取材が、まだ終わってないんだもの!」

「そんな物はどうだって良いだろ!」

 それは淳にしてみれば当然の言い分だったのだが、美実は到底納得できなかった。


「どうでも良くないわよ、これは立派な仕事なのよ!?」

 悉く言い返され、これまで色々溜め込んでいた淳は、そこで腹立ち紛れに叫んだ。


「お前って奴は! その頭で、少しはまともに考えろ! 第一、お前は俺と仕事の、どっちが大事なんだ!?」

「そんなの仕事に決まってるじゃない!! 当たり前でしょう!?」

 完全に売り言葉に買い言葉状態で美実が絶叫した瞬間、その場に微妙な沈黙が満ちた。そして静まり返った事で我に返った美実が、恐る恐る口を開く。


「あの……、その、今のは……」

「……何だと? ふざけるなっ!!」

「……っ!?」

 淳の剣幕に、美実が目を見開いて全身を強張らせ、無意識に飯島と真紀が彼女を庇う体勢になる。そんな中、淳の怒声が続いた。


「この無神経女! 今まで俺がどれだけ、ぐあっ! ……なっ、何!?」

「美子!?」

「藤宮様!?」

 淳が憤怒の形相で美実を非難する叫び声を上げた瞬間、彼の頬にかなりの衝撃の一撃がお見舞いされた。しかもそれが拳では無く、草履の裏で殴打された為、美実を初めとしてそれを目にしたその場全員が、一人残らず絶句する。

 しかし張本人の美子は、右手に握っていた草履を床に置き、何事も無かったかのように履き直してから、淳に冷え切った視線を向けた。


「ごめんなさいね。あなた如きを殴るのに、自分の手を使うのが勿体なかったものだから」

「何が『ごめんなさい』だ! しかも手を使うのが勿体ないって、人を馬鹿にするのもいい加減に」

「あなた、自分の仕事に誇りを持って無いの?」

「いきなり何を言い出す」

 抗議の台詞を遮りながら、美子が唐突に口にした内容を聞いて、淳は取り敢えず怒りを抑え、訝しげな表情になった。すると美子が冷静に話を続ける。


「それなら分かり易く言ってあげるけど、あなたは美実と仕事のどちらが大事かと尋ねられたら、美実の方が大事だと、即答できるわけ?」

「……っ、それはっ!」

 僅かに顔色を変えて淳が口ごもると、美子は不敵に微笑んでみせた。


「良かった。底無しの馬鹿じゃなくて。これで『美実の方が大事に決まってる』とか平気でほざく、脳内がお花畑か綿菓子頭の持ち主だったら、今度は右頬を草履で叩いてやらないといけないところだったわ」

 その口調から、彼女の紛れもない本気を悟った真紀は、無意識に口走った。


「何それ……、やっぱり会長って怖い……」

「しっ! 菅沼、黙ってろ!」

 当事者達を刺激しないように、飯島が小声で窘める中、美子の声が響いた。


「無条件に美実を優先できないなんて当然よ。仮にあなたが仕事で出廷中に、美実が危篤なんて事になっても、容易に連絡は取れないし、その場で仕事を放り出す訳にもいかないわ。自分の仕事に誇りと責任を持っているなら、当然の事よ。時と場合によりけりでしょうね」

「…………」

 すこぶる冷静に指摘した美子に淳は無言だったが、ここで彼女は微妙に口調を変えた。


「それなのに、あなたはさっき美実に対して、無条件に仕事より自分を取れって言ったも同然よね? そんな自分でも一概に比較できないような事を、相手には強要するなんて」

「いや、俺は強要したつもりは!」

「それとも? あなたは自分の仕事は法律に係わる、社会的にも認められた崇高な仕事だけど、それに対して美実の仕事は、誰が見ても取るに足らない、掃いて捨てる様などうでも良い、つまらない仕事だとでも言うつもり?」

 狼狽気味に弁解しようとした淳の台詞を遮り、美子が凄んでみせると、ここで彼女の背後で涙目になった美実が、嗚咽を漏らした。


「ふっ、……うっ、……うぇっ、……っ」

「藤宮様!? 大丈夫ですか?」

「美実さん、このハンカチを使って下さい!」

 飯島と菅沼が慌てて美実の顔を覗き込みながら声をかけ、淳と秀明も焦ったように呼びかけた。


「だから俺は、何もそこまで言ってないだろ!」

「美実ちゃん! 淳はそんな事を思っては」

「黙って。まだ話は終わって無いのよ」

「…………」

 そこで美子が鋭く男達の口を封じてから、簡潔に結論を述べた。


「何かと、誰かと比較して、自分の優位性を確認したいだなんて、精神的に子供と言われても文句は言えないわよね。はっきり言わせて貰えれば、そんな人間に妹を渡すつもりは無いのよ」

「おい、美子」

 さすがに秀明が淳を庇おうとしたが、美子は容赦なく言い放った。


「さっきので、顔に汚れが付いているわ。文字通り顔を洗って、ついでに頭を冷やして出直しなさい」

「…………」

 その宣言に、淳は無言のまま表情を消して美子を見返したが、彼女はそれを無視して背後を振り返った。


「あなた達は行きなさい。この人達に邪魔はさせないわ」

「はあ……、それでは失礼します」

「美実さんは、責任を持って、お屋敷まで送り届けますので」

 内心(これで良いんだろうか?)と、微動だにしない淳達を横目で窺いながら、美実を促して歩き出した飯島達だったが、数歩も行かない所で、背後から美子が声を投げかけてきた。


「そうそう。言い忘れていたけど、今後は美実に週に一度は、家に電話をかけさせるように話を通して頂戴。家族が心配しているのでね」

「ですが、それは……」

 反射的に足を止めて振り向いた飯島だったが、彼に美子が笑いかける。


「そうでないと、美樹を連れて、連日公社に押し掛けますよ? 小野塚さんがいらっしゃらない時は、他の方に美樹の相手をお願いしますね?」

 それを聞いた瞬間、飯島は深々と彼女に向かって頭を下げた。


「分かりました。加積様にきちんと話を伝えておきます」

「宜しくお願いします」

 そして満足そうに頷いた美子に背を向け、再び美実に付き添って歩き出した飯島は、かなり険しい表情でマイクを口元に寄せて囁いた。


「聞いたな? すぐに部長に報告を上げろ。小野塚部長補佐から、加積様に話を通して貰え」

「……了解」

 そして人目を引く三人がその場を離れ、忽ち興味本位な人垣が崩れて周囲に再び喧騒が戻ったところで、美子はいつの間にか当事者の片方が姿を消していた事に気が付いた。


「あなた、小早川さんは?」

「おとなしく帰った」

 それを聞いた美子が、意外そうな表情になる。


「少しは文句を言うかと思ったのに。それに、あなたは付いていなくて良いの?」

「今は一人の方が良いだろう。あいつも反省してるから、これ以上は責めるなよ?」

「分かったわ。帰るからこれを運んで頂戴」

「了解」

 夫婦でそんな風に話が纏まり、秀明が苦笑しながら足元に置かれていた膨らんだエコバッグを持ち上げ、二人は会場を後にした。



「お帰りなさい、美実さん。どう? 楽しんできた?」

 加積邸に無事戻り、美実が挨拶に出向くと、桜が笑顔で尋ねてきた。それに美実は、なんとか笑顔を取り繕って報告をする。


「はい……、ちゃんと気分転換できました。それではちょっと、部屋で休んでいますので」

「ああ、疲れが残るといけないからな」

 加積も鷹揚に頷いた為、美実は改めて付き添ってくれた二人に礼を述べた。


「飯島さん、真紀さん。今日は色々、ありがとうございました」

「いえ、何事も無くて良かったです」

「お疲れ様でした」

 そして美実が部屋に引き取ってから、桜がその場に残っていた二人に、若干険しい表情で尋ねた。


「今日は外出先で何かあったの? 何だか美実さんの表情が冴えなかったけど」

 同様の事は加積も察しており、夫婦揃って問いかける視線を向けた。対する飯島は、慎重にお伺いを立てる。


「公社の方から、こちらに連絡が来ておりませんか?」

「今日はまだ何もきていない」

「そうですか」

 それを聞いて、思わず溜め息を吐いた飯島だったが、ここで真紀が鼻息荒く訴えた。


「加積様、聞いて下さい! あの男、頭ごなしに美実さんを叱りつけて、言うに事欠いて!」

「おい、菅沼!」

 その叫びを飯島が慌てて遮ろうとしたが、真紀は憤然として言い募る。

「だって遅かれ早かれ連絡は来るんですから、今ここでぶちまけたって構わないじゃ無いですか!?」

「お前の主観が入りまくりの報告なんか、できるわけ無いだろうが!」

「それならあなたが報告してくれれば良いわよね?」

「え? ですが、それは……」

 のんびりと口を挟んできた桜に、飯島が思わず口ごもると、加積も薄笑いをしながら有無を言わせぬ口調で促した。

「そうだな。君の口から、是非詳細な報告を頼む」

「……畏まりました」

 そして飯島は、まだ怒りが収まらない後輩を恨めしげに見やってから、客観的な事実関係だけを加積達に報告したのだった。


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